第41話 それは終わりのない戦い
夜が更けていく。
窓の外は漆黒の闇。
部屋の中には、ランプの灯りと、私の荒い呼吸音だけが満ちていた。
「……っ、うぅ……!」
波が来た。
お腹の底から、巨大な万力で締め上げられるような圧力。
痛み、という言葉では生温い。
腰の骨を、内側からハンマーで砕かれているような感覚だ。
私はシーツを握りしめ、歯を食いしばった。
叫んではいけない。
叫ぶと体力を消耗する。酸素が赤ちゃんに行かなくなる。
マーサさんに言われたことを、必死に頭の中で反芻する。
『息を吐くんだよ! 長く、細く!』
「ふぅぅぅぅ……っ、ぅぅ……」
痛い。痛い。痛い。
理性が削れていく。
私の得意な「分析」も「効率化」も、この圧倒的な暴力の前では何の意味もなさない。
「リリアーナ! ここだ、私の手を見ろ!」
耳元で、サイラス様の必死な声がする。
視界が白く霞む中、彼の手が私の手を強く握りしめているのが分かった。
「……さ、サイラス、様……」
「頑張れ。息を吐け。私がついている」
彼はもう一方の手で、私の背中をさすり続けている。
ずっとだ。
陣痛が始まってから数時間、彼は一瞬も休まず、私の腰を押し、汗を拭い、水を飲ませてくれている。
その手だけが、今の私を繋ぎ止めるアンカーだった。
波が引いていく。
ふっと、痛みが遠のく瞬間。
私は泥のように枕に沈み込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
「水だ。飲めるか?」
ストローが口元に差し出される。
私は本能的に吸い込んだ。
冷たい水が喉を通る。生き返る心地がした。
「……ありがとうございます」
「礼などいい。……あと、どれくらいだ?」
サイラス様が、足元に控えるマーサさんに問う。
その声は苛立ちと焦燥で震えていた。
「まだだよ」
マーサさんは冷静に、私の体の状態を確認しながら答えた。
「子宮口は八センチ。あと一息だが、赤ん坊が降りてこないねえ。……頑固な子だ」
「まだか! もう六時間も苦しんでいるんだぞ!」
「初産なら平均的さ。一日かかることだってある」
一日。
その言葉に、目の前が真っ暗になった。
この地獄が、あと何時間続くのか。
私の体力は、もう底をつきかけている。
ズン……。
休む間もなく、次の波の予兆が来た。
早い。間隔が短くなっている。
「……き、来ます……っ!」
「よし、来い! 私が受け止める!」
サイラス様が私の体を支える。
激痛。
さっきよりも強い。
腰が割れる。内臓がねじ切れる。
「あぁぁぁぁッ!!」
堪えきれず、悲鳴が漏れた。
獣のような声だ。
自分がこんな声を出せるなんて知らなかった。
宰相夫人としてのプライドも、知性も、すべてかなぐり捨てて、ただ痛みにのたうち回る。
「リリアーナ! しっかりしろ!」
「い、痛い……もう、無理……助けて……」
弱音が溢れる。
もう辞めたい。
逃げ出したい。
でも、お腹の中の異物は、容赦なく出口を求めて暴れ回る。
サイラス様の顔が歪んだ。
私の苦悶の表情を見て、彼の中で何かが切れたようだった。
「……もう見ていられん!」
彼の手のひらに、青白い光が集まる。
膨大な魔力。
「痛覚遮断をかける! 私の全魔力を使えば、感覚をゼロにできる!」
「おやめ!」
マーサさんが鋭く制した。
「魔法で感覚を消せば、いきむタイミングが分からなくなる! それに、そんな強力な干渉魔法、赤ん坊の魔力回路を焼き切るつもりかい!?」
「だが! このままではリリアーナが壊れてしまう!」
「女はそんなに柔じゃないよ! あんたが狼狽えてどうする!」
怒号が飛び交う。
でも、今の私にはそれすら遠い世界の出来事のようだ。
痛い。
ただ、それだけ。
(……ごめんなさい、サイラス様)
私は心の中で謝った。
貴方に、こんな無様な姿を見せてしまって。
貴方を、こんなに苦しませてしまって。
私は彼の服の袖を掴んだ。
強く引く。
「……魔法は、駄目です」
掠れた声で告げる。
「レンのために……耐えます……」
「リリアーナ……」
「だから……手を……離さないで……」
それだけが、私の願いだった。
魔法はいらない。
効率的な解決策もいらない。
ただ、貴方の体温が欲しい。
貴方がここにいて、私と共に戦ってくれているという事実だけが、私を狂気から救い出してくれる。
サイラス様は、魔力を散らした。
そして、私の手を両手で包み込み、額に押し当てた。
「……すまない。私は無力だ」
彼の涙が、私の手に落ちた。
「代わってやりたい。この痛みを全部、私が引き受けたいのに……!」
「……貴方が、そばにいてくれるだけで……十分です」
嘘ではない。
彼の存在がなければ、私はとっくに心を閉ざしていただろう。
「ふーっ、ふーっ……」
呼吸を整える。
痛みは去った。
でも、すぐにまた来る。
マーサさんが私の汗を拭きながら、低く言った。
「奥様。赤ん坊も頑張ってるよ。……どうやら、あんたらの子は力が強すぎて、自分で産道に突っかかってるみたいだ」
「え……?」
「無意識に『身体強化』を使って踏ん張ってやがる。……まったく、とんだ暴れん坊だね」
マーサさんは苦笑いした。
身体強化。
お腹の中で、レンも戦っているのだ。
外に出ようとして、でも上手くいかなくて、もがいている。
(……馬鹿な子)
愛おしさが込み上げる。
パパに似て、不器用で力任せなのね。
「レン……力を抜いて」
私はお腹に語りかけた。
「怖くないわ。ママもパパも、ここにいるから。……一緒に頑張りましょう」
次の波が来る気配がした。
今度は、もっと大きな波だ。
最後かもしれない。
「旦那、奥様の上半身を支えな! 次で決めるよ!」
マーサさんの声が戦闘モードに切り替わった。
サイラス様が私の背後に回り込み、体を起こして支えてくれる。
彼の心臓の音が、背中越しに伝わってくる。
力強い、命の音。
「よし……来い!」
私は覚悟を決めた。
もう「宰相補佐官」ではない。
ただの「母親」として、この戦いに勝つ。
激痛が走る。
でも、今度は負けない。
この痛みの向こうに、会いたい人がいるのだから。
「んんんーーーーっ!!」
私は全ての力を、下腹部に込めた。
サイラス様が「頑張れ!」と叫ぶ声が聞こえる。
世界が白く弾ける。
長い夜が、明けようとしていた。




