第40話 その時は突然に
その日は、嘘のように穏やかな午後だった。
宰相公邸の裏庭。
芝生の上にテーブルセットを出し、私とサイラス様は向かい合って座っていた。
柔らかい日差しが降り注ぎ、小鳥のさえずりが聞こえる。
「……平和ですね」
私はティーカップを置き、大きく伸びをした。
臨月に入ったお腹は、スイカのように重い。
座っているだけでも腰が痛むが、クッションを三枚重ねて調整しているおかげで、今は快適だ。
「ああ。風も心地よい」
サイラス様が目を細める。
彼は今日、休暇を取っていた。
「いつ生まれてもいいように」という理由で、ここ数日は在宅勤務に切り替えているのだ。
「予定日まで、あと二週間か」
彼が私のお腹――レンがいる場所――を愛おしそうに見つめる。
「不思議だ。待ち遠しいのに、二人きりの時間が終わるのが少し寂しい気もする」
「ふふ。レンが生まれたら、今よりもっと賑やかになりますよ。寂しがっている暇なんてありません」
「そうだな。……オムツ替えの練習も完璧だ。いつでも来い」
彼は自信満々に胸を張る。
この数ヶ月、彼はマーサさんにしごかれ、人形相手に沐浴やおむつ替えの特訓を重ねてきた。
今やその手つきは、新米パパとは思えないほど手際が良い。
(準備は万端ですね)
私は心の中でチェックリストを確認した。
ベビーベッド、設置済み。
肌着、水通し完了。
入院セット、玄関に待機。
仕事の引き継ぎ、完了。
完璧だ。
あとは、二週間後の「Xデー」を待つだけ。
それまでは、こうして英気を養い、心身のコンディションを整える。
それが私のスケジュールだった。
そう。
スケジュール通りに行くはずだったのだ。
ズレた眼鏡を直そうと、手を上げた時だった。
パチン。
お腹の奥で、何かが弾ける音がした。
痛みはない。
風船が割れたような、あるいは太いゴムが切れたような、乾いた音と振動。
「……ん?」
私が動きを止めたのと同時に。
下腹部から、温かい液体が溢れ出した。
ドロリ、と。
自分の意志では止められない量が、太ももを伝って流れ落ちる。
(……え?)
思考が停止した。
お漏らし?
いいえ、トイレはさっき行ったばかりだ。
それに、この量は尋常ではない。
止めどなく流れる温かさ。
椅子のクッションが濡れていく感触。
私の脳内で、赤い警告灯が点滅を始めた。
検索キーワード:『臨月』『パチンという音』『液体の流出』。
検索結果:『前期破水』。
嘘でしょう。
だって、まだ二週間もあるのに。
何の予兆もなかったのに。
お茶を飲んでいただけなのに。
「……リリアーナ? どうした、顔色が……」
サイラス様が異変に気づき、身を乗り出した。
私は口を開いた。
声が震えないように、腹に力を入れて。
「閣下。……タオルを」
「タオル? こぼしたのか?」
「いいえ。……破水、しました」
時が止まった。
小鳥の声が消え、風の音も止んだように感じた。
サイラス様は、数秒間、ポカンとしていた。
言葉の意味を咀嚼している顔だ。
破水。
羊膜が破れ、羊水が出る現象。
すなわち、お産の始まり。
「……は、すい……?」
彼の顔色が、さっと青ざめた。
「は、破水!? 今か!? ここでか!?」
「はい。今です」
「だ、だが予定日は二週間後だぞ! 私の手帳にもそう書いてある! 計算間違いじゃないのか!?」
「人体はスケジュール通りには動きません!」
私は立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
羊水が出ると、お腹の位置が少し下がったような気がする。
胎動も激しくなった。
レンが、「さあ、出るぞ!」と準備運動を始めたようだ。
「ど、どうすれば……! 医者か!? 救急馬車か!? それともポテトか!?」
サイラス様がパニックになっている。
彼は魔導通話機を掴んだが、上下が逆だ。
これでは繋がらない。
「落ち着いてください、あなた! まずは私を寝室へ!」
「そ、そうか! 寝室!」
彼は椅子を蹴倒して私に駆け寄った。
私を抱き上げようとする手が、小刻みに震えている。
力が入らないようだ。
国一番の魔法使いが、ただの狼狽える夫になっている。
その時。
「どきな、役立たず!」
雷のような声が響いた。
庭の入り口に、仁王立ちする老婆。
マーサさんだ。
彼女は手拭いを引っ掴み、猛然とダッシュしてきた。
「ま、マーサ!」
「朝から奥様の顔が赤かったからね、そろそろだと思ってたよ!」
彼女はサイラス様を突き飛ばし、私の腰にバスタオルを巻き付けた。
手際が良い。
一瞬で応急処置が完了する。
「いいかい、旦那! しっかりな! 奥様を落としたら承知しないよ! 優しく、かつ迅速に二階へ運ぶんだ!」
「は、はいっ!」
マーサさんの一喝で、サイラス様に正気が戻った。
彼は深く息を吸い、覚悟を決めた顔で私を抱き上げた。
今度は震えていない。
力強い腕だ。
「……リリアーナ。すまない。少し揺れる。」
「お願いします」
私は彼の首に腕を回した。
世界が揺れる。
屋敷の中へ。
階段を駆け上がる。
使用人たちが「奥様!」「お湯を!」「医師団長へ連絡を!」と叫びながら走り回るのが見える。
日常が、崩壊していく。
いや、非日常への突入だ。
寝室のベッドに降ろされた。
マーサさんがテキパキと着替えを用意し、防水シートを敷く。
私はされるがままだ。
「さあ、奥様。ここからが本番だよ」
マーサさんが私の手を握り、力強く言った。
「破水から始まったってことは、陣痛はこれから来る。……痛くなるよ。覚悟はおし」
覚悟。
その言葉に、私の心臓がドクリと跳ねた。
まだ痛みはない。
ただ、お腹が張っているだけだ。
でも、これから来るのだ。
未知の痛みが。
命を賭けた戦いが。
(……怖い)
ふと、自分の手を見た。
震えていた。
止まらない。
寒さのせいではない。
武者震い?
いいえ、これは明確な恐怖だ。
私はこれまで、数々の修羅場をくぐり抜けてきた。
断罪イベントも、外交問題も、古代遺跡の暴走も。
でも、それらはすべて「対処法」があった。
「逃げる」という選択肢もあった。
でも、これだけは違う。
逃げられない。
代わってもらえない。
私自身の体で、この子を産み落とさなければならない。
「……リリアーナ」
横から、手が伸びてきた。
私の震える手を、大きな手が包み込む。
サイラス様だ。
彼はベッドの脇に膝をつき、私の目を見ていた。
その顔も、まだ少し青い。
でも、瞳には強い光があった。
「私は、ここにいる。……何もできないかもしれないが、絶対に離れない」
彼も怖いのだ。
愛する妻が、命がけの戦いに挑むのを、見ていることしかできない恐怖。
それでも、彼は逃げずにここにいる。
私は彼の手を握り返した。
ぎゅっと。
痛いくらいに。
「……はい。そばにいてください」
震えが少し収まる。
一人じゃない。
それだけで、勇気が湧いてくる。
ズン……。
お腹の奥で、重い痛みが走った。
来た。
最初の波だ。
私は大きく息を吐いた。
手帳はもう手元にない。
ここからは、マニュアルのない戦場だ。
「よし……来なさい、レン!」
私は天井を見上げた。
長い、長い夜が始まろうとしていた。




