第4話 自由の味と、終わらない責任
サイラス様が嵐のように去った後、会場には奇妙な空気が残された。
音楽は止まったまま。
数百人の視線が、ポツンと残された私に集中している。
私は鞄を持ち直した。
やるべきことは終わった。帰ろう。
そう思って一歩踏み出した瞬間、さっきまで私を遠巻きに嘲笑っていた令嬢たちが、わっと押し寄せてきた。
「リ、リリアーナ様! 素晴らしかったですわ!」
「あの冷静な対応、感動いたしました!」
「私、最初からリリアーナ様こそが被害者だと信じておりましたのよ?」
扇子で口元を隠しながら、猫なで声で擦り寄ってくる。
手のひらを返す早さに、ある種の感心すら覚える。
彼女たちにとって、私はもう「捨てられた可哀想な女」ではなく、「宰相閣下に一目置かれた重要人物」に格上げされたらしい。
私は眼鏡の位置を直し、淡々と答えた。
「恐れ入ります。ですが、まだ残務がありますので」
それ以上は何も言わず、私は会釈をしてその場を離れた。
彼女たちの引きつった笑顔を背後に感じながら、大扉を出る。
夜風が、熱を持った頬に心地よかった。
馬車に乗り込み、シートに身を沈める。
ガタゴトと車輪が回り出す音を聞きながら、私はようやく大きく息を吐いた。
「……終わった」
終わったのだ。
十年間の、王太子婚約者としての責務が。
もう、殿下の機嫌を伺う必要はない。
理不尽な呼び出しに怯える夜もない。
完璧な王妃になるための、息詰まるような教育もない。
馬車の窓から、流れる王都の灯りを眺める。
いつもと同じ景色なのに、なぜか今日は少しだけ輝いて見えた。
*
翌朝。
小鳥のさえずりで目が覚めた。
時計を見る。午前五時半。
目覚ましが鳴る三十分前だ。
いつもなら「あと五分だけ……」と布団にしがみつくところだが、今日の目覚めは驚くほどスッキリしていた。
体が軽い。
万年肩こりのような重さが消えている。
「……そうか、もう王宮に行かなくていいんだ」
ベッドの上で独り言ちる。
婚約破棄されたのだから、私はただの侯爵令嬢に戻る。
登城の義務はない。
今日からは、一日中パジャマで読書をしていても、誰にも文句は言われないのだ。
私は伸びをして、サイドテーブルのベルを鳴らした。
すぐに侍女のマリアが入ってくる。
「おはようございます、お嬢様。……昨夜の件、旦那様から伺いました」
マリアが心配そうに私を見る。
私は微笑んで首を振った。
「大丈夫よ、マリア。むしろ清々しているわ。……朝食の支度をお願い。それと、外出用のドレスを」
「え? 外出ですか? 今日はゆっくりなさるのでは……」
「王宮に行くわ」
マリアが目を丸くした。
「王宮へ!? で、ですが、あんなことがあった翌日に……殿下とお顔を合わせるのも辛いのでは?」
私はベッドから降り、手帳を開いた。
そこには、今日の日付で『引継ぎ資料作成』『私物回収』『最終経費精算』と書かれている。
「辛くても、仕事は残っているもの」
私は万年筆を指で回した。
「私が急にいなくなったら、財務局のシステムが止まるわ。それに、私の机にはまだ私物が残っているし、殿下の執務室の金庫の鍵も私が管理しているのよ」
バックレる、という選択肢は私の辞書にはない。
立つ鳥跡を濁さず。
完璧に業務を引き継ぎ、誰にも文句を言わせずに去る。
それが、私の最後のプライドだ。
「さあ、急いで。始業時間に遅れたら、元婚約者として示しがつかないわ」
*
一時間後。
私はいつもの地味な紺色のドレスを着て、王宮の廊下を歩いていた。
いつもと違うのは、周囲の反応だ。
すれ違う衛兵たちが、直立不動で敬礼をしてくる。
いつもなら陰口を叩く文官たちが、壁際に寄って深々と頭を下げる。
まるで、王族が通る時のようだ。
(……昨夜の件が、もう広まっているのね)
サイラス様が介入したインパクトは絶大だったらしい。
私は「宰相案件」として、アンタッチャブルな存在になったようだ。
まあ、仕事がしやすくて助かる。
慣れ親しんだ西棟の執務室へ向かう。
ドアノブに手をかけ、押し開ける。
「おはようございます」
私が声をかけると、中にいた数人の文官たちが、弾かれたように振り返った。
彼らは私の顔を見ると、ほっとしたような、それでいて泣きそうな顔をした。
「リ、リリアーナ様……! 来てくださったのですか!」
「てっきり、もう二度といらっしゃらないかと……」
「第三騎士団の請求書がまた間違っていて、僕たちではどうにも……!」
早速、泣きつかれた。
やはり私がいないと、この部署は一日で崩壊するらしい。
私は苦笑しながら、自分のデスクへと歩み寄った。
「今日で最後ですから、しっかり引き継ぎますよ。……さて」
私は自分の椅子に座ろうとして、動きを止めた。
綺麗に整頓された机の上に、一枚のメモが置かれている。
上質な厚紙に、見慣れた流麗な筆跡で、たった一行。
『出仕次第、直ちに宰相執務室へ来られたし。 サイラス』
私はメモを手に取り、眉をひそめた。
宰相執務室。
王宮の心臓部であり、最も近寄りがたい場所。
昨夜の「相応しい場所」発言が頭をよぎる。
まさか、昨夜の騒動の始末書を書かされるのだろうか。
それとも、地方の窓際部署への異動辞令だろうか。
どちらにせよ、呼び出しを無視するわけにはいかない。
私はため息をつき、まだ座ってもいない椅子から離れた。
「……ごめんなさい、みんな。少し行ってきます」
同僚たちの「生きて帰ってくださいね」という視線を背中に受けながら、私は再び廊下へと出た。
手帳を握りしめる手に、少しだけ力が入る。
自由への道のりは、思ったよりも遠いらしい。




