第39話 名前という名の最難関クエスト
日曜日。
宰相公邸のリビングルームは、作戦司令室のような空気に包まれていた。
部屋の中央には、大型の黒板(魔法で文字を消せる魔導具)。
テーブルの上には、分厚い革表紙の歴史書、神話体系図、そして大陸全土の植物図鑑が山積みにされている。
私とサイラス様は、テーブルを挟んで対峙していた。
議題は一つ。
我が子に与える、「名前」の決定についてだ。
「……閣下。確認ですが、これは本気ですか?」
私は黒板を指し棒で叩いた。
そこには、サイラス様の流麗な筆跡で、候補名がびっしりと書き連ねられている。
『ギルガメスフリード(初代国王)』
『ヴァルカス(始祖竜)』
『ジークアクス(勇者)』
……歴史の教科書の目次だろうか。
「大真面目だ、リリアーナ」
サイラス様は腕を組み、真剣な眼差しで答えた。
「我が子は、規格外の魔力を持って生まれてくる。その器に見合うだけの、重厚で、歴史ある名前が必要だ。名前負けしないよう、言霊の力を借りるのだ」
「重すぎます」
私は即座に切り捨てた。
「ギルガメスフリード? 綴りが長すぎます。学校の試験で名前を書いている間に、他の子は一問目を解き終わっていますよ」
「む……確かに、筆記速度のロスは盲点だった」
私は黒板消しを手に取り、候補を次々と消していった。
事務処理能力の無駄遣いだ。
「もっと、呼びやすくて、親しみやすい名前にすべきです。日常的に使用するのですよ?」
「だが、あまりに平凡な名前では、舐められるかもしれん」
「誰にですか」
「近所の悪ガキとか、帝国の皇子とかに」
サイラス様はまだ、ルーカス皇子のことを警戒しているらしい。
過保護パパの思考回路は複雑だ。
「では、女の子の場合はどうだ?」
彼は気を取り直し、別のリストを指差した。
『シルフィード(風の精霊王)』
『イグニス(炎の精霊王)』
『アクエラ(水の精霊王)』
「……精霊界に行きましたね」
私はため息をついた。
彼の中では、子供は精霊王になる予定らしい。
「閣下。名前は、親から子供への最初のプレゼントです。願望を押し付けるのではなく、その子がどう生きてほしいか、願いを込めるべきです」
「願い、か……」
サイラス様は顎に手を当て、考え込んだ。
「私は、あの子に……幸せになってほしい。誰からも愛され、健やかに育ってほしい。……それだけだ」
憑き物が落ちたように、彼は素直な言葉を吐いた。
それが本心だろう。
英雄になってほしいわけでも、精霊王になってほしいわけでもない。
ただ、幸せであればいい。
「ならば、シンプルにいきましょう」
私は新しいチョークを手に取った。
黒板の余白に、二つの名前を書く。
『Cyrus』
『Liliana』
「私たちの名前です。ここから、音をもらいませんか? 二人の子供であるという証として」
「……なるほど。二人の結合か」
サイラス様の目が輝く。
彼は立ち上がり、黒板の前に並んだ。
「私の『サイ』と、君の『リ』で……『サイリ』? 少し古風だな」
「では、君の『ラス』と、私の『リア』で……」
私たちは、パズルのように文字を組み合わせた。
古代語の意味も考慮しつつ、いくつもの候補が出ては、消えていく。
そして。
ある一つの組み合わせが、ふと目に留まった。
「……男の子なら、『リアス(Lias)』はどうでしょう」
私は書いた。
私の『Li』と、彼の『as』。
「リアス。……古代語で『絆』という意味もある。悪くない」
「女の子なら……『サーラ(Sala)』」
彼の『Sa』と、私の『la』。
「サーラ。……南方の言葉で『優しい風』だ。君の属性とも相性がいい」
二つの候補が並んだ。
『リアス』と『サーラ』。
英雄の名前のような派手さはない。
でも、呼んでみると、口の中に温かい余韻が残る。
「……どう思う? お前は」
サイラス様が、私のお腹に顔を近づけた。
私も、お腹を優しく撫でる。
「聞いていますか? パパとママが考えた名前ですよ」
呼びかけてみる。
「リアス?」
……シーン。
反応はない。
お気に召さないのだろうか。それとも寝ているのか。
「サーラ?」
……シーン。
やはり動かない。
「……駄目か。センスが悪いと言われているのかもしれん」
サイラス様が肩を落とす。
しょんぼりする姿が、大型犬のようだ。
私は苦笑し、テーブルの上の植物図鑑を何気なくめくった。
その時。
あるページの花が目に留まった。
北の山岳地帯――あの聖地周辺にも咲いていた、白く可憐な花。
「……『レン(Ren)』」
私の呟きに、サイラス様が顔を上げた。
「レン? ……ああ、『レン花』か」
「はい。雪の中でも枯れず、泥の中でも美しく咲く花。……花言葉は『清らかな心』と『困難に打ち勝つ強さ』」
強さと、清らかさ。
どんな環境でも、自分らしく生きてほしい。
そんな願い。
音の響きも、私たちの名前の中にある『R(流れるような音)』と『N(終わりの音)』を含んでいて、しっくりくる。
「レン、か。……中性的だが、いい響きだ」
サイラス様が、お腹に向かって呼びかけた。
「おい。……レン」
ドコッ!!
その瞬間。
お腹の中から、強烈なキックが返ってきた。
今までで一番強い、明確な反応。
私の体が揺れるほどの衝撃だ。
「うっ……! い、痛いくらいです」
「は、反応した! 今、反応したぞ!」
サイラス様が子供のようにはしゃぐ。
「気に入ったのか? レンがいいのか?」
ポコ、ポコポコッ!
まるで肯定するように、リズミカルな連打が返ってくる。
お腹の中で、子供が踊っているようだ。
「……決定ですね」
私はお腹をさすりながら、微笑んだ。
性別はまだ分からない。
でも、『レン』なら、男の子でも女の子でも通用する。
シンプルで、呼びやすくて、そしてこの子が選んだ名前。
「レン・フォン・アイゼンガルド。……素晴らしい名だ」
サイラス様が、黒板の真ん中に、大きくその名を書き込んだ。
英雄の名前よりも、ずっと輝いて見える。
「よろしくな、レン。……パパとママは、お前に会える日を楽しみにしているぞ」
彼は愛おしそうに、黒板の文字を指でなぞった。
その背中を見て、私は確信した。
この子はきっと、幸せになる。
こんなにも愛され、待ち望まれているのだから。
私は手帳を開き、新しいページに書き込んだ。
『決定事項:子供の名前=レン』。
それは、どんな公文書よりも、私にとって重要な記録となった。
窓の外では、夕焼けが王都の空を茜色に染めていた。
忙しい一日は終わる。
でも、私たちの準備は、まだ始まったばかりだ。




