第37話 胎動は最初のコミュニケーション
カツ、カツ、カツ。
静かな寝室に、万年筆の音だけが響く。
妊娠六ヶ月。
いわゆる安定期に入り、私の体調は驚くほど回復した。
つわりは消え、マタニティブルーの嵐も過ぎ去った。
食欲も戻り、医師団長からも「順調すぎて怖い」とお墨付きをもらっている。
私はベッドの上に簡易デスクを置き、書類仕事に復帰していた。
もちろん、完全復帰ではない。
マーサさんによる厳格な労働時間規制(一日四時間まで)の下での、在宅勤務だ。
「……ここの予算配分、非効率ですね」
私は赤ペンで修正を入れる。
久しぶりに使う頭脳。
錆びついていた歯車が、油を差されて滑らかに回り出す快感。
やはり私は、仕事をしている時が一番落ち着く。
ふと、隣を見る。
ベッドの脇に設置された執務机で、サイラス様もまた書類と格闘していた。
彼は時折、チラリとこちらを見る。
「無理はしていないか」「水はあるか」という無言の確認だ。
過保護は相変わらずだが、それも心地よい日常の一部になりつつある。
その時だった。
ポコッ。
お腹の奥で、奇妙な感覚があった。
痛みではない。
何か、小さな気泡が弾けたような、あるいは小魚が跳ねたような感触。
(……ん?)
私はペンを止めた。
今の動きはなんだろう。
昼食の消化不良だろうか。
それとも、腸内にガスが溜まっているのだろうか。
(だとしたら、少し恥ずかしいですね)
私は無表情を装い、再び書類に目を落とした。
生理現象なら無視するのが一番だ。
ポコッ。
ニュルン。
まただ。
今度は、内側から壁をなぞられるような、むず痒い感覚。
私は眉を寄せた。
位置がおかしい。
胃や腸の場所よりも、もっと下。
子宮のある位置だ。
まさか。
私の脳内で、育児書の情報が検索される。
『妊娠十六週から二十週頃、最初の胎動を感じる』。
時期は合致する。
「……あ」
私は思わずペンを落とした。
コロコロと転がる音が、静寂を破る。
「リリアーナ!?」
ガタッ!
サイラス様が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
彼は一瞬でベッドサイドに駆け寄り、蒼白な顔で私を覗き込んだ。
「どうした! どこか痛いのか!?」
「大丈夫です。落ち着いてください」
「ペンを落としただろう! 君がペンを落とすなんて、よほどの緊急事態だ!」
鋭い洞察力だ。
でも、今は緊急事態の種類が違う。
「閣下。……手を」
「手? 医者を呼ぶか? それともポテトか?」
「いいえ。貴方の手を、ここに」
私は彼の手を取り、自分のお腹――膨らみの目立ち始めた下腹部へと導いた。
サイラス様は恐る恐る、大きな掌を私の腹部に密着させた。
彼の手は温かく、少し震えている。
「……じっとしていてください」
「……ああ。だが、何が……」
「静かに」
私たちは呼吸を潜めた。
部屋には時計の秒針の音だけが響く。
シーン。
何も起きない。
サイラス様が困惑したように私を見る。
気のせいだったのだろうか。
やはり、ただのガスだったのか。
そう疑いかけた、次の瞬間。
ドンッ!
明確な衝撃。
内側から、誰かがノックした。
それも、遠慮がちな挨拶ではない。
「ここにいるぞ!」と主張するような、力強い一撃。
サイラス様の目が、極限まで見開かれた。
彼は呼吸を止め、固まった。
「……い、今……」
彼の声が震える。
「動いた……のか?」
「はい。……蹴られました」
私はお腹をさすった。
驚きと共に、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
これまで、妊娠は「数値」と「体調変化」でしか認識できていなかった。
つわりの苦しみ、膨らむお腹、医師の診断。
それらは全て、私自身の身体の変化だった。
でも、今は違う。
ここには「私ではない誰か」がいる。
自分の意志で動き、手足を伸ばし、私たちに合図を送ってくる、別の生命体。
「……すごい」
サイラス様が、呻くように言った。
彼は膝をつき、私のお腹に額を押し当てた。
「生きている……。本当に、ここにいるんだな」
彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
私の寝間着に染みが広がっていく。
「こんにちは。……パパだぞ」
彼が震える声で話しかける。
「聞こえるか? 君に会えるのを、ずっと待っているんだ」
ドンッ、ドンッ!
まるで返事をするように、お腹の子が連続して動いた。
サイラス様が「うわっ」と声を上げ、それから破顔した。
涙でぐしゃぐしゃの、子供のような笑顔。
「返事をした! リリアーナ、聞いたか!? 私に返事をしたぞ! 天才かもしれない!」
「……ええ。元気なお返事でしたね」
私は苦笑しながら、彼の手の上に自分の手を重ねた。
親バカの始まりだ。
まだ産まれてもいないのに。
でも、不思議だ。
さっきまで「予算配分」を考えていた私の頭の中は、今やこの小さな鼓動のことで埋め尽くされている。
効率など関係ない。
論理も必要ない。
ただ、愛おしい。
(……初めまして、私たちの赤ちゃん)
心の中で呼びかける。
これは、最初のコミュニケーションだ。
一方的かもしれないけれど、確かに繋がった。
データではない、血の通った繋がり。
「……ねえ、あなた」
「なんだ」
「この子、思ったより力が強いです。魔力強化されているのかもしれません」
「ああ。将来は騎士か? それとも魔導師か?」
「どちらにせよ、ベビーベッドは頑丈なものを用意しないといけませんね」
私は手帳を引き寄せた。
仕事のページをめくり、新しいページを開く。
『ベビー用品開発計画』。
市販の柔なベッドでは、この元気な子を受け止めきれないかもしれない。
なら、作るしかない。
最高に安全で、機能的で、そして愛情たっぷりの環境を。
「閣下。週末は職人を呼びますよ」
「望むところだ。……だが、今はもう少し、このままで」
サイラス様は、私のお腹から離れようとしない。
幸せな重み。
私はペンを置き、彼と、お腹の中の小さな命を抱きしめた。
仕事は一時中断。
今は、この奇跡のような時間を、効率化せずに味わい尽くそうと思う。




