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【第4章スタート!】悪役令嬢は忙しい  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第36話 魔力酔いとマタニティブルー

 季節が巡り、窓の外の木々が色づき始めていた。

 妊娠五ヶ月。

 いわゆる「安定期」に入ったとされる時期だ。


 マーサさんの指導と、サイラス様の献身的な(そして過剰な)ケアのおかげで、地獄のような吐き気は去った。

 食事も美味しく摂れるようになった。

 お腹も少しふっくらとしてきて、妊婦らしい体型になりつつある。


 身体の調子は良い。

 本来なら、バリバリと仕事を再開できるはずだった。


 ポチャン。


 静かな部屋に、水滴の落ちる音がした。

 私の目から落ちた涙の音だ。


「……まただ」


 私は膝を抱え、薄暗い寝室の隅で小さくなっていた。

 時計の針は、18時15分を指している。

 定時は18時。

 サイラス様が帰ってくるはずの時間から、15分が過ぎていた。


 たった15分。

 王宮から屋敷までの馬車移動で、道が混んでいたのかもしれない。

 帰り際に誰かに呼び止められたのかもしれない。

 以前の私なら、「想定の範囲内」として処理していただろう。


 けれど、今の私は違った。


(……嫌われたんだわ)


 黒い思考が、インクをこぼしたように心に広がる。


(つわりで寝込んでばかりで、仕事もできなくて、ブクブク太って……。こんな役に立たない妻、もう用済みなんだわ。だから帰ってこないのよ)


 馬鹿げている。

 頭の片隅にある「理性」のリリアーナが、必死に反論している。

 『非論理的です。彼が貴女を溺愛している事実は、過去の行動ログから明白です』

 『15分の遅延で愛情消失を疑うなど、根拠が薄弱です』


 分かっている。

 頭では分かっているのだ。

 でも、涙が止まらない。

 胸が押し潰されそうで、息が苦しい。


 医師団長はこれを「魔力酔い」と呼んだ。


『お腹のお子様は、父親譲りの強大な魔力をお持ちのようです。その魔力が母体の精神波長に干渉し、感情の増幅を引き起こしています』


 つまり、これは私の感情ではない。

 ホルモンと魔力のいたずらだ。

 システムエラーの一種だ。


 そう自分に言い聞かせても、溢れ出る悲しみは止められない。

 私はクッションに顔を埋めた。


「うぅ……サイラス様……っ」


 会いたい。

 でも、こんなメソメソした醜い顔を見られたくない。

 矛盾した感情が渦巻く。

 私は優秀な補佐官だったはずなのに。

 今はただの、情緒不安定な生き物に成り下がってしまった。


 ガチャリ。


 玄関ホールの方で、ドアが開く音がした。

 急いで足音が近づいてくる。


「リリアーナ! ただいま!」


 寝室のドアが開く。

 サイラス様だ。

 彼は息を切らしていた。


「すまない、遅くなった! 店が混んでいて……」


 彼は部屋の明かりをつけようとして、動きを止めた。

 薄暗い部屋の隅。

 膝を抱えてうずくまる私を見つけたからだ。


「……リリアーナ?」


 彼はゆっくりと近づいてきた。

 私は顔を伏せたまま、震える声で言った。


「見ないで……ください」

「泣いているのか?」

「……すみません。わけが、分からないんです。貴方が少し遅れただけで、もう二度と会えないような気がして……勝手に涙が出て……」


 支離滅裂だ。

 面倒くさい女だと思われたくない。

 呆れられるのが怖い。


 しかし、サイラス様はためらわずに床に膝をついた。

 そして、私を丸ごと抱きしめた。


「……っ!」

「すまなかった。怖かったな」


 彼の腕は温かく、外気の冷たさを少し纏っていた。

 その匂いを嗅いだ瞬間、私の涙腺が完全に決壊した。


「うわぁぁぁん! サイラス様ぁ……ッ!」

「よしよし。私はここにいる。どこにも行かない」


 彼は子供をあやすように、私の背中を一定のリズムで叩いた。

 「なぜ泣いているんだ」とは聞かなかった。

 「大げさだ」とも言わなかった。

 ただ、私の理不尽な感情を、そのまま受け止めてくれた。


「……これは、君の弱さじゃない」


 彼が私の耳元で囁く。


「私たちの子が、元気に育っている証拠だ。この子の魔力が強すぎて、ママを困らせているだけだ」

「で、でも……私、全然冷静じゃなくて……補佐官失格で……」

「補佐官である必要なんてない。今の君は、世界で一番頑張っている母親だ」


 彼は私の涙で濡れた頬に口づけをした。


 私は彼のシャツを握りしめ、ひとしきり泣いた。

 涙が枯れる頃には、不思議と憑き物が落ちたように心が軽くなっていた。


「……落ち着いたか?」

「はい……。シャツ、濡らしてごめんなさい」

「構わない。……それより、これを見てくれ」


 サイラス様は、傍らに置いていた紙袋を差し出した。

 中から出てきたのは、可愛らしい缶に入った茶葉だった。


「これは?」

「東の街で評判のハーブティーだ。精神を安定させる効果があるらしい。……これを買うのに並んでいて、遅れてしまった」

「……私のために?」


 彼はバツが悪そうに頬をかいた。


「君が最近、辛そうだったから。……連絡もせずに遅れて、かえって不安にさせてしまったな。私のミスだ」


 ミスなんかじゃない。

 彼は私のためを思って、奔走してくれていたのだ。

 それなのに私は、「嫌われた」なんて疑って。


 愛おしさが込み上げてくる。

 私は缶を抱きしめた。


「……今から、淹れていただけますか?」

「もちろんだ。最高の一杯を」


 サイラス様が微笑む。

 その笑顔を見た時、私の中の「魔力酔い」による嵐が、嘘のように凪いでいくのを感じた。


 私たちはソファに座り、温かいハーブティーを飲んだ。

 心が解けていく。


「美味しいです」

「そうか。……また買ってくる」


 サイラス様が私の肩を抱く。

 私は彼に寄りかかり、自分のお腹に手を当てた。


(……貴方、パパに似て魔力が強いのね)


 まだ見ぬ我が子に話しかける。

 元気に育つんだよ。

 これだけ強い魔力を持っているなら、きっと将来は大物になるわね。


 不安が消えたわけではない。

 明日また、理由もなく泣きたくなるかもしれない。

 でも、この人が隣にいれば大丈夫だ。

 論理が通じない夜も、こうして乗り越えていける。


 私は空になったカップを置き、深く息を吐いた。

 手帳に『本日の感情:大雨のち晴れ』と書き留めておきたくなるような、静かで温かい夜だった。

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― 新着の感想 ―
ホッとした♡(//∀//)いつもの《カッコいいリリアーナたん》も素敵だけれど…こー言ぅ可愛ぃリリアーナたんも良いなぁ♡ (ね?サイラス様♪)
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