第35話 過保護な夫と伝説の助産師
朝。
目覚めると、視界の端に巨大な影があった。
黒檀の執務机だ。
それが、なぜか私のベッドの真横に鎮座している。
そして、その向こうでサイラス様が鬼気迫る表情でペンを走らせていた。
「……あの、閣下?」
「起きたか、リリアーナ。気分はどうだ? 水か? それともポテトか?」
彼は即座にペンを投げ捨て、私の顔を覗き込んだ。
目の下に濃い隈がある。
明らかに寝ていない。
「気分は……まあまあです。それより、なぜここに執務机が?」
「君の側を離れるわけにはいかないからだ」
彼は真顔で言った。
「私が王宮に行っている間に、君が倒れたらどうする。誰が背中をさするんだ。誰がポテトを揚げるんだ」
「使用人がいます」
「信用できない。君の微妙な顔色の変化に気づけるのは私だけだ」
過保護が極まっている。
気持ちは嬉しい。
けれど、宰相が自宅に引きこもっては国が回らない。
それに正直なところ、四六時中心配そうな顔で見つめられると、私の方も気が休まらないのだ。
「閣下、出勤してください。私は大丈夫ですから」
「駄目だ。今日は重要な会議もない。ここでする」
「嘘ですね。さっき補佐官代理から『至急決済を』という通信が来ていましたよ」
私が指摘しても、彼は頑として動こうとしなかった。
困った。
このままでは、私が国政を停滞させた傾国の悪女になってしまう。
その時だった。
バンッ!!
寝室の扉が、遠慮なく開け放たれた。
ノックもなしに。
「相変わらず湿っぽい部屋だねえ! 風通しが悪いったらありゃしない!」
ガラガラとした、よく通る大声。
入ってきたのは、小柄な老婆だった。
白髪をひっつめにし、簡素だが清潔な衣服を纏っている。
背筋はピンと伸び、その瞳は猛禽類のように鋭い。
彼女は部屋を見渡すと、鼻を鳴らした。
「なんだい、この陰気な男は。邪魔だよ」
「なっ……!?」
サイラス様が絶句する。
国の権力者に向かって「陰気な男」呼ばわり。
護衛が飛んできそうな発言だが、老婆は意に介さない。
「あ、貴女は……」
「あたしかい? 王太后様から頼まれて来たんだよ。助産師のマーサだ」
マーサ。
その名には聞き覚えがあった。
王族や高位貴族の出産を数多く取り上げてきた、伝説の助産師。
御年六十を超えているはずだが、その足取りは驚くほど力強い。
マーサさんはツカツカとベッドに歩み寄り、サイラス様の執務机を杖でコンコンと叩いた。
「おい、そこのデカいの。どきな」
「……私は夫だ。そして宰相だぞ」
「だから何だい。ここは『産屋』だ。男の肩書きなんざ、へその緒一本の役にも立たないよ」
彼女はサイラス様を睨み上げた。
「あんたがそこに張り付いてて、奥さんの腹の痛みが消えるのかい? つわりが治るのかい?」
「そ、それは……私が背中をさすれば……」
「素人の手つきで触りすぎると、余計に気が立つんだよ。見てごらん、奥さんの顔。あんたの心配そうな顔を見て、気を遣って疲れてるじゃないか」
図星だった。
私は思わず視線を逸らす。
「妊婦に必要なのは、静かな環境と、プロの腕だ。……男は外で稼いでくるのが仕事だろうが!」
一喝。
サイラス様がビクリと肩を震わせた。
彼は何か言い返そうとしたが、マーサさんの眼力に気圧され、口をパクパクさせた後、すごすごと立ち上がった。
「……リリアーナ。夕方には戻る」
「はい。行ってらっしゃいませ、あなた」
彼は後ろ髪を引かれる様子で、何度も振り返りながら部屋を出て行った。
部屋に静寂が戻る。
執務机だけがシュールに残された。
「ふん。まったく、アイゼンガルド家の男は代々心配性でいけないね」
マーサさんは呆れたように言い、私に向き直った。
その表情は、先ほどまでの厳しさとは違い、職人のように真剣なものだった。
「さて、奥様。顔色が悪いね。背中が張ってるんだろう?」
「は、はい。胃が圧迫されているようで……」
「どれ、失礼するよ」
彼女はベッドに腰掛け、私の背中に手を当てた。
ゴツゴツとした、温かい手。
魔法を使っているわけではない。
ただ、背骨に沿って指を滑らせていく。
「ここだね」
グッ、と一点を押された。
「んっ……!」
「力が入りすぎてるんだよ。初めてのことで怖いのは分かるがね、身体を強張らせると、赤ん坊も居心地が悪いんだ」
彼女の手が、絶妙な力加減で筋肉をほぐしていく。
痛気持ちいい。
魔法による治癒とは違う、物理的なアプローチ。
凝り固まっていた血流が、じわじわと流れ出す感覚がある。
「ふぅ……」
自然と息が漏れた。
胸のつかえが取れ、呼吸が深くなる。
さっきまで喉元まで込み上げていた吐き気が、不思議と引いていった。
「楽になったかい?」
「……はい。魔法みたいです」
「魔法なんかじゃないさ。何千人も妊婦を見てきた経験だよ」
マーサさんはニッと笑った。
歯が抜けているが、愛嬌のある笑顔だ。
「いいかい、奥様。あんたは賢い人だそうだが、お産は頭で考えるもんじゃない。身体の声を聞くんだ」
「身体の声……」
「食べたい時に食べ、眠い時に寝る。それが一番の仕事さ。……あの旦那みたいに、理屈でどうこうしようとするとパンクするよ」
彼女はテキパキと枕の高さを調整し、足元にクッションを入れてくれた。
それだけで、寝心地が劇的に改善する。
すごい。
これが「生活の知恵」の結晶か。
「マーサさん。……これから、いろいろと教えていただけますか?」
「もちろんだとも。そのために来たんだ。王太后様から『あの不器用な夫婦を死なせないでくれ』って頼まれてるからね」
王太后様。
感謝状を送らなければ。
「さあ、少し眠りな。起きたら、生姜湯を作ってやるよ。吐き気止めに効くんだ」
マーサさんは椅子に座り、編み物を始めた。
その背中は小さく、けれどとてつもなく頼もしかった。
私は安心して目を閉じた。
この部屋には今、最強の味方がいる。
サイラス様には悪いけれど、彼の不安そうな顔を見ているより、マーサさんの編み棒の音を聞いている方が、ずっと安眠できそうだ。
私は久しぶりに、穏やかな午睡へと落ちていった。
夢の中で、お腹の子供が「楽になったね」と笑った気がした。




