第34話 つわりは論理を超越する
妊娠判明から数日。
私の世界は、ベッドの上という狭い空間に限定された。
カーテンの隙間から、昼の光が差し込んでいる。
枕元には、手付かずの昼食が置かれたままだ。
野菜のポタージュ、白身魚の蒸し焼き、果物。
どれも消化に良く、栄養バランスも計算された完璧なメニューだ。
頭では分かっている。
食べなければ。
私一人の体ではない。
お腹の中の新しい命――赤ちゃんのために、エネルギーを供給しなければならない。
「……うっ」
だが、スプーンを口に近づけた瞬間。
湯気と共に立ち上る魚の匂いが、鼻腔を刺激した。
それは以前なら「美味しそう」と感じたはずの香りだ。
しかし今の私には、致死性の毒ガスのように感じられる。
胃が激しく収縮する。
私は口元を押さえ、サイドテーブルに置かれた洗面器へと顔を伏せた。
……何も出ない。
朝から水しか飲んでいないのだから、出るものなどない。
ただ、胃液の苦い味と、内臓が雑巾絞りされるような不快感だけが残る。
「……はぁ、はぁ……」
私は枕に沈み込んだ。
涙が滲む。
悔しい。
私はこれまで、どんな難解な魔法術式も、複雑な外交問題も、論理と効率で解決してきた。
原因があり、対策があり、実行すれば結果が出る。
世界はそうやって回っているはずだった。
けれど、つわりは違う。
論理が通じない。
「栄養が必要だから食べる」という単純なコマンドさえ、身体がエラーを返して実行拒否する。
自分の身体なのに、制御権を乗っ取られたようだ。
「……リリアーナ」
控えめな声と共に、部屋の扉が開いた。
サイラス様だ。
彼は昼休みに王宮から戻ってきたのだろう。
その顔には、隠しきれない疲労と、それ以上の心配が張り付いている。
彼はトレイの上の、手付かずの料理を見て、痛ましげに眉を寄せた。
「……また、食べられなかったか」
「申し訳、ありません……。匂いが、どうしても……」
「謝るな。君が悪いわけじゃない」
彼はベッドの端に座り、私の乱れた前髪を優しく撫でた。
その手はひんやりとしていて、火照った額に心地よい。
「何か、食べられそうなものはあるか? 氷菓子か? それとも冷たいスープなら……」
「……分かりません」
私は首を横に振った。
空腹感はある。
胃がキリキリと痛むほどに。
でも、頭の中に食べ物を思い浮かべると、そのすべてに「拒否」のラベルが貼られる。
何を欲しているのか、自分でも分からない。
「無理に考えなくていい。点滴の準備をさせよう」
「……はい」
情けない。
母親になるというのに、食事ひとつ満足に摂れないなんて。
私は自分の無能さに押し潰されそうになりながら、また眠りに落ちた。
*
深夜。
ふと目が覚めた。
時計の針は二時を回っている。
隣では、サイラス様が静かな寝息を立てている。
彼は最近、私の看病と宰相の激務を兼務し、睡眠時間を削っている。
起こしてはいけない。
私は寝返りを打とうとした。
その時。
唐突に、脳裏にある映像がフラッシュバックした。
揚げたての、黄金色の棒。
たっぷりの油と、塩。
カリッとした食感と、中のホクホクした熱気。
(……揚げ芋)
フライドポテト。
庶民の食べ物。
カロリーの塊。
普段の私なら、「脂質の過剰摂取です」と避けるようなジャンクフード。
けれど、そのイメージが浮かんだ瞬間。
私の唾液腺が、猛烈に活動を始めた。
食べたい。
今すぐ。
死ぬほど食べたい。
あの油の匂いなら、耐えられる気がする。
いや、むしろその匂いに包まれたい。
「……っ」
私は唇を噛んだ。
馬鹿げている。
深夜二時に、妊婦が揚げ物を所望するなんて。
栄養バランスなど皆無だ。
我慢しなければ。
でも、一度ついた渇望の火は消えない。
空腹で胃が痛い。
ポテトのことしか考えられない。
目から生理的な涙が溢れてくる。
ガサッ。
隣でシーツの擦れる音がした。
「……リリアーナ?」
サイラス様が目を覚ました。
彼はすぐに上半身を起こし、暗闇の中で私を覗き込んだ。
「どうした? 気分が悪いのか? 水か?」
「い、いえ……違います……」
「泣いているじゃないか。どこか痛いのか?」
彼は慌てて明かりを点けようとする。
私は彼のパジャマの袖を掴んで止めた。
「違います、あ、あの……」
恥ずかしい。
一国の宰相に、こんなワガママを言うなんて。
でも、口が勝手に動いた。
「……ポテトが、食べたいんです」
「……はい?」
「揚げたお芋です。塩をたくさん振った……ジャンクなやつが、今すぐ食べたくて……」
言いながら、涙がボロボロとこぼれた。
「ごめんなさい……こんな時間に、変ですよね……。栄養もないし、身体に悪いのに……。私、母親失格です……」
理屈じゃない衝動に振り回される自分が、惨めだった。
サイラス様は、きょとんとして私を見ていた。
それから、ふっと表情を緩めた。
「なんだ。そんなことか」
「……え?」
「痛いのかと思った。……ポテトだな? 揚げたてがいいんだな?」
「は、はい。でも、使用人を起こすわけには……」
「私が作る」
彼はベッドを降りた。
「えっ? 閣下が?」
「厨房に行けば材料はあるだろう。マニュアルも頭に入っている」
彼は私の頭をポンと撫でた。
「待っていろ。世界一美味いポテトを作ってやる」
そう言い残し、彼は部屋を出て行った。
*
二十分後。
部屋に、香ばしい油の匂いが漂ってきた。
いつもなら「油臭い」と顔をしかめるはずの匂いが、今は最高のアロマに感じる。
「待たせたな」
サイラス様が戻ってきた。
手には大皿。
そこには、太さも長さも不揃いな、武骨なフライドポテトが山盛りに載っていた。
少し焦げているものもある。
形は悪い。
でも、湯気と共に漂う塩の香りは完璧だった。
「……どうぞ」
彼はベッドサイドに皿を置き、フォークを渡してくれた。
私は震える手で、一本を刺した。
口に運ぶ。
カリッ。
熱い油と、強めの塩気。
じゃがいもの甘み。
「……!」
美味しい。
気持ち悪くない。
胃が喜んで受け入れている。
私は夢中で食べた。
二本、三本。
止まらない。
数日ぶりのまともな固形物が、身体に染み渡っていく。
「美味しい……美味しいです……っ」
食べながら、また涙が出てきた。
安堵と、感謝と、幸福感で、胸がいっぱいになる。
サイラス様は、私が食べる様子を、ベッドの脇で優しく見守っていた。
その頬には、少しだけ煤がついている。
指先には絆創膏が貼られていた。
慣れない包丁で切ったのだろうか。
「……ごめんなさい、こんな夜中に」
「謝るなと言っただろう」
彼は指先で私の涙を拭った。
「君が食べてくれて、本当に良かった。……それだけで、私は救われる」
彼の声は心からのものだった。
私が苦しむ姿を見るのが、彼にとっても一番の苦痛だったのだ。
彼もまた、無力感と戦っていたのだ。
私は皿の上のポテトを半分ほど平らげ、ようやく人心地ついた。
胃の中が温かい。
久しぶりに、満腹感という幸せを感じる。
「……残りは、明日の朝にします」
「ああ。また揚げ直すよ」
サイラス様が皿を片付け、ベッドに戻ってきた。
私は彼に寄り添った。
油の匂いのする彼が、今はどんな香水よりも愛おしい。
「ありがとう、あなた」
「どういたしまして。……おやすみ、リリアーナ」
彼の温もりに包まれて、私は目を閉じた。
つわりはまだ終わらないだろう。
明日になれば、また違う理不尽が襲ってくるかもしれない。
でも、大丈夫だ。
私には、真夜中にポテトを揚げてくれる、最高のパートナーがいるのだから。
お腹の底で、小さな命が「美味しかったね」と言ったような気がして、私は深い眠りへと落ちていった。




