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【第4章スタート!】悪役令嬢は忙しい  作者: 九葉(くずは)
第4章

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33/40

第33話 宰相夫人の体調不良

第4章スタートです!!

 カツ、カツ、カツ。

 王宮北棟、宰相執務室。

 今日も私の万年筆は、紙の上を軽快に走っている――はずだった。


「……あれ?」


 私はペンを止め、眉間を指で揉んだ。

 目の前の書類、財務省から上がってきた月次報告書。

 そこに並ぶ数字の列が、なぜか頭に入ってこない。

 いつもなら一目で合計額の矛盾を見抜けるのに、今日は数字がただの記号の羅列に見える。


 視界が少し、揺れている気がする。

 思考回路にノイズが走るような、鈍い感覚。


(おかしいですね)


 睡眠は足りているはずだ。

 昨夜は二十三時にはベッドに入ったし、サイラス様が「肌に悪い」と言ってアイマスクまで着けさせてくれた。

 食事も摂った。

 それなのに、この泥のような倦怠感は何だろう。


「リリアーナ?」


 隣のデスクから、心配そうな声がかかった。

 サイラス様だ。

 彼は私がペンを止めた瞬間に顔を上げ、じっとこちらを観察している。

 相変わらず、私に関しては高性能なセンサーを持っている。


「どうした。顔色が悪いぞ」

「いえ、少し集中力が途切れただけです。……この計算、合っていますか?」


 私は誤魔化すように、手元の書類を彼に回した。

 サイラス様はそれを受け取り、一瞥する。


「……リリアーナ。ここだ」


 彼が指差したのは、単純な足し算の箇所だった。


「桁が一つズレている。いつもの君ならありえないミスだ」


 私は息を呑んだ。

 本当だ。

 初歩的すぎるミス。

 新人の文官でもやらないような間違いを、この私が?


 背筋が冷たくなる。

 これは、ただの疲れではないかもしれない。

 未知のウイルスか、あるいは呪いか。

 私の誇りである「事務処理能力」という機能スペックが、低下している。


「……申し訳ありません。修正します」

「いや、いい。休憩だ」


 サイラス様は書類を脇に置き、立ち上がった。

 その表情は真剣そのものだ。


「君の体調優先だ」


 彼は私の額に手を当てた。

 ひんやりとして気持ちがいい。


「少し熱い。微熱があるんじゃないか?」

「平熱です。……たぶん」

「嘘をつけ。……茶を淹れる。少し休んでいろ」


 彼は給湯台へと向かった。

 私は大人しく椅子に背を預ける。

 確かに、体が重い。

 胃のあたりがムカムカして、座っているだけで精一杯だ。


(システムメンテナンスが必要かしら)


 週末は温泉にでも行こうか。

 そんなことをぼんやりと考えていると、ふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。


 コーヒーだ。

 サイラス様が最近ハマっている、深煎りの豆。

 いつもなら、その芳醇な香りで脳が覚醒し、やる気が湧いてくるはずだった。


 だが。


「……うっ」


 鼻孔をくすぐった瞬間。

 胃の奥から、強烈な拒絶反応が突き上げてきた。

 酸っぱいものが喉元までせり上がる。


 私は反射的に口元を手で覆った。

 思考よりも早く、体が「異物」だと判定したのだ。


「リリアーナ!?」


 ガシャン!

 カップがソーサーにぶつかる音がした。

 サイラス様が慌てて駆け寄ってくる。


「どうした! 気分が悪いのか!?」

「ご、めんなさい……その匂い、今は……」

「匂い?」


 彼はすぐに察し、コーヒーを遠ざけた。

 そして窓を開け放ち、空気を入れ替える。

 新鮮な外気が入り込み、私はようやく浅い呼吸を繰り返した。


 心臓が早鐘を打っている。

 冷や汗が止まらない。

 これは異常事態だ。

 ただの体調不良ではない。


「……医者を呼ぶ」


 サイラス様の声が震えていた。

 彼は私の肩を抱き寄せ、その顔面は私以上に蒼白だった。


「待ってください、大げさです。少し休めば……」

「駄目だ! 君にもしものことがあったら……!」


 彼は魔導通話機を掴み、怒鳴るように指示を飛ばした。


「王宮医師団長を呼べ! 緊急だ! 今すぐ宰相執務室へ! ……一秒でも遅れたら病院ごと凍らせるぞ!」


 職権乱用もいいところだ。

 でも、止める気力もなかった。

 私は彼の腕の中で、目を閉じた。

 世界がぐるぐると回っている。

 私の体の中で、何かが起きている。

 制御不能な何かが。


 *


 十分後。

 息を切らせた医師団長と、数名の看護師が執務室になだれ込んできた。

 私はソファに横たえられ、診察を受けた。


 脈拍の測定、魔力波長の検査、そして触診。

 老練な医師団長は、私の手首に指を当てたまま、難しい顔で沈黙している。


 室内の空気が重い。

 サイラス様は私の手を握りしめ、医師を射殺さんばかりの目つきで睨んでいる。

 医師が「ふむ」と唸るたびに、サイラス様の周りでピキピキと氷が生成される音がする。


「……おい、藪医者。勿体ぶるな。妻はどんな病気なんだ」

「……」

「呪いか? 毒か? 解毒剤なら世界中から取り寄せる。いっそ私の魔力を輸血するか?」

「閣下、落ち着いてください。魔力輸血は禁忌です」


 私は弱々しく諌めた。

 医師団長はようやく顔を上げ、眼鏡を外した。

 そして、ふぅ、と息を吐いた。


「……宰相閣下。そして夫人」


 医師の声は穏やかだった。


「病気ではありません」

「なんだと? これほど苦しんでいるのに病気じゃないとは、どういう理屈だ!」

「毒でも、呪いでもありません。……これは、『ご懐妊』です」


 時が止まった。


 カチ、カチ、カチ。

 壁掛け時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。


 懐妊。

 その単語の意味を脳内で検索し、理解するまでに数秒かかった。


「……え?」


 間の抜けた声が出たのは、私だった。


「今、なんと?」

「妊娠二ヶ月です。おめでとうございます」


 医師団長がにこやかに告げた。

 看護師たちが「まあ!」「おめでたい!」と小さく拍手をする。


 私は呆然と自分のお腹を見下ろした。

 平らだ。

 何も変わっていないように見える。

 でも、この中には、新しい生命が宿っているのか。


 隣を見た。

 サイラス様は、石像のように固まっていた。

 口を半開きにし、瞬きすら忘れている。

 「氷の宰相」が、完全にフリーズしている。


「……にん、しん……?」


 彼が掠れた声で復唱した。


「私が……父親に……?」

「ええ、そうですとも。これからは安静第一ですよ。特に初期は――」


 医師の説明が遠のいていく。

 私の頭の中では、高速で計算が始まっていた。


 妊娠。期間は約十ヶ月。

 出産予定日は来年の春。

 産休、育休の手続き。

 現在進行中のプロジェクトへの影響。

 後任の補佐官の選定。

 ベビー用品の準備、部屋のレイアウト変更、教育費の積立……。


(……待って。処理落ちしそう)


 喜び?

 もちろんある。愛する人との子供だ。嬉しくないはずがない。

 でも、それ以上に「未知のプロジェクト」への恐怖と、スケジュールの崩壊に対するパニックが押し寄せてくる。


 計算外だ。

 私の完璧な人生設計ライフプランには、まだこの項目は入っていなかった。


「……リリアーナ」


 不意に、強く抱きしめられた。

 サイラス様だ。

 彼は私の肩に顔を埋め、震えていた。


「ありがとう……。ありがとう……!」


 彼の声は濡れていた。

 泣いているのだ。

 あの強面で、冷徹な宰相が、子供のように泣いている。


「君と私の子供だ……。夢のようだ……」


 その温かさに触れて、私の混乱した思考が少しずつ落ち着いていく。

 ああ、そうか。

 これは「エラー」ではない。

 「奇跡」という名の、新しいタスクなのだ。


 私は彼の方へ手を回し、背中をポンポンと叩いた。


「……泣かないでください、あなた。これから忙しくなりますよ」

「ああ、ああ……! 何でもする。君と子供のためなら、世界だって救ってみせる」


 大げさな人だ。

 でも、今はその言葉が頼もしい。


 医師団長が苦笑しながら退室していく気配がした。

 執務室に残されたのは、抱き合う私たちと、まだ見ぬ小さな命。


 こうして、私のキャリアに、新たに「母親」という肩書きが加わることになった。

 それが、これまでのどんな激務よりも過酷で、そして尊い日々の始まりであることを、私はまだ知る由もなかった。


 とりあえず、明日の手帳には『産婦人科検診』と書き込まねばならない。

 予定変更だ。

 大幅な、ね。

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