第30話 リリアーナの説得術
ピンク色の光の霧が、完全に晴れた。
祭壇の間は、本来の静寂と、冷ややかな石の質感を取り戻していた。
その中央。
磨き上げられた水晶の祭壇の上に、彼はふんぞり返って浮いていた。
光の羽を持つ、手のひらサイズの精霊。
この遺跡の「管理人」さんだ。
彼は腕を組み、不機嫌そうに私たちを見下ろしている。
「……ふん。ようやく終わったか」
憎まれ口を叩くその顔には、隠しきれない疲労の色があった。
無理もない。
数百年分の「愛の重み」に押し潰されそうになっていたのだから。
私はハンカチで額の汗を拭い、彼に向き直った。
大容量魔石へのデータ転送は完了した。
システム負荷は正常値に戻っている。
「お待たせしました、管理人さん。お約束通り、掃除は完了です」
私はニッコリと笑い、手を差し出した。
「さあ、システム権限の譲渡を。そして、婚姻の儀式を再開してください」
契約履行の時間だ。
これで全てが終わる。
そう思ったのだが。
管理人は、フンッ、と鼻を鳴らし、プイと横を向いた。
「……嫌だね」
耳を疑った。
「はい?」
「嫌だと言ったんだ。今更直ったところで、俺の機嫌は直らねえ」
彼は空中で寝転がるようなポーズをとった。
「俺はもう疲れたんだよ。三百年だぞ? 来る日も来る日も、『愛してる』だの『君は太陽だ』だの、中身のないポエムを聞かされ続けてみろ。精神崩壊するわ!」
切実な叫びだ。
同情はする。
確かに、あの重い愛の洪水をリアルタイムで聞き続けるのは拷問に近い。
「だから、俺はもう引退する。この遺跡は閉鎖だ。
俺は眠る。……二度と起こすな」
職場放棄宣言。
セオドア神官が顔面蒼白で叫んだ。
「そ、そんな! 精霊様、お見捨てになるのですか! 我々の祈りは……!」
「うるせえ! お前らの祈りも、どうせ『予算が足りない』とか『腰が痛い』とかだろ! 俺は苦情受付係じゃねえんだよ!」
管理人が喚き散らす。
完全にへそを曲げている。
これは厄介だ。
システムは直っても、司令塔である彼が動かなければ、遺跡はただの石塊だ。
「……リリアーナ」
隣で、サイラス様が低い声を出した。
彼の手のひらに、青白い冷気が集まり始めている。
「交渉決裂だな。」
「お待ちください、閣下」
私は彼の手を抑えた。
「精密機器を凍らせないでください。データが飛びます」
「だが、あの態度は目に余る。教育が必要だ」
「ええ。ですから、私が『説得』します」
私は眼鏡の位置を直し、一歩前へ出た。
コツン、とヒールの音が響く。
私は管理人の目の前まで歩み寄り、視線の高さを合わせた。
「管理人さん。お疲れなのは分かります。ブラック労働環境だったことにも同情します」
「だろ? 分かればいいんだ、分かれば。さあ帰れ」
「ですが」
私は鞄から、先ほどデータを吸い出した「大容量魔石」を取り出した。
ドス黒いピンク色に輝く、呪いのアイテムのような石だ。
「貴方が職務を放棄するというなら、私たちもメンテナンスを放棄せざるを得ません」
「あ?」
「この遺跡の動力源である魔力供給ラインを遮断し、入り口を岩で塞ぎます。誰も入れないように、完全に封印しましょう」
管理人の顔色が明るくなった。
「おお! 願ったり叶ったりじゃねえか! 静かな老後が送れるなら……」
「そして」
私は言葉を被せた。
手の中の、ピンク色の魔石を弄びながら。
「貴方が眠るその祭壇の中に、この『魔石』を置いていきます」
管理人の動きが止まった。
「……は?」
「さらに、自動再生術式を組んでおきましょう。貴方が封印されている間、この魔石の中の音声データが、永遠にループ再生されるように」
私はニッコリと微笑んだ。
最大限の慈悲深さを持って。
「特に、あの『狂愛の王』のポエムを、最大音量で。……貴方が寂しくないように、二十四時間、三六五日、永遠に」
沈黙。
祭壇の間に、絶対的な静寂が落ちた。
管理人の顔が、青を通り越して透明になっていく。
彼は魔石を凝視し、ガタガタと震え始めた。
「……じょ、冗談だよな?」
「私は効率化の鬼です。無駄な嘘はつきません」
私は魔石を祭壇に近づけた。
中から、微かに声が漏れ聞こえる。
『あぁ、セシリア! 僕のセシリア!』
「ひぃぃぃッ! やめろ! 近づけるな!」
管理人が悲鳴を上げて後ずさる。
「あの男の声だけは勘弁してくれ! 三百年だぞ!? あの暑苦しい声が、夢にまで出てくるんだ! それを永遠にループだと!? 悪魔かお前は!!」
「悪魔ではありません。宰相補佐官です」
私は真顔で答えた。
「さあ、どうしますか? 仕事に復帰して、私たちと『保守契約』を結び、定期的なメンテナンスを受けるか。それとも、この魔石と心中するか」
究極の二択。
いや、実質的な一択だ。
管理人は涙目で私を睨み、それからサイラス様を見た。
サイラス様は無言で氷の槍を構えている。
次にセオドアを見た。
彼は「すまない、私には止められない」という顔で目を逸らした。
味方はいない。
「……分かったよ! やればいいんだろ、やれば!」
管理人はヤケクソ気味に叫んだ。
「働きます! 再起動します! だからその石を遠ざけろぉぉぉ!」
敗北宣言。
私は満足げに頷き、魔石を鞄の奥底へしまった。
「賢明なご判断です。では、契約成立ですね」
私が手を差し出すと、管理人は忌々しそうに、しかし素直にその小さな手を私の指に乗せた。
パァァァッ!
眩い光が溢れ出した。
祭壇の水晶が、澄み切った蒼色に輝き始める。
空中のエラーログが消え、代わりに美しい幾何学模様の魔法陣が展開される。
天井の星図が回転し、厳かな鐘の音が響き渡った。
システム再起動。
正常稼働。
「……凄い。これが、本来の『儀式の間』……」
セオドアが感嘆の声を漏らす。
薄暗かった空間は、今や神々しい光に満ちていた。
空気すら浄化されたように清々しい。
「ふん。久しぶりにフルパワーで動かしたから、肩が凝ったぜ」
管理人が悪態をつきながらも、どこか誇らしげに胸を張った。
「おい、人間ども。準備はいいか? 俺様が最高の設定で演出してやるから、さっさと誓いを済ませろ」
彼は指を鳴らした。
祭壇へと続く道に、光の絨毯が敷かれる。
私は振り返り、サイラス様を見た。
彼は、いつになく真剣な表情で私を見つめていた。
「……リリアーナ」
「はい、閣下」
「いや。……今は、ただのサイラスとして言わせてくれ」
彼は私の手を取り、その甲に口づけを落とした。
作業服は煤で汚れ、髪も乱れている。
でも、どんな舞踏会の時よりも、今の彼が一番素敵に見えた。
「行こう。私たちの未来を始めに」
「ええ。……長かったですね」
本当に長かった。
婚約破棄から始まり、帝国との外交、魔導炉の暴走、そしてこの遺跡の修理。
数々のトラブルを乗り越えて、ようやくここまで辿り着いた。
私たちは光の絨毯を踏みしめ、祭壇へと歩き出した。
セオドア神官が、震える手で聖句を構え、管理人がニヤニヤしながら見守る中。
世界で一番騒がしくて、効率的で、そして愛に満ちた結婚式が、今始まろうとしていた。




