第20話 忙しいけれど、愛おしい日々
その日、宰相執務室は戦場だった。
ただし、かつてのような「悲壮な撤退戦」ではない。
勝利に向かって突き進む「快進撃」だ。
「補佐官! 帝国からの技術供与資料、翻訳完了しました!」
「リリアーナ様、魔導省より新規回線の接続申請です。承認を!」
「財務局より報告、今期の予算余剰が過去最高を記録しました!」
次々と飛び込んでくる部下たちの声。
私はデスクの中央で、指揮者のように万年筆を振るう。
「翻訳資料は第三棚へ。接続申請はセキュリティチェックを通して。予算余剰は、職員の特別ボーナスと修繕積立金に回して」
判断に迷いはない。
一秒で決断し、一秒で処理する。
私のデスクの横では、サイラス様が同じ速度で決済印を押している。
カアン、カアン、カアン。
スタンプの音が、心地よいリズムを刻む。
まるで二人で連弾をしているようだ。
帝国との一件以来、私たちの仕事量は倍増した。
私の書いた「ハイブリッド術式」が新規格として採用され、王国内の全魔導インフラを更新することになったからだ。
さらに、ルーカス皇子が置いていった(というか押し付けた)技術提携の案件も山積みだ。
普通なら悲鳴を上げる状況だろう。
けれど。
「……ふう。午前の部は終了ですね」
時計の針が十二時を指すと同時に、私はペンを置いた。
山積みだった書類は、すべて綺麗に片付いている。
完璧な効率化。
圧倒的な達成感。
「お疲れ様、リリアーナ」
サイラス様が立ち上がり、執務室の鍵をカチャリと閉めた。
昼休憩の合図だ。
この時間は、誰も私たちを邪魔できない不可侵領域となる。
彼は給湯室(最新設備にリフォーム済み)へ向かい、慣れた手つきでトレイを運んできた。
部屋いっぱいに広がる、芳醇な紅茶の香り。
そして、小皿に載せられた焼き菓子。
「……どうぞ」
差し出されたのは、美しい狐色に焼き上がったクッキーだった。
形は均一な正円。
表面には砂糖がまぶされ、宝石のように輝いている。
あの不格好だった試作品とは雲泥の差だ。
「いただきます」
私は一枚、口に運んだ。
サクッ。
軽やかな音と共に、バターの風味と、隠し味のレモンの香りが広がる。
甘すぎず、疲れた脳に染み渡るような優しさ。
「……美味しい」
思わず、ほうと息が漏れた。
「お店が出せますよ、閣下。宰相を辞めても食べていけます」
「店など出さん。これは君の専属シェフとしての仕事だ」
サイラス様は満足げに微笑み、自分の紅茶を啜った。
その顔には、以前のような「氷の宰相」の険しさはない。
穏やかで、満ち足りた表情。
私たちはソファに並んで座り、窓の外を眺めた。
王都の街並みが広がっている。
煙突からは煙が上り、大通りを行き交う馬車が見える。
平和な景色だ。
あの中で、人々が安心して暮らせているのは、私たちがここで書類と格闘しているからだ。
「……後悔していないか?」
不意に、サイラス様が尋ねた。
「何のことでしょう」
「帝国のことだ。今頃向こうに行っていれば、君は最新鋭の研究室で、好きなだけ実験に没頭できていただろう」
彼は私の手を取り、指先を弄ぶ。
まだ少し、気にしているらしい。
あのルーカス皇子の誘惑を。
私は苦笑して、彼の肩に頭を預けた。
「研究室に籠もるのも悪くありませんが……私は、現場が好きなんです」
「現場?」
「はい。問題が起きて、それを解決して、誰かの役に立つ。その手応えを感じられる、この場所が」
私は彼の手を握り返した。
「それに、一人で実験をするより、貴方と二人で世界を回す方が、スリルがあって退屈しませんから」
サイラス様が吹き出した。
「スリル、か。……確かに、君といると心臓がいくつあっても足りない」
「お互い様です。昨日も無茶な予算案を通して、財務大臣を泣かせたのは誰ですか?」
「国益のためだ。……そして、君との結婚資金のためでもある」
さらりと、爆弾発言を混ぜてくる。
私は顔が熱くなるのを感じた。
結婚。
あの「重い契約書」を交わしてから、その準備も着々と進んでいる。
式場選び、ドレスの手配、招待客のリスト作成。
公務の合間を縫っての準備は、まさに戦場だ。
「……式の日取り、来月の公務が空いている週末にねじ込みましょうか」
「ああ。君が望むなら、祝日に指定して全職員を休ませる」
「それは権力の乱用です」
私たちは笑い合った。
以前なら、「悪役令嬢」と呼ばれ、周囲から疎まれていた私。
「鉄の女」「可愛げがない」と陰口を叩かれていた私。
でも今は違う。
「忙しい」ことには変わりないけれど、その意味がまるで違う。
誰かに必要とされ、誰かを支え、そして愛されるための忙しさ。
「……リリアーナ」
「はい」
「愛している」
直球の言葉。
もう、照れも迷いもない。
私は彼を見上げ、眼鏡の奥の瞳を細めた。
「私もです、サイラス様」
キスをするには、まだ少し時間が早い。
お昼休みが終わる鐘が、遠くで鳴り始めた。
ガチャリ。
執務室の鍵を開ける音がする。
次の瞬間には、また怒涛のような業務が雪崩れ込んでくるだろう。
隣国からの使者かもしれないし、魔導炉の定期点検かもしれない。
あるいは、またルーカス皇子から厄介な手紙が届いているかもしれない。
でも、構わない。
私の手帳には、まだ空白のページがたくさんある。
そこを彼と共に埋めていく未来が、楽しみで仕方がないのだ。
「さあ、閣下。午後の仕事始めですよ」
「ああ。片付けよう。……定時で帰るために」
「ええ。今夜こそ、あのパスタのお店に行きましょうね」
私たちは立ち上がり、背筋を伸ばした。
悪役令嬢は、今日も忙しい。
けれど、世界で一番、幸せな忙しさの中にいる。
私は万年筆を手に取り、新しい書類に向かった。
窓から差し込む光が、私の指輪と、隣で並ぶ彼の横顔を、優しく照らしていた。
第2章 完
お読みいただき、ありがとうございました!
第2章完でございます!!
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