第2話 断罪劇という名の会議
会場は静まり返っていた。
数百人の貴族たちが、息を呑んで私を見つめている。
無理もない。
婚約破棄を突きつけられた令嬢が、その場で手帳を開いてメモを取り始めたのだから。
私はペン先を走らせながら、顔を上げた。
壇上のフレデリック殿下は、口を半開きにして固まっている。
予定していたリアクションと違うのだろう。
泣き崩れるか、怒り狂うか。
そのどちらでもない私の反応に、彼は戸惑っているようだ。
私は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、事務的に問いかけた。
「殿下。確認させていただきます」
私の声は、広い会場によく響いた。
「婚約破棄の宣言、承りました。つきましては、その『事由』を明確にお教えいただけますか? 契約解除の書類作成に必要ですので」
「は……?」
殿下が間の抜けた声を漏らす。
隣にいるミア嬢も、きょとんとして私を見ている。
「書類? 何を言っているのだ、貴様は」
「ですから、理由です。私の有責によるものか、殿下のご都合によるものか。それによって精算の内容が大きく変わります」
私は手帳のページをめくった。
頭の中には、十歳の時に署名した婚約契約書の条文が鮮明に浮かんでいる。
殿下は我に返ったように顔を赤くし、声を張り上げた。
「り、理由など明白だろう! 真実の愛だ!」
彼はミア嬢の肩を抱き寄せ、強く言い放つ。
「私はこのミアと出会い、本当の愛を知ったのだ! 冷酷で事務的な貴様とは違う、温かい心を持った彼女こそが、次期王妃にふさわしい!」
なるほど。
私は手帳に『事由:真実の愛(殿下の心変わり)』と記入した。
「つまり、私の不貞や過失によるものではなく、殿下の一方的なお気持ちの変化によるもの、と解釈してよろしいですね?」
「言い方が気に入らんが……そうだ! 愛なき結婚など不幸なだけだ!」
殿下は胸を張る。
美しい愛の宣言に、会場の令嬢たちがうっとりとため息をつくのが見えた。
ロマンチックな話だ。
物語なら、ここで悪役は退場する。
だが、現実は法と契約で動いている。
「承知いたしました」
私は頷き、脳内で素早く計算を開始した。
「では、婚約契約書第十四条および第十六条に基づき、違約金の算出を行います」
私はペン先で空中に数字を描くように、指を動かした。
「まず、基本違約金として王家予算の三ヶ月分。さらに、我がベルンシュタイン家が十年間負担してきた殿下の教育費、および社交費の補填。これに精神的苦痛への慰謝料を加算します」
具体的な数字が頭の中で組み上がっていく。
私は手帳の端に、最終的な金額を書き込んだ。
「……概算が出ました」
私はそのページを破り取り、近くにいた呆け顔の従僕に手渡した。
「これを殿下へ」
従僕は震える手でそれを受け取り、壇上の殿下へと運ぶ。
殿下は不審そうに紙片を受け取り、そこに書かれた数字を見た。
「な……っ!?」
殿下の目が飛び出さんばかりに見開かれる。
悲鳴のような声が上がった。
「なんだこのふざけた金額は! 国家予算並みではないか!」
「ええ。第十六条には『一方的な破棄の場合、懲罰的違約金を科す』と明記されています。ご署名されたのは十年前ですが、お忘れですか?」
忘れているに決まっている。
彼は当時、剣の稽古をサボることしか考えていなかった。
「そ、そんな金、払えるわけがないだろう!」
「一括が難しければ、分割のご相談も承ります。年利は法定利息の上限を適用させていただきますが」
「貴様……! 金の話ばかりしおって! 心が痛まないのか!」
殿下が地団駄を踏む。
その様子を見て、私は不思議な感覚を覚えた。
心が痛む?
いいえ、全く。
むしろ、心が軽い。
これで終わりなのだ。
毎日のように殿下の機嫌を取り、彼の失敗を裏でカバーし、尻拭いをする日々。
「可愛げがない」と罵られながら、それでも国のための義務だと耐えてきた十年間。
それが、たった今の宣言と、この金額で精算される。
私にとっては、これ以上ないほど「お得な取引」だった。
私はふっと息を吐き、眼鏡を外してレンズを拭いた。
そして、再びかけ直す。
「殿下。私は貴方様の決断を尊重いたします」
私は深く頭を下げた。
今夜一番の、丁寧な礼。
「どうか、ミア様とお幸せに。違約金の支払い計画書は、明日一番で王宮事務局に提出しておきますので」
顔を上げる。
殿下はわなわなと震えていた。
怒りではない。
焦燥のような、縋るような目で私を見ている。
「おい……待て」
殿下が小さな声で呟いた。
「なぜだ……?」
「はい?」
「なぜ、泣かない? なぜ、私に縋り付かない!? 婚約破棄だぞ!? 貴様の人生が終わるんだぞ!?」
殿下の叫びが会場に響く。
周囲の貴族たちも、不思議そうに私を見ていた。
女の幸せを失ったのに、なぜ平気な顔をしているのかと。
私は小首を傾げた。
本当に、何をおっしゃっているのだろう。
「人生が終わる? とんでもない」
私は鞄を閉め、毅然と答えた。
「私の人生は、私のものです。誰かと結婚するかどうかで、価値が決まるものではありません」
それに。
心の中で付け加える。
(これで明日から、あの膨大な王太子妃教育のカリキュラムを受けなくて済む。早起きもしなくていい。最高じゃないですか)
口元が緩みそうになるのを必死で堪える。
私は踵を返した。
やるべきことは終わった。
あとは家に帰って、温かいお茶を飲んで寝るだけだ。
「では、失礼いたします。残務整理がありますので」
私が歩き出すと、人々が波が引くように道を開けた。
背後で殿下が何か叫んでいたが、私の耳にはもう届かない。
扉へ向かう足取りは軽い。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が、先ほどよりも軽快にリズムを刻んでいた。
だが。
そう簡単に帰れるほど、私の運命は甘くなかったらしい。
「——待ちたまえ」
扉の手前で、よく通る低い声が響いた。
会場の空気が、先ほどとは違う種類の緊張で張り詰める。
私は足を止めた。
その声の主を知っていたからだ。
この国で一番、敵に回してはいけない男。
ゆっくりと振り返る。
人垣の向こうから、漆黒の髪をした長身の男が歩み出てくるところだった。




