第15話 氷の宰相、溶けるほど嫉妬する
翌朝。
宰相執務室は、南極よりも寒かった。
物理的な室温の話ではない。
空気の話だ。
カサリ、という紙の音だけが響く。
私は決裁済みの書類束を抱え、隣のデスクへ歩み寄った。
「閣下、外務省からの報告書です。確認をお願いします」
いつもなら「ありがとう」と声をかけ、私の顔を見て微笑むはずのサイラス様。
しかし今朝の彼は、視線を書類に固定したまま、無言で手を差し出しただけだった。
私はその手に書類を載せる。
彼の指先が、私の手に触れないように注意深く動いたのが分かった。
(……避けている)
決定的だ。
今朝、挨拶をした時も「ああ」と短く返されただけ。
紅茶も淹れてくれなかった(自分で淹れた)。
業務上の指示は完璧だが、私という人間を徹底的に「事務機器」として扱おうとしている。
私は自分の席に戻り、深いため息をついた。
原因は分かっている。
昨夜の舞踏会だ。
ルーカス皇子の勧誘に対し、私が即座に拒絶せず、会話を続けてしまったこと。
そして研究施設への興味を示したこと。
怒っているのだ。
あれほど「非売品」だと宣言したのに、私がふらついたから。
時計を見る。
十時。
この冷戦状態が始まって二時間。
業務効率は悪くないが、精神衛生上よろしくない。
私は手帳を閉じた。
パタン、という音が静寂を破る。
「……閣下」
私は椅子を回転させ、彼に向き直った。
「業務連絡です。……いつまで拗ねていらっしゃるおつもりですか?」
直球を投げた。
サイラス様のペンがピタリと止まる。
彼はゆっくりと顔を上げ、氷のような瞳で私を見た。
「拗ねてなどいない。業務に集中しているだけだ」
「嘘です。今朝から一度も目が合っていません。紅茶の温度もぬるいです」
「……気のせいだ」
彼は再び視線を書類に戻そうとする。
私は立ち上がり、彼のデスクの前まで歩み寄って、両手を机についた。
逃がさない。
「怒っているのなら、そう仰ってください。昨夜の件ですか?」
「……怒ってなどいないと言った」
彼は頑なに視線を逸らす。
だが、その耳が赤くなっているのを私は見逃さなかった。
「では、なぜ無視するのですか」
「……君が、『魅力的なご提案ですが』と言ったからだ」
ボソリと、彼が呟いた。
やはりそこか。
「あれは外交上の常套句です。いきなり『嫌です』と断れば角が立ちますから、一度相手を持ち上げてから断るのがマナーです」
私は論理的に説明した。
正しいはずだ。
相手は他国の皇子。
無下にはできない。
「それに、研究施設に興味を持ったのも事実ですが、あくまで学術的な関心です。移籍の意思はありません」
「『条件次第では』とも言っていた」
「それも言葉の綾です。交渉の余地を残すふりをして、相手の手の内を探るための……」
「理屈はいい!」
ドン、とサイラス様が机を叩いた。
その音に、私はびくりと肩を震わせた。
彼は立ち上がり、私を睨みつけた。
その瞳は、怒りというより、もっと切実な色をしていた。
「分かっている! 君が賢く立ち回っただけだということは、頭では分かっているんだ!」
彼は髪をくしゃりと掴み、苦しげに顔を歪めた。
「だが……怖かったんだ」
「怖い、ですか?」
「ああ。君がいなくなるかもしれないと想像しただけで、心臓が凍りそうだった」
サイラス様はデスクを回り込み、私の目の前に立った。
長身の彼が、今は小さく見える。
「私は君しかいない。君以外に、この背中を預けられる人間はいないし、私の淹れた不味い茶を美味いと言ってくれる人間もいない。……君なしの世界など、もう考えられない」
彼の声が震える。
「だが、君は違う。君は優秀だ。私がいなくても、どこでだって生きていける。帝国だろうが、僻地だろうが、君ならすぐに居場所を作るだろう」
それは、彼の本音だった。
絶対的な権力者である宰相が抱える、ただ一人の女性への劣等感と不安。
「私には君が必要だが、君には私は必要ないのかもしれない。……そう思ったら、顔を見るのが辛かった」
彼は視線を落とした。
まるで叱られた子供のように。
私は言葉を失った。
馬鹿だ。私は馬鹿だ。
「社交辞令」だの「言葉の綾」だの、そんな理屈で解決できる問題ではなかったのだ。
彼はただ、愛されたいだけだった。
必要とされたいだけだった。
それなのに私は、彼の不安を「非論理的だ」と切り捨てようとしていた。
胸が痛い。
これが、人の心を預かるということの重さなのか。
私は一歩踏み出し、彼の手を取った。
冷たい手だった。
一晩中、悩んでいたのかもしれない。
「……閣下。訂正させてください」
私は彼を見上げて言った。
「私はどこでも生きていけます。それは事実です」
サイラス様の肩が強張る。
私は彼の手を両手で包み込んだ。
「でも、『生きていける』のと、『幸せに生きる』のは違います」
私は言葉を選んだ。
飾らない、私の本心を。
「帝国に行けば、最先端の研究ができるでしょう。年俸も増えるでしょう。でも、そこにはサイラス様がいません」
「……リリアーナ」
「貴方がいない場所で、美味しいお茶が飲めるでしょうか。……いいえ、きっと味気ない泥水に感じるはずです」
私は彼の指に絡めた自分の指――アメジストの指輪――を見せた。
「私は効率化の鬼です。無駄なことはしません。人生において最も無駄なこと、それは『愛する人を失ってまで、富や名声を得ること』です」
サイラス様が息を呑んだ。
蒼い瞳が揺れ、やがてじわりと熱を帯びる。
「だから、私はここにいます。貴方が必要だからです。……これでも、論理が破綻していますか?」
私が小首を傾げると、彼は無言で私を引き寄せた。
今朝までの冷たさが嘘のように、熱烈な抱擁。
肋骨がきしむほど強い力。
「……いや。完璧な論理だ。ぐうの音も出ない」
彼の声は少し潤んでいた。
首筋に彼の額が押し付けられる。
「すまなかった。……情けない姿を見せた」
「いいえ。可愛いかったです」
「可愛くはない」
彼は拗ねたように言い、でも離そうとはしなかった。
私は彼の背中を優しく叩いた。
大きな子供をあやすように。
この人は、最強の宰相だけれど、恋に関しては初心者なのだ。
それを支えるのも、補佐官である私の役目だろう。
「機嫌は直りましたか?」
「……あと少し」
「では、お昼は昨日行けなかったパスタのお店に行きましょうか」
「行く。絶対に」
即答だった。
ようやく、いつもの彼が戻ってきた。
執務室の空気が、ふわりと緩む。
冷戦は終結した。
だが、この一件で私が学んだことは大きい。
効率だけでは測れない「感情」のメンテナンス。
それが、これからの私の最重要課題になりそうだ。
……もっとも、その課題をクリアするために、まさか他国の女騎士に教えを請うことになるとは、まだ思ってもいなかったけれど。
私は彼に抱きしめられたまま、次のスケジュール――「嫉妬対策マニュアル」の作成――を脳内で組み立て始めていた。




