第14話 ヘッドハンティングは舞踏会で
夜の王宮。
大広間は数千の魔法灯に照らされ、昼間のような明るさに満ちていた。
シャンデリアが煌めき、オーケストラの生演奏が優雅に響く。
帝国使節団の歓迎舞踏会。
それは政治と社交が入り混じる、きらびやかな戦場だ。
私は壁際で、小さく息を吐いた。
慣れないハイヒール。
そして、身体のラインを拾うマーメイドラインのドレス。
色は深いミッドナイトブルー。
サイラス様が「君の瞳の色に合う」と選んでくださったものだ。
(……動きにくい)
正直な感想はそれだった。
この格好では、緊急時に走れない。
袖の中に手帳も隠せない。
補佐官としては不完全装備だ。
「リリアーナ」
低い声と共に、シャンパングラスが差し出された。
サイラス様だ。
彼もまた、夜会用の正装――漆黒のタキシードに身を包んでいる。
普段の宰相服も威厳があるが、今夜の彼は反則的なほど見目麗しい。
周囲の令嬢たちが、扇子の隙間から熱っぽい視線を送っているのが分かる。
「お疲れ様です、閣下。陛下へのご挨拶は?」
「終わった。……長かった」
彼は疲れたように眉根を寄せ、私にグラスを渡した。
そして、私のドレス姿をじっと見つめた。
「……似合っている」
「ありがとうございます。布面積が少なくて落ち着きませんが」
「他の男に見せたくないな。失敗した」
彼は不機嫌そうに呟き、私の腰に手を回した。
独占欲。
その温かさに、少しだけ緊張がほぐれる。
このまま壁の花として、二人で業務報告でもしていたい。
だが、そうはいかなかった。
「アイゼンガルド公爵! こちらへ! 財務大臣がお呼びだ!」
恰幅の良い貴族が、サイラス様を手招きしている。
公爵であり宰相である彼には、挨拶すべき相手が山ほどいる。
「……行ってくる。ここを動くなよ」
「はい。お仕事、頑張ってください」
サイラス様は渋々といった様子で離れていった。
私は一人、柱の影に残される。
チャンスだと思ったのか、数人の貴族令息がこちらを窺っている。
私は「話しかけるなオーラ(残業中の殺気)」を放ち、彼らを牽制した。
しかし。
その殺気をものともせず、真っ直ぐに歩いてくる男がいた。
燃えるような赤髪。
自信に満ちた笑み。
帝国第二皇子、ルーカス殿下だ。
(……来た)
私は身構えた。
彼は私の目の前で優雅に立ち止まり、一礼した。
その仕草は洗練されており、昼間の傲慢な態度が嘘のようだ。
「やあ、リリアーナ補佐官。今夜は一段と美しいな」
「恐縮です、殿下。王国の夜会はお楽しみいただけていますか?」
「退屈だ。酒は薄いし、音楽は眠くなる。……だが」
彼は一歩踏み込み、右手を差し出した。
「面白い話し相手がいれば、別だがな」
拒否権のない誘い。
私は心の中で舌打ちをし、表面上は淑やかに微笑んだ。
「……光栄です」
私は彼の手を取った。
その瞬間、音楽が変わった。
ワルツだ。
私たちはフロアの中央へと滑り出した。
ルーカス皇子のリードは強引で、それでいて巧みだった。
回転の速度が速い。
試されている。
私は体幹に力を入れ、完璧なステップで追随した。
「ほう。ダンスもこなせるのか。事務屋だと思っていたが」
「必修科目ですので」
「なら、この話も理解が早いだろう」
彼は顔を寄せ、囁いた。
まるで愛の言葉のように、甘く、危険な提案を。
「俺の国へ来い、リリアーナ」
単刀直入。
私は表情を変えずに答えた。
「お断りします。私は王国で契約がありますので」
「契約? 違約金などいくらでも払ってやる」
彼は私の腰を引き寄せ、ターンを決めた。
世界が回る。
「年俸は今の十倍だ。金貨の山で城が建つぞ」
「お金には困っていません」
「なら地位だ。帝国の宰相の椅子を用意する。俺が皇帝になった暁には、国政のすべてをお前に任せよう」
帝国の宰相。
それは実質、大陸の半分を支配する権限を持つということだ。
普通の野心家なら、涎を垂らして飛びつくだろう。
だが、私は冷静に計算した。
帝国の国土は王国の五倍。人口は四倍。
つまり、書類の量は今の二十倍。
それでいて宰相の仕事?
(……過労死確定じゃないですか)
冗談ではない。
私は優雅な隠居生活(with サイラス様)を目指しているのだ。
「魅力的なご提案ですが、激務は肌に合いません」
「嘘をつけ。お前の目は、難解なパズルを解く時に輝くタイプだ。俺の国には、お前を飽きさせないカオスがある」
「カオスは整理するものであって、愛でるものではありません」
「それに」
皇子は更に顔を近づけた。
鼻先が触れそうな距離。
「俺の最新鋭の研究施設を自由に使わせてやる。あの『変換式』の続き、試してみたくないか?」
ピクリ。
私の心が揺らいだ。
帝国の魔導機関と、私の術式理論。
あれを組み合わせれば、未知の効率化が可能になる。
研究者としての好奇心が疼く。
ルーカス皇子は、その一瞬の隙を見逃さなかった。
ニヤリと笑い、勝利を確信したように言う。
「決まりだな。今すぐここを出るぞ。黒鉄竜号が待機している」
「えっ、今すぐ?」
「善は急げだ。あの堅物の宰相など捨ててしまえ。俺の方が、お前を高く評価できる」
彼はダンスの流れに乗じて、私をバルコニーの方へ誘導しようとした。
強引すぎる。
これは勧誘ではない、誘拐だ。
私は足を踏ん張ろうとした。
その時。
ガシッ。
鋼鉄のような手が、ルーカス皇子の腕を掴んだ。
音楽が止まったように感じた。
いや、実際に周囲の空気が凍りつき、静寂が広がっていた。
「……離せ」
地獄の底から響くような、低い声。
サイラス様だった。
いつの間にか戻ってきていた彼は、ルーカス皇子と私の間に強引に割り込んでいた。
その蒼い瞳は、怒りで爛々と輝いている。
「おっと。ダンスの途中だぞ、宰相殿」
「ダンス? ただの連れ去りに見えたがな」
サイラス様はルーカス皇子の腕を振り払い、私を自分の背後に隠した。
そして、会場中の視線が集まる中で、高らかに宣言した。
「条件の提示など無意味だ、皇子殿下」
彼の声が、大広間に響き渡る。
「彼女は、非売品だ」
どよめきが起きた。
「非売品」。
人を物品のように扱う言葉だが、その響きには、どんな宝石よりも価値があるという、絶対的な評価が含まれていた。
「どれほどの金貨を積もうと、地位を用意しようと、渡さない。彼女の価値を正しく理解し、その隣に立つ資格があるのは、私だけだ」
傲慢。
不遜。
けれど、なんと心地よい響きだろう。
私はサイラス様の背中を見上げた。
広い背中。
いつも激務に耐え、国を支えている背中が、今は私一人のために盾になっている。
ルーカス皇子は、しばし呆気にとられ、それから肩をすくめた。
「……はっ。熱烈だな」
彼は手を挙げ、降参のポーズを取った。
「分かったよ。今のところは、引いてやる。……ダンスの邪魔をして悪かったな」
彼は私に視線を投げた。
「今のところは」という言葉に、含みを持たせて。
そして、踵を返して人混みへと消えていった。
残された私たち。
音楽が恐る恐る再開される。
サイラス様が振り返った。
怒っているかと思ったが、その表情は不安げに歪んでいた。
「……揺らいだか?」
「はい?」
「研究施設。……君、一瞬、心が動いただろう」
鋭い。
私は苦笑して、彼の手を取った。
「ほんの少しだけ。……でも、私の契約書には『サイラス様の健康管理』が含まれていますから」
私は彼の指に絡めた自分の指に力を込めた。
「途中解約はしませんよ。違約金が高すぎますから」
サイラス様が、ふっと息を吐き、私を抱きしめた。
強く、痛いほどに。
会場中の視線など、もう気にならなかった。
ヘッドハンティングは失敗に終わった。
けれど、この一件が「氷の宰相」の独占欲に油を注ぎ、翌日からさらに面倒な(そして甘い)拘束が始まることを、私はまだ知らなかった。




