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【第4章スタート!】悪役令嬢は忙しい  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第1話 悪役令嬢は残業中

 カツカツカツ、と硬質な音が室内に響く。

 私が走らせる万年筆の音だ。

 王宮の西棟にある薄暗い執務室。

 窓の外はすでに茜色に染まりかけている。


 手元の羊皮紙には、来年度の宮廷費予算案がびっしりと書き込まれていた。

 私はインク壺にペン先を浸し、眉間の皺を指先で軽く押さえる。


「……計算が合わない」


 つぶやきは、誰に聞かれることもなく空気に溶けた。

 第三騎士団の修繕費が、請求額と実費で三割も食い違っている。

 添付された領収書の魔力印を確認する。

 偽造だ。しかも、実に杜撰な。


 私はため息を飲み込み、手帳を開いた。

 革表紙の愛用手帳。

 そこには今日やるべき業務と、解決すべきトラブルが分単位で記されている。


『17:00 第三騎士団経費の差し戻し処理』

『18:00 卒業パーティー出席』

『19:00 婚約破棄イベント発生(予定)』


 最後の項目を見て、私は眼鏡の位置を直した。

 感情が揺れることはない。

 これは決定事項のようなものだからだ。


 廊下から、忍び笑いが聞こえてくる。

 ドアの隙間から漏れ聞こえる声は、あえて私に聞こえるような音量だった。


「ねえ、聞いた? 今夜なんですって」

「やっとね。あの『鉄の女』もこれでおしまいよ」

「フレデリック殿下も我慢の限界だったのね。あんな可愛げのない女より、ミア様の方がずっとお似合いだわ」


 侍女たちの声だ。

 私はペンを止めず、淡々と書類に修正印を押していく。


 彼女たちの言う通りかもしれない。

 私は侯爵家の娘として生まれたが、愛嬌というものを母の胎内に忘れてきたらしい。

 ドレスや宝石よりも、数字と魔法理論が好きだった。

 口を開けば正論ばかり。

 殿下が「空を飛びたい」と言えば、「重力制御の術式コストと安全性の担保が先です」と答えるような女だ。


 嫌われて当然だろう。


 だからといって、私が仕事を放り出す理由にはならない。

 この予算案を今夜中に仕上げなければ、来月の騎士たちの給与が遅れる。

 国益に関わる問題だ。

 私の個人的な破滅よりも、そちらの方が優先順位は高い。


「……よし」


 最後の一枚を処理し終える。

 インクが乾くのを待ち、書類の束を綺麗に揃えた。

 時計を見る。

 パーティー開始まで、あと二十分。


 私は椅子から立ち上がり、凝り固まった肩を回した。

 執務机の横には、姿見が置かれている。

 映っているのは、地味な濃紺のドレスを着た女。

 髪はひっつめ、化粧気もない。

 目元には、クマがうっすらと浮かんでいる。


 これが、この国の王太子の婚約者だ。

 笑えない冗談である。


 本当なら、今頃は新しいドレスを着て着飾っていたはずだった。

 けれど、発注していたドレスは届かなかった。

 手違いなのか、誰かの差し金なのか。

 追跡調査をする時間はなかった。

 手持ちの中で一番マシな、公務用のドレスを着るしかなかったのだ。


「行きますか」


 私は手帳と万年筆を小さな鞄にしまった。

 これらは私の武器であり、盾だ。

 どんな時でも手放さない。


 執務室を出る。

 廊下にはもう誰もいない。

 侍女たちはとっくに、華やかな会場へ向かったのだろう。


 王宮の長い廊下を一人で歩く。

 ヒールの音が虚しく響く。

 窓から見える中庭では、魔法灯が煌々と輝き、着飾った貴族たちが談笑しているのが見えた。

 まるで別世界の出来事のようだ。


 私、リリアーナ・ベルンシュタインは、あそこに入っていく。

 断罪されるために。


 恐怖がないと言えば嘘になる。

 侯爵家の名誉、両親の顔、これまでの努力。

 それらが泥にまみれる瞬間が迫っている。

 胃の奥が冷たくなる感覚がある。


 けれど、私は立ち止まらない。

 逃げることは、私の美学に反する。

 事実を受け止め、最善の事後処理を行う。

 それが私の仕事だ。


 大広間の巨大な扉の前に着いた。

 衛兵が私を見て、ぎょっとした顔をする。

 遅れて来た上に、こんな地味な格好の令嬢は前代未聞だろう。


「……ベルンシュタイン侯爵家・リリアーナ、到着いたしました」


 私は静かに告げる。

 衛兵が慌てて扉に手をかけた。


 重厚な扉が、ゆっくりと開く。


 溢れ出す光と音楽。

 ざわめき。

 香水の甘い匂い。


 そして、そのすべてが一瞬で凍りついた。


 会場の中央。

 一段高い場所に、その二人はいた。

 金髪をきらめかせ、不機嫌そうに腕を組むフレデリック殿下。

 その腕にぴったりと寄り添い、勝ち誇ったような笑みを浮かべる小柄な少女、ミア男爵令嬢。


 数百人の視線が、私に突き刺さる。

 嘲笑、憐憫、好奇心。

 それらが混ざり合った粘着質な空気。


 私は背筋を伸ばした。

 顎を少しだけ引き、眼鏡の奥の瞳で、彼らを真っ直ぐに見据える。


 殿下が口を開く。

 よく通る、演劇のような声だった。


「遅いぞ、リリアーナ!」


 第一声は、時間厳守への叱責。

 ごもっともです、と私は心の中で同意する。

 だが、今の私には言い訳よりも先に確認すべきことがある。


 私は優雅にカーテシーをした。

 古臭いと笑われる、教本通りの角度で。


「申し訳ありません、殿下。急ぎの決裁がございまして」


 顔を上げる。

 殿下の顔が、怒りで赤く染まっていくのが見えた。


「そのような言い訳は聞き飽きた! 貴様はいつもそうだ。私よりも書類、国務、予算……。私への愛など、欠片もないのだろう!」


 愛。

 その言葉が出たということは、やはり「あの」件だ。

 私は冷静に、鞄の中の手帳の感触を確かめた。


「リリアーナ・ベルンシュタイン! 貴様のその傲慢な態度、もはや看過できん!」


 殿下が手を振り上げる。

 隣のミア嬢が、わざとらしく怯えたふりをして殿下の胸に顔を埋めた。


「よって、私は今ここで宣言する!」


 音楽が止まる。

 静寂が会場を支配する。

 来る。


「貴様との婚約を、破棄する!」


 高らかな宣言。

 周囲から漏れる、期待に満ちた息遣い。

 ヒロインが泣き崩れるのを待つ、残酷な観客たち。


 私は、ゆっくりと瞬きを一つした。

 そして、鞄から手帳を取り出した。

 万年筆のキャップを、カチリと音を立てて外す。


「……承知いたしました」


 私の声は、驚くほど落ち着いていた。


「ただいまの時刻、一八時一五分。婚約破棄の宣言、確かに受領いたしました」


 さらさらと、紙の上をペンが走る。

 会場の空気が、困惑へと変わっていくのを感じながら。

 私は、私の戦いを始めることにした。

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万年筆のペン先をインク壺に?? 万年筆と付けペン併用でしょうか
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