ハロウィン小景 AI版
サンノゼの街が、一年で最も奇妙で、最も解放的な夜を迎えようとしていた。十月の最終日、日没前の空気はまだ生暖かく、それでもどこか乾燥していて、カリフォルニア特有の明るい夕暮れが、街路樹の葉をオレンジ色に染め上げていた。
留学生寮の自室で、僕は鏡に向かっていた。今日は、これから向かうハロウィン・パーティーのために、メイクを仕上げなければならない。
「ちょっと、動かないでよ」
ルームメイトではないけれど、僕と特に仲の良い女子学生、マヤが、僕の顔に細い筆で黒いラインを引いていた。彼女はアジア系の留学生で、普段は神経質そうな顔立ちだが、今日は自分の仮装メイクのついでに、僕を「それらしく」してくれている。
「君は今年もヴァンパイア?」と尋ねると、彼女は「うん、一番簡単でしょ」と笑った。
僕の仮装は、特にテーマはない。ただ、顔全体を白く塗り、目元に黒い影と、血を思わせる赤のアクセントを入れるだけ。日本の歌舞伎役者とロックバンドのKISSの中間のような、中途半端なデザインだった。
「はい、完成。どう?」
マヤが鏡を僕に向けた。顔が別人のように冷たく、悪魔的に見える。これは、僕自身の顔とはまったく異なる表情だ。変身とは、このことか。
そういえば、今朝、大学の近くにあるバンク・オブ・アメリカの支店に行った時も、奇妙な光景を見た。
窓口業務のお姉さんたちが、全員、まるでロック・バンドKISSのような白塗り、黒塗りの強烈なメイクをして、仕事をしていたのだ。彼らはスーツを着て、真面目な顔で、しかし顔だけはロックンロールの悪魔といった風貌で、テラー業務をこなしていた。
「ハッピー・ハロウィン!」
キャッシュを引き出す僕に、KISSメイクの女性が笑顔で言った。そのコントラストがあまりにも鮮烈で、僕は思わず笑ってしまった。合理性と狂気が、日常の中に突然入り込んでくる。この国では、今日だけはそれが許されるのだ。
夜八時、僕は寮の共有スペースにいた。僕をパーティに誘ってくれた、同じ寮に住む日本人学生のサチを待っていた。
サチは僕より一年早くこのサンノゼの地にやって来て、大学のシステムにも、この街の習慣にも詳しい。彼女の仮装は、アリス・イン・ワンダーランドに出てくる「ハートの女王」だという。
「ごめん、待った?」
サチが部屋から出てきた。普段は控えめな彼女の背筋が、今日の衣装のせいで、いつもより伸びているように見えた。
真っ赤なドレスに、首元にはフリル。顔には、ハートを模したメイクが施されている。確かに「ハートの女王」だ。しかし、どこか洗練されていて、ただのコスプレというよりは、仮面舞踏会の貴婦人のようだった。
「大丈夫。素敵だよ、サチ」
僕がそう言うと、彼女は少し照れたように頬を緩めた。
「あなたも、まるで本当に誰かの『影』みたいで、いい感じ。さあ、行こう。場所はここから車で十五分くらい。ちょっと上流階級のパーティらしいから、浮かないようにね」
サンノゼの住宅街を車で走らせる。夜の九時だというのに、街はまだ眠らない。子供たちが親と一緒に、パンプキン・バケツを手にしながら、家々を回っている。
「トリック・オア・トリート!」
どこからか、甲高い声が聞こえてくる。普段は静かな街が、今日は別世界だ。
サチが運転する車は、やがて高級住宅地の一角にある、大きな邸宅の前で停まった。門の前にはすでに数台の車が停まっており、家の中からは、ベースとドラムの響き、そして大勢の笑い声が漏れていた。
「緊張するなあ」
思わず口から出た僕に、サチが微笑みかける。
「大丈夫。誰もあなたの本当の顔なんて気にしない。だって、みんな『誰か』になっているんだから」
彼女の言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。僕は、マヤが施してくれたKISSのようなメイクの裏に、自分の不安を隠したまま、サチの後について、邸宅の中へと入っていった。
邸宅の中は、驚くほどの人でごった返していた。リビングルームは簡易的なダンスフロアになっており、DJが爆音でヒップホップをかけている。
天井には蜘蛛の巣の飾り付け、壁には血のりのようなペイント。人々は、普段は見せないような奇抜な衣装に身を包み、大声で笑い、踊り、そして、互いを好奇の目で見ていた。
僕とサチは、隅のソファ席で、まずはこのカオスを観察することにした。
「すごいね、こんな本格的なパーティ」
サチが耳元で囁いた。
その時、僕たちの視界に、一際目立つ人物が飛び込んできた。
古代ギリシャの戦士、あるいは英雄のような仮装をした大柄な男性。白いドレープの効いたゆったりとした衣装をまとい、足元は革紐のサンダル。顔立ちは彫りが深く、その金色の髪はまるで神話から抜け出てきたようだ。
そして、彼の最も目を引く装飾は、その首に巻かれたものだった。
「あれ、ニシキヘビ?」
それは、作り物にしてはあまりにリアルな、巨大なニシキヘビだった。男性は、その冷たい爬虫類をまるで勲章のように首に巻きつけ、人々の注目を一身に集めていた。
サチが小声で言った。「あれが、ニコラスよ。このパーティの主催者の一人。ギリシャ系らしいわ」
ニコラスは、時折、ヘビの頭を撫でながら、大声でゲストたちと談笑している。彼の周囲には、常に人だかりができていた。
しばらくして、僕たちの横に、一人の女性がやってきた。
黒いローブに、高く尖った帽子。顔は、まるで森に住む魔女のように、緑がかったメイクが施されている。
「ハッピー・ハロウィン。サチの友達?」
彼女は片手にプラスチックカップを持っていた。その声は聞き覚えがあった。
「キャシーじゃない。魔女の仮装、似合ってるよ」サチが言った。
キャシー。彼女は、寮で僕の部屋のちょうど向かいに住んでいる、金髪の学生だった。普段はジーンズとTシャツ姿で、少し気だるそうな雰囲気の女性だが、今日の彼女は、妖艶で、どこか悪意のある笑みを浮かべている。
「ありがとう。あなたたち、ちょっと大人しいんじゃない?もっと飲んで、楽しまなきゃ」
キャシーは僕たちの間に座り、ニコラスの方を指差した。
「彼、すごいでしょう。本物のニシキヘビなのよ。ペットとして飼ってるんだって」
その時、サチが紙皿を二つ持ってきた。
「ちょっと、お腹空いちゃった。これ、よかったらどうぞ」
紙皿の上には、ローストされたパンプキン・シードが山盛りになっていた。香ばしい、独特のナッツの香りが、室内の熱気の中で立ち上る。
僕たちは、音楽の爆音の中で、パンプキン・シードをかじりながら、他愛ない会話を続けた。キャシーはニコラスのヘビの話、サチは留学生活の苦労話、僕は日本の習慣とアメリカの習慣の違いについて。
そして、その場にニコラス本人が、ヘビを首に巻いたまま、加わってきた。
「君たち、日本人?面白いメイクだね!」ニコラスは豪快に笑い、僕の肩を叩いた。彼の腕の筋肉は、白い衣装越しにもはっきりと分かるほどだった。
僕、ニコラス、サチ、キャシー。四人は、ハロウィンの夜の熱狂の中で、一気に打ち解けていった。
ハロウィンの喧騒から一週間後の週末。
あのパーティでの約束が実行されることになった。僕とニコラス、サチ、そしてキャシーの四人で、サンフランシスコにシーフードを食べに行くことになったのだ。
朝十時、僕の運転でサンノゼを出発した。高速道路を北上し、約一時間。サンフランシスコの街は、サンノゼとは打って変わって、冷たい霧に包まれていた。
今日の僕たちは、普通の学生に戻っていた。ニコラスはスウェット姿、キャシーはレザージャケット。あの夜の仮装も、ヘビも、もうどこにもない。しかし、あの夜にできた親密さが、僕たち四人の間には残っていた。
ランチの場所は、サチが見つけてくれたフィッシャーマンズ・ワーフ近くの、有名なシーフード・レストランだった。
予約席は、幸運なことに窓際だった。
テーブルには、大皿に盛られた生牡蛎と、ボトルで頼んだ冷えたシャルドネ。牡蛎の新鮮な潮の香りと、ワインのフルーティーな香りが、店の活気ある雰囲気と混ざり合う。
目の前の窓ガラス越しには、灰色の海と、サンフランシスコの代名詞とも言えるあの橋が、ぼんやりと見えていた。
「すごい霧だね」とニコラスが言った。
「ゴールデンゲートブリッジが、まるで幻みたいに霞んでる」キャシーが目を細めた。
赤錆色の巨大な鋼鉄の橋は、濃い乳白色の霧の中に、その足元をほとんど隠してしまい、まるで空中にかかった一本の線のように見えた。
僕たちは、牡蛎にレモンを絞り、ワインをグラスに注ぎながら、たわいのない話をした。ニコラスは自分の故郷であるギリシャの島の話を、キャシーは大学を卒業したらヨーロッパを旅したいという夢を語った。
サチは、日本で働いていた時の話をして、僕に「もっと自分の意見を言った方がいいよ」と笑った。
僕たちの国籍はバラバラだ。日本、ギリシャ、そしてアメリカ。しかし、僕たちは今、牡蛎とワインを囲み、同じ霧の風景を見つめている。あのハロウィンの夜に、僕たちがまとった「仮面」が、僕たちを繋いだのだ。
夕方五時。サンフランシスコの霧と寒気から逃れるように、僕たちは帰路についた。
運転は、僕が担当した。
サンフランシスコの街中を抜ける時、ナビが示唆した道は、非常に狭い路地だった。路肩には、所狭しと車が駐車されている。
「ちょっとここ、狭くない?」キャシーが後部座席から心配そうに言った。
僕は慎重にハンドルを握った。しかし、対向車線から突然、大きなピックアップトラックが、猛烈なスピードで現れた。
避けようとして、一瞬、ハンドルを切りすぎた。
ガリガリッ――。
耳を覆いたくなるような、嫌な音が車体の左側から響いた。助手席側のリアドアが、路肩に停まっていた車のサイドミラーと、その車の前後のバンパーに、大きく擦れてしまったのだ。
「オーマイガー…」
ニコラスが小さく呻いた。
僕はすぐに車を路肩に停めた。降りて確認すると、レンタカーの真新しいシルバーの車体には、痛々しい黒と白の擦り傷が、ドア全体に斜めに走っていた。
すぐに、事故を起こした車(こちらは被害者だった)の持ち主が出てきて、警察を呼ぶことになった。手続きはすぐに終わったが、問題は車の修理費だ。
レンタカー業者との契約を思い出す。僕は、料金を安くするため、車両保険には入っていなかった。
「どうするの?すごい傷だね」サチが不安そうに言った。
ニコラスは、腕を組み、真剣な顔で言った。
「レンタル契約書によれば、保険に入っていないなら、修理費は借りた人間、つまり君が全額払わなければならない」
彼は、僕が運転していたのだから当然だ、というような口調で言った。キャシーも、うん、そうなるよね、といった表情で頷いている。
日本の習慣が頭をよぎった。もし日本で、友人たちとの旅行中にレンタカーを傷つけてしまったら、参加者のアタマ割りで修理費を折半にするのが、暗黙の了解だった。しかし、ここはアメリカ。個人主義の国だ。
「わかった。僕が払うよ」
僕は、その場で修理費の概算をレンタカー会社に連絡し、金額を聞いた。それは、予想していたより遥かに高額だった。
サンフランシスコの霧のロマンチックな風景は、あっという間に消え去った。帰りの車内は重苦しい沈黙に包まれ、僕の心は、頭の中を駆け巡る修理費の計算でいっぱいだった。
終章:苦いシードとバドワイザー
翌週の月曜日。ハロウィンの喧騒が完全に終わり、街が日常の顔を取り戻した日だった。
僕は、あの日の修理費を振り込むため、ダウンタウンのバンク・オブ・アメリカに向かった。
窓口には、もうKISSのようなメイクをしたお姉さんはいない。真面目な顔の、普通のスーツ姿のテラーが、冷静に僕の預金を引き出す手続きをしてくれた。
十月三十一日に見た「狂気」は、一瞬の幻だったかのように、すべて消えていた。この街は、あっという間に合理性と真面目さを取り戻したのだ。
ATMから吐き出された、薄い紙幣の束を手に、僕は重い足取りで寮に戻った。手にしたお金は、当面の生活費から捻出されたものだ。
自室に戻り、僕はカバンから一つの紙皿を取り出した。
あのパーティの夜、サチが持ってきてくれた、ローストされたパンプキン・シードだ。日数が経ち、シードはすっかり乾燥しきっていて、手に取ると、油分が抜けたせいか、わずかに苦い匂いがした。
僕は、冷蔵庫からキンキンに冷えたバドワイザーを取り出し、プルトップを開けた。
「シュッ」という、短い炭酸の音だけが、静かな部屋に響く。
窓の外では、サンノゼの秋の強い日差しが、いつも通りに降り注いでいる。
僕は、紙皿の上の苦いパンプキン・シードを、一掴み口に放り込んだ。そして、冷たいバドワイザーでそれを一気に流し込む。
苦味と、ビールの軽い炭酸が、喉を通り過ぎていく。
この一週間で、僕は多くのことを学んだ。仮装が与えてくれる解放感。人との予期せぬ繋がり。そして、国境を越えた先にある、個人責任の重さ。
生牡蛎とワイン、霧のゴールデンゲートブリッジ。そして、修理費という現実の痛み。
すべてが、あの「ハロウィン小景」の中にあった。僕が経験した、わずか数日間の、甘く、そして苦い異文化の断片だ。
〈了〉




