60歳春江。異世界で人生の伏線回収します!
「……また病院の天井か」
白い蛍光灯がチカチカと瞬く。
私はその眩しさに目を細めながら、酸素マスク越しに息を吐いた。ああ、またか。これで、何度目の入院だろう。
「春江さん、娘さんは今日は来られないそうです」
優しい看護師さんの声。聞き慣れた、けれど少しだけ胸に刺さる一言。
そう、私は60歳。
娘とは十年以上ちゃんと向き合って話せていない。
夫はとうに別れて音信不通。両親も他界し、孫もいない。
人生のエンドロールが流れ出しているのを、私は淡々と受け入れていた。
「まあ、こんなもんよね……」
その瞬間、鼓動がふっと止まった。
まるでテレビの電源が落ちたみたいに、すべてがスンと静かになって、私は、眠るように息を引き取った。
⸻
目を覚ました私は、息を呑んだ。
森。
それも、まるで絵本に出てくるような、ふわふわした光が差し込む幻想的な森。
身体が軽い。喉も苦しくない。点滴も、病室の匂いも、もうどこにもない。
「お目覚めですか、春江様」
振り向けば、白いローブを纏った美しい女性が立っていた。背中には羽のような光が揺れている。まさか、天使……?
「あなたは人生に“未回収の想い”が多すぎました。そのため、こちらの世界――レトラムに転生していただきました」
「て、転生?」
「ええ。そして、その心に残った伏線の数々――“親に愛されたかった”“裏切られた理由を知りたかった”“恋をしてみたかった”――すべて、回収していただきます」
私は思わず、吹き出した。
「なにそれ。人生やり直しツアーってこと?」
「ええ、簡潔に言えばそうなります。ただし――外見は、あなたが最も戻りたかった年齢に設定されます」
「戻りたかった……?」
私の手を見て、凍りついた。
細くて、柔らかい。シワのない、まるで子どもみたいな手。
「なんで……14歳……?」
「あなたが“やり直したい”と最も願ったのが、14歳の時だったからです」
私は、笑った。呆れて。途方もなく。
「60歳の心で、14歳からやり直せって? ははっ……これはまた、無茶を言うわね」
でも。
心のどこかで、少しだけ、胸が温かくなった。
もしかしたら――
この“やり直し”で、私はようやく、「幸せだった」って言えるかもしれない。
ーーーーーーーーーーー
森を抜けると、小さな町が見えた。
石造りの家々が並び、人々が忙しなく行き交っている。だが――誰も笑っていなかった。
店先のパン屋の少女も、馬を引く農夫も、どこか魂が抜けたように、ただ「作業」をしている。
「……活気が、ないわね」
「この世界では“感情”が徐々に失われています」
再び天使のような女性――セリナが隣に現れた。
「原因は不明ですが、心の感情が薄れ、人々は本来の自分を失っています。あなたの役目は、“感情の種”を灯すこと」
「感情の……種?」
「ええ。あなたが“人生で感じてきた強い感情”は、魔法として発現します。たとえば――怒り、悲しみ、愛、許し。あなたの心が力となり、この世界に感情を取り戻すのです」
なんて厄介な設定よ、まったく。
私は思わず額を押さえる。けれど、少しだけ、心がふるえていた。
“私の感情に、意味があるの?”
初めて、そんな風に思った。
「春江、おまえか。転移者は」
不意に、低い男の声が響いた。振り向くと、背の高い銀髪の青年がこちらを見下ろしていた。
鍛えられた身体、冷たい瞳。黒い騎士服。これはまた、少女漫画から出てきたみたいな男ね。
「……誰?」
「王都騎士団所属、クレイル。おまえの護衛だと聞いている。……ずいぶんと、小さいな」
「心は小さくないわよ」
思わず口を突いて出た言葉に、男は目を丸くした。
そして、わずかに――ほんの少しだけ、口元が緩んだ気がした。
「おもしろい子供だ。……まあいい。ついてこい。護衛対象を見失うと報告が面倒だからな」
ああ、面倒くさい男だこと。
でも――
「春江様、あなたの魔法が世界を変えます。そして、あなた自身の人生も」
セリナの言葉が、耳に残る。
歩き出したその瞬間。
私は、自分でも気づかぬうちに、小さく笑っていた。
ーーーーーーーーーーー
町の広場に出ると、目の前に大きな掲示板が立っていた。
そこには色あせた紙が数枚、貼られている。
「……これ、なに?」
「“感情再生者リスト”だ」
クレイルが淡々と答える。
「レトラムには本来、魔法というものは存在しない。剣と技術だけで支えられてきた世界だったが……ある時期から、ごく稀に“転移者”と呼ばれる者が現れた」
私は掲示板に目を移す。そこには、年齢や出身、転移の経緯らしきものがびっしりと書かれていた。
「感情の強い転移者が来た時だけ、“魔法”が発生する。怒りが火を生み、涙が水を呼び、愛が癒しの力となる。だがそれは一時的で、転移者が去ると世界はまた灰色に戻ってしまう」
クレイルの声がどこか、寂しげだった。
「それで……転移者は、どうなるの?」
「国が保護する。……正確には、“管理”する。だが同時に、彼らには“人々に感情を思い出させる”という重要な役割がある。だからいろんな経験をさせる。戦場、村、孤児院、城……ときには恋も。感情が揺れれば揺れるほど、世界に色が戻るからだ」
「それって……感情を無理やり引き出してるんじゃないの」
思わず口から出た言葉に、クレイルがこちらを見た。
「……賢いな、おまえは。だが、それでも転移者は必要なんだ。感情を失った世界は、もう生きる意味すら忘れてしまう」
私は無言で掲示板の紙を一枚なぞった。
ある女性の記録。彼女は「後悔」の感情から風の魔法を使ったと記されている。
ふと、自分の胸に手を当てた。
私の中には――
怒りも、悔しさも、愛したかった気持ちも、たくさん残っている。
「……私の感情で、この世界が少しでも変わるのなら」
言いかけたところで、クレイルが言った。
「おまえの魔法が、どれほどの力か――それを見せてみろ」
私は、少し笑った。
「いいわ。60年分の感情、見せてあげる」
ーーーーーーーーーー
町外れの広場に、小さな影がしゃがみこんでいた。
ぼろぼろの服。ひざを抱えて、顔を伏せる少女。髪は乱れ、肌はすすけていた。
「また……あの子、ひとりぼっちか」
町人のひとりが呟くのが聞こえた。
誰も声をかけない。見ないふりをして、通り過ぎていく。
「どうして、誰も――」
私の足が、自然と動いていた。
少女のそばにしゃがみこみ、そっと声をかける。
「こんにちは。寒くない?」
少女はぴくりと肩を震わせたが、何も答えない。
じっと顔を伏せたまま。手は震えていた。
「名前、聞いてもいい?」
「……ナ、ナナ……」
蚊の鳴くような声だった。
私は、その名を胸の中で繰り返した。
ナナ。小学校の頃の私に、そっくりだった。
大人に嫌われないようにして、でも子供たちにいじめられて、誰にも言えなくて、ひとりで泣いてた――そんな、14歳の春江に。
私はゆっくりと、ナナの手をとった。
「ナナちゃん。あなた、今すごく悲しいでしょ?」
その瞬間だった。
胸の奥が、熱くなった。
光が、ナナと私を包みこむ。
世界が、色を取り戻す。
ナナの目から、大粒の涙がこぼれた。
そして私の手から、淡い水のリボンのような魔法が生まれていた。
それは優しく、ナナの頬をなで、心に触れ、痛みをそっと溶かしていくようだった。
「私もね、ずっとひとりだったの。誰にもわかってもらえなくて……でも、それでも、生きてきたの」
ナナが、ぽつりと呟く。
「こわかったの……何も感じないのに、毎日がつらくて……でも、泣けなかったのに……泣いてもいいの?」
「うん、いいのよ。たくさん泣いて。感情は、悪いものじゃない」
私の手の中の光が、ふわりと膨らみ、青い花びらのように空に舞い上がる。
その光景を、少し離れたところで見ていたクレイルが呟いた。
「……これが、“感情の魔法”……」
ナナの頬に、笑顔が戻った。
私も、笑っていた。
私の中に残っていた、あの頃の痛みが。
今、誰かを救う力になった――
それだけで、少しだけ、自分を許せた気がした。
ーーーーーーーーーーー
王都へ向かう街道は、静かだった。
野花が咲く丘の上を、馬車がゆっくりと進んでいく。
私は、窓の外を眺めていた。
昨日の出来事が、まだ胸に残っている。
泣けなかった少女――ナナ。
彼女の目から涙がこぼれた瞬間、私の中にも何かがこぼれた気がした。
「あんな魔法、見たことない」
不意に、向かいの席に座るクレイルが言った。
表情は相変わらず真面目くさっていたが、声にわずかに熱がこもっていた。
「感情魔法ってのは、ああやって発動するのか?」
「ううん、私にもよくわかってないの。ただ、あの子を見て……ほっとけなかった。それだけ」
「……おまえ、転移者としては変わってるな」
「どこが?」
「普通の転移者は、力を得ると浮かれる。自分が特別になったみたいに思って、周りに誇示する。でもおまえは違う。力を持っても、自分を責めてるように見える」
私は目を伏せた。
「責めてるわけじゃない。ただ……ずっと、自分には“意味がない”と思ってたのよ。
誰にも必要とされてない、って思いながら生きてきたから」
静かな馬車の中に、風の音がすべりこんでくる。
しばらく沈黙が流れた。
クレイルが、ぽつりと呟く。
「……必要とされてなかったわけじゃないと思うぞ」
私は、そっと彼の顔を見る。
その横顔は、少しだけ照れているように見えた。
「……おまえがナナにしたこと、あれが“意味がない”なら、世の中には何も意味がなくなる」
それは、優しい言葉だった。
私がずっと、誰にも言われなかった言葉だった。
「ありがと。でも、私を持ち上げすぎないで。おだてられると落ち着かないのよ」
「そうか。じゃあ、もう言わない」
ふっと笑いそうになった。
この人は本当に、器用じゃない。
でも――
そんな不器用さに、少しずつ、安心できるようになっている自分がいた。
この感情を、まだ「恋」と呼ぶには早すぎる。
でも、「この人と一緒にいてもいいかもしれない」と、思い始めたのは本当だった。
「王都に着いたら、何が待ってる?」
「貴族の依頼だ。“娘が急に感情を失った”らしい。おまえの魔法で、何かわかるかもしれない」
「貴族ね……嫌な予感しかしないわ」
「俺もだ」
2人の声が重なって、わずかに笑いが生まれる。
馬車の外、王都の城壁が見えてきた。
高く、古く、そしてどこか“冷たい”。
私がかつて、心を閉ざした相手――あの人に、似た気配がする。
「……今度こそ、ちゃんと向き合えるといいわね」
私は、自分に言い聞かせるように呟いた。
ーーーーーーーーーーー
王都の空気は、どこか冷たかった。
石造りの街並みに広がるのは、美しさよりも静寂。そして、沈黙。
「……ここも感情を失ってる」
「一番進行が深い地域だ」
クレイルが短く答える。
人々の表情は無機質で、目に光がない。まるで人形のようだ。
王宮の門をくぐると、待っていたのは一人の貴族だった。
「ようこそ、転移者そして感情再生者殿。お招きに応じていただき、感謝する」
整った顔立ち、静かな微笑み――けれど私は、心の奥に冷たい何かが走るのを感じた。
「あなた、どこかで……」
「私はレミエル・カーヴェン卿。この国の文官長だ。そして――私の娘が、“感情を失った”」
私は言葉を失った。
レミエル――その横顔は、若かりし頃の“あの人”に似ていた。
十数年前、私を裏切った元夫。
彼は、こんな風に笑った。こんな風に、やさしげな顔で、嘘をついた。
「娘に感情を取り戻してほしい。君の力に期待している」
私はうなずくしかなかった。けれど、手は震えていた。
*
レミエルの娘――リゼリアは、部屋の隅でじっと座っていた。
目は虚ろで、口は固く閉じられ、何も反応しない。
私は、そっと彼女の手を取った。
「……あなたは、傷ついたのね」
その瞬間、光がほとばしった。
私の胸に、リゼリアの記憶が流れ込んでくる。
――声が届かない
――愛された記憶がない
――存在を否定される恐怖
――“どうせ、誰にも必要とされていない”
まるで、昔の私そのものだった。
私は、涙をこらえながら、彼女の手をぎゅっと握った。
「私も、そうだった。夫に裏切られて、信じてたものを壊されて、ひとりぼっちだった。
それでも、私は生きてきた。
痛みを抱えてでも、生きていいの。あなたの感情は、消えちゃいない」
リゼリアの目に、初めて涙が浮かんだ。
淡い光が、彼女の胸元から広がって――魔法のように、色彩が戻っていく。
*
治療を終えて部屋を出ると、レミエルが待っていた。
「……ありがとうございました。娘が涙を流す姿を、私は初めて見ました」
その目には、ほんの少しの“父親の顔”が見えた。
私は、少し迷って、そして言った。
「あなたに、そっくりな人がいたの。私の、かつての夫」
レミエルが、目を見開く。
「彼は、私を裏切った。でも……いま思えば、あの人も、何かに怯えていたのかもしれない。
だから私は、もう赦すわ。誰のためでもなく、自分のために」
そう告げた瞬間――私の中にあった“刺”が、ふっと抜けた気がした。
*
夜、王都の空の下。
クレイルがぽつりと訊いた。
「おまえ……大丈夫だったか?」
「うん。……不思議ね。誰かを赦すって、相手のためじゃないの。
自分の痛みを、自分で抱きしめるってことなのね」
「……おまえは強いな」
「強いんじゃないの。弱くても、進むしかないのよ。60年、それだけは学んだから」
そして私は、そっと笑った。
「ありがとう。あんたがいてくれて、良かった」
クレイルが目をそらしながら、小さく頷いた。
そして、王都の夜空に、久しぶりに星が瞬いた。
ーーーーーーーー
「感情の源が王都地下にある。そこに“虚無の王”が眠っている」
王宮の書庫で見つかった古文書に、そう記されていた。
クレイルと私は、秘密の通路を抜け、重たい石扉の前に立った。
「この先に、おまえが向き合うべきものがある」
クレイルの声は静かだった。
「ありがとう。ここからは、私ひとりで行くわ」
「……わかった。でも、終わったら戻ってこい」
私は、うなずいた。
扉の奥。
そこにいたのは――私だった。
60歳の、現実の私の姿。
やつれた顔。乾いた目。どこにも希望なんて宿っていない、自分自身の影だった。
「よく来たわね、春江」
“虚無の王”が笑った。
「あなたが封じ込めた感情、全部私が預かってたの。
“誰にも愛されなかった”“何も選べなかった”“泣いたら笑われた”
あなたが見ないようにしてきたもの、ぜんぶ、ここにある」
「……そうね。見ないふりをしてた。
でも、だからって、それが“なかったこと”にはならない」
私は、影の自分に歩み寄る。
「私は、ちゃんと生きた。傷ついて、泣いて、何度も失敗したけど――それでも生きてきた」
“虚無の王”の目が揺れた。
「愛されなかったからこそ、誰かを抱きしめたかった。
笑われたからこそ、人の涙が痛かった。
私は私のままで、生きていい。そうでしょ?」
私はそっと、影の私の手に触れた。
光があふれ出す。
闇に閉じ込められていた感情が、一斉に空に舞い上がる。
怒り、悔しさ、哀しみ、恋しさ――
そして、小さな、小さな「ありがとう」の声。
私はそれをすべて受け止めた。
60年分の想いを、ようやく、まっすぐ見つめることができた。
“虚無の王”はゆっくりと微笑み、静かに消えていった。
*
地上に戻ると、王都の空は澄んでいた。
人々の顔に、色が戻っていた。笑い声が、小さく響く。
「終わったのか?」
クレイルが、私の手をそっと握る。
私は、うなずいた。
「ええ。……ようやく、自分に“ありがとう”って言えた気がする」
「それで十分だ」
彼の言葉に、私は静かに微笑んだ。
「私の人生、つらいことばかりだった。
でも、全部が無駄だったわけじゃなかった。
ひとつでも誰かを救えたのなら――
私は、幸せだったって、言ってもいいよね」
そのとき、風が吹いた。
温かくて、優しい春風だった。
⸻
その後、私はこの世界の片隅に、小さな診療所を開いた。
“感情の魔女”と呼ばれているけれど、私はただ、人の話を聞いて、泣いて、笑っているだけ。
たまに、クレイルが顔を見せる。
仕事帰りに、人気のお菓子を手土産に持ってきてくれる。
クレイルは私にとって特別な存在となりつつある。
「恋じゃないわよ。ただ、そばにいてくれるのが、ありがたいだけ」
……でも。
心のどこかでは、もう一度、誰かを愛してもいいのかもしれないって――
思ってる。