第99話 裏社会の恐ろしさを知る
俺は吉村に連れられて、事務所の外に出た。
来るときも思ったが、この事務所の場所はとても分かりにくい上、通路が狭く、ひどく汚かった。
下水道のような独特の匂いもするし、壁にはスプレーの落書きがびっしりだった。
そんな光景すらも吉村は「賑やかだろう」と前向きにとらえていた。
「うちが管轄する店は歌舞伎町だけでも約30店舗以上ある。小せぇのや、舎弟も含めるともっとあるけどな。店は歌舞伎町以外にもあるぞ。渋谷、池袋、恵比寿、浅草。飲み屋街と呼ばれる場所なら大半はある。そんな中でも一番売り上げがいいのは銀座だ。銀座はやっぱり太客が多いからなぁ。あそこだけは、山南さんが直接管理してんだよ」
吉村は歌舞伎町の街を大股で歩きながら、がはがは笑って答えた。
吉村の恰好は山南や原田と違って、いかにもヤクザという装いだった。
型崩れした黒いジャケットスーツにガラシャツ。
首元には黄金色に輝く喜平のネックレス。
どこからどう見てもそっちの人間だ。
しかし、歌舞伎町という場所は特殊で、そういった装いの人間も少なくなかった。
基本的にはスーツ姿の男が目立ったが、明らかにカタギとは違う臭いを漂わせている。
中にはホストらしき男や派手な恰好をした女を見せびらかすように連れて歩く男もいた。
俺にとって夜の歌舞伎町はなかなか近寄りがたい場所であり、こうして足を運ぶこともなかった。
しかし、こうしてみてみると、案外歌舞伎町に面した大通りにあるのは飲食店ばかりで、キャバクラやホストクラブはあまり見当たらなかった。
目線を少し上にやっても、あるのはカラオケ屋や雀荘などの娯楽施設ばかりだ。
しかし、いざ小道に入っていくと、そこにはオシャレなバーとともに、怪しい店の看板がずらりと並んだ。
看板の名前だけ見ても、一体それが何の店かわからないものも多くあった。
吉村はそのうちの小さなビルを指さし、細い階段を上り始めた。
俺は急いでその後ろをついていく。
そして、吉村は二階にある扉を豪快に開けて、いきなり店長を呼び出した。
「よぉ、店長いるかぁ?」
店の中には既に何人かの客が入っていて、吉村の態度に驚いている様子だった。
そして、慌てた様子で店長と思しき男が現れる。
「吉村さん、営業中は勘弁してくださいよぉ。お客様がいらっしゃるんですからぁ」
店長は額に大量の汗を浮かべながら、吉村を店の外に追いやりそう言った。
吉村は困ったというように頭を搔いた。
「しかしなぁ、昼間訪ねても誰もいねぇだろう?だから、わざわざ営業時間狙ってきたんだぜ」
吉村は悪びれもなくそう答える。
確かに昼間の歓楽街はどこか閑散としているイメージがある。
この店の営業時間も遅いのだろう。
「今日は忙しいんです。用件は後日改まって来てください」
そう言って店長は吉村を追い出そうとしたが、吉村は動こうとしなかった。
それどころか、素早く店長の腕を掴み、神妙そうに答えた。
「それじゃ困るんだよ。お宅の店、まだ共益費払ってないでしょう?これ以上滞納しちゃうと、店没収になっちゃうよ」
吉村はそんな言葉を淡々と告げていた。
店長を脅すような威圧感のある表情はしておらず、あくまで店長を心配そうに見つめていた。
おそらく吉村の言う『共益費』とはみかじめ料のことを言っているのだろう。
店から見れば明らかに恐喝であるのに、そのように見えないのが不思議だ。
そして、吉村は店長に無理やり肩を組んで、耳元で囁くように言った。
「僕はさぁ、店長がお店を守るために一所懸命なの、ずっと見てきたんだよぉ。だからさぁ、こんなことで潰れてほしくないんだよね。今までさ、お互いに協力し合って築き上げたお店じゃん。これからもしっかり守っていこうや」
俺は吉村の言葉を聞いてぞっとした。
一見脅しに聞こえない言葉でも、かなりのプレッシャーを感じた。
店長は吉村の言葉に耐えられなかったのか、その場で土下座をして謝り出した。
「吉村さん、ほんと勘弁してください。これ以上金上げられたら、うちの店、やっていけないんです。来月には必ず足りない分はお支払いします。だから今日のところは帰ってください」
俺はそんな店長の姿を見て、つい同情してしまった。
こういう場所での飲食店経営はなかなか難しいのだろう。
どれだけの金を吹っ掛けられているかはわからないが、払えないという店長の気持ちもわかるような気がした。
すると、今まで同情するかのような表情だった吉村の顔が一変して、険しく恐ろしい顔へと変貌していた。
「そりゃないよ、店長。先月もそう言って払わなかったでしょう。もうつけがこんもりとたまってんのよ。これ以上は僕も庇ってあげられない」
そう言いながら、吉村は土下座している店長の頭を無理やり上げさせて、「それから」と続けた。
「僕、知ってるんだよ。店長は昼間からパチンコ行ってるでしょう。それも毎日欠かさず。パチンコもね、立派な賭け事なのよ。何時間もいれば、万なんてすぐに飛ぶ。店長、金がないなんて言ってるけど、そりゃ、本当ですかい?僕はもう店長が信じられないよ」
その言葉に俺はさらに鳥肌が立った。
吉村は店長がわざとみかじめ料を払おうとしていないのを見抜いている。
こんな商売で彼らをなめてかかったらろくなことにはならない気がした。
店長は小さな悲鳴を上げて、再び石のように丸くなった。
吉村は小さくため息をついて、店の中に入り、ボーイの一人を呼びつけて、レジ内のお金をすべて出すように指示した。
そしてその金だけをもって、外に出る。
「店長、僕はがっかりだよ。店長のこと信じていたのに、店長は僕を全く信じていなかった。今日の分はもらっていくよ。足りない分は後日他のもんが取りに来るから、ちゃんと用意しとってくださいね」
彼はそう言って、店長の前を通り過ぎようとしたとき、何かを言い忘れたように振り返った。
「それと逃げようとか思わない方がいい。僕らは裏切りもんを許さない。地の果てまで、どこまでも回収しに行きますからね」
彼はそれだけ言い残して、階段を下りて行った。
こういう世界が世知辛いものだとは知っていたが、目の前で見るのは圧巻としか言いようがなかった。
俺は懐に金をしまいながら歩いていく吉村を追いかけながら尋ねた。
「これが飲食営業の仕事ですか?俺は今からみかじめ料を回収するのが仕事なんでしょうか?」
すると、吉村はゆっくりと俺の方を振り返って、少し驚いた顔をしていたけれど、すぐに大きな声で笑い出した。
「『みかじめ料』って君、任侠映画の見過ぎだよ。さっきも言ったでしょ。これは共益費。お店を斡旋するための管理費のようなものだよ。ほら、家借りても家賃以外に払うお金あるでしょ、それと一緒」
まるで答えになっておらず、俺は唖然とするしかなかった。
「土方君は大きな誤解をしているよ。僕らはねぇ、ただ楽して稼ぐためにこんなことをしているわけじゃないんだよ。彼らがああして安心して店を開けるのは僕らがこの街を管理しているからなんだ。嫌な客が来れば、トラブル対応に向かうし、町の治安を守るために巡回も行う。店を出す土地の貸し出しや細かい管理業務を請け負い、従業員の紹介といろいろ世話を焼いてきたんだよ。それなのに、急に払えないなんて、それこそ店側の詐欺じゃないか。そういう契約でお店を出す手伝いをしたのにさ。やっぱりこの世界は信用第一だと思うんだ。こういう裏切りは一番よくないよね」
彼はそう言って笑った。
本気で言っているのだとしたら、この男は何て恐ろしい男なのだと思った。