第98話 山南の事務所に驚愕する
大通りから少し入った場所にそれはあった。
駅から徒歩10分、好立地とは言えない。
伊東さんの事務所とは違い、築年数も新しく、俺が勤めていた昭和の香りがするオフィスビルなんかよりよっぽどオシャレできれいだった。
エントランスホールは小さくはあるが清潔感があり、どこかのビジネスホテルのような雰囲気がある。
ホールの奥にあるオシャレな木目調のエレベータードアの前に立ち、俺はエレベーターが来るのを待った。
軽快なベルト音を立てて、扉を開き、中に入ると、最上階7階のボタンを押した。
揺れもなく、静かなエレベーターで最上階に上がりながら、本当に今から向かうのはヤクザの事務所なのかと疑いたくなるほどだった。
そして、最上階につくと、目の前にはガラス張りの壁と扉。
扉の横にはしゃれた観葉植物に定期的に業者が交換しているであろう足拭きマットが引かれてあった。
俺は今日も楠に誘導されながら、室内に入っていく。
その巨大なガラスドアの向こうに進むと、表にいた社員らしき男が俺たちに気が付き、いそいそとこちらにやってきて、用件を聞いてきた。
楠が到着したことを伝えると、男は軽く会釈をして自分の机に戻り、自分の机の固定電話で内線をかける。
ここはどう見たって普通のオフィスでヤクザの事務所には絶対に見えない。
広い部屋に机が騒然と並べられていて、それぞれの机の上にはノートパソコンと電話機が置いてある。
誰もいない席はいくつか見られたが、誰もが忙しそうに電話を掛けたり、パソコンを打ち込んでいたりしていた。
俺の元会社より会社らしいというか、目の前にいる男たちも普通のサラリーマンに見えた。
唯一、違和感があるとしたら、社員の中に女性が一人もいないことだ。
これほど大きな事務所なのに、受付を担当するものもいないようだった。
まぁ、うちの会社でも人員不足だったから、女子社員が気をきかせて受付をやっていてくれていたんだけれど。
そう考えると俺の元会社はヤクザに負けないほどのブラック企業だったのかもしれない。
部屋の奥を見ると、他にもいくつか部屋があり、どれもガラス張りでオープンだった。
見た限りでは会議室のようで、広さも広い。
しばらくすると部屋の一番奥の扉から、神経質そうな男が現れた。
その男は楠と目を合わすと、楠が俺に振り返ってきていくぞと合図する。
ヤクザ界の非言語コミュニケーションの高さがうかがえた瞬間だった。
俺たちは足早に事務所を抜けて、奥の部屋、唯一の木製扉の前に立ち、その神経質そうな男の誘導で中に入った。
中では忙しそうに電話をかけている山南の姿があった。
こうしてみるとヤクザの幹部というより、どこかのやり手社長にしか思えない。
ただ、あの幹部会で見た時のように、今日のスーツもなかなか派手だった。
色こそ控えめではあるが、そこには白で大きなチェックが刻まれている。
山南は電話を終えると、扉の前で控えている俺たちに手招きをして、自分の前に来るように促した。
伊東さんの時とは違い、上下関係をはっきりと認識させたいのか、事務所内のソファーは使わない。
ただ俺を自分の机の前に立たせて、かけていた眼鏡をはずし、それを顔の前で持ち、見定めるような鋭い目線を向けてきた。
「ほんま、貧相な男やね。で、あんたはんは何できるん?」
突然、そんな言葉をかけられて俺は唖然とした。
「は?」
すると、山南は機嫌を悪くしたのか、さらに深いしわを眉間に作った。
「せやから、あんたには何ができるんやって聞いてるんや!前職が営業ってことはわかってんねんから、その中でうちでも使えるような仕事を早う言いや。時は金なりやで!」
最初から口調が荒かった。
あからさまに俺を嫌っているのがわかる。
しかし、初っ端からシノギで使える仕事を言えと言われても困った。
俺はシノギがどんなものか全く知らないからだ。
すると、扉の前に立っていた目つきの悪い男が俺の代わりに答える。
「飲食経営の方に回すのはいかがですか?駆け出しには、集金や交渉、出し子や受け子をやらすのが基本ですが、それでは割に合いません。もっと、利益になる仕事を当てないと」
男の話を聞いて、まさにシノギの世界に来たのだなと実感した。
集金や交渉なんていってるけど、それはみかじめ料や高利貸しの話で、完全に非合法だ。
出し子、受け子なんて言葉もテレビのニュースぐらいしか聞いたことのなかった、詐欺手口の業界用語のようなものだった。
しかし、目つきの悪い男はそういった下っ端の仕事は提案せず、飲食経営を提案した。
おそらくここでいう飲食店とは水商売のことだろう。
この年のこのルックスの俺にホストやボーイなどの仕事など当てないだろうから、もっとややこしい仕事を任せてくるに違いない。
割に合わないという言葉は、俺の今の身分を考えて、それなりの利益のある部署に行かせるべきだと言いたいのだろう。
この男もなんとも頭の切れそうな男だった。
「そうやなぁ。まぁ、最初はそれでええわ。後のことは、原田と吉村に任すさかい、いいようにやってや」
山南がそう言うと目つきの悪い男は彼に深く頭を下げて、楠に合図を送った。
楠は俺の腕をつかんで、出入り口の方へ向かった。
俺は引きずられるように、その部屋から出された。
山南の最後のいいようにやれとは、それでいいからさっさと出て行けという意味だったらしい。
山南が俺に好意的な印象を持っていないのはよく理解していたが、さすがにここまで雑な扱いをするとは思わなかった。
むしろ、伊東さんが親切すぎるのかもしれない。
部屋を出ると、目つきの悪い男が俺を睨みつけながら、自己紹介と説明を始めた。
「私は事務局長を務める原田佐助です。あなたにはこれから店の方へ行ってもらいます。あそこらの管轄は吉村という男が管理していますから、支持は吉村から聞いてください。くれぐれも粗相がないよう気を付けてくださいね。吉村には私から連絡をしておきます」
原田という男はそれだけを言って、すぐに自分の席へと戻っていった。
俺はそんな姿を呆然と見ていると、楠が不快な顔をして、再び俺の腕をつかみ、廊下へと連れていく。
そして、今まで黙っていた楠が急に激しい言葉で話しかけてきた。
「お前、いい加減わかれよ。ここでは俺たち、アウェイな存在なんだからよ。伊東派の人間はあいつらからしたら邪魔者でしかねぇ。ささっとずらからねぇと、痛い目にあうぞ」
俺はその言葉を聞いて混乱する。
同じ組なのになぜ邪魔者なのだろうか。
そもそも、俺は伊東派でも山南派でもないのだが……。
楠は乱暴にエレベーターのボタンを押し、待った。
その間に俺は疑問に思ったことを口に出した。
「俺たちは今からどこに向かうんだ?吉村ってどんな人?」
エレベーターが着き、扉が開いたので、一旦その中に入ってから楠がぶっきらぼうに答えた。
今は随分と機嫌が悪いらしい。
「歌舞伎町だよ!人柄なんて会ったらわかんだろう!」
今の楠からはこれ以上の言葉は出てきそうになかった。
山南の事務所での対応の悪さを考えると、吉村からも敬遠されると思っていた。
店につき、その狭い通路の奥にある小さな事務所につくと、中央にガタイのいいクマのような男が小さなオフィスチェアに座っていた。
そして、楠が壁をノックすると、彼は軽快な動きで俺たちの方を振り向く。
さらに笑顔を向けて、俺たちに手を振った。
「楠君、土方君、待ってたよ!」
なんていう歓迎ムード。
あの事務所でのやり取りが嘘のようだ。
楠はすぐに吉村の前に立って、頭を下げた。
「今日から土方がお世話になります。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
楠はまるで若い衆の挨拶でもするように吉村に告げた。
俺もよろしくお願いしますと頭を下げる。
すると、吉村は困ったように笑い、俺たちの頭を上げさせる。
「いやぁ、そんな堅苦しいのは辞めようよ。僕たち、同じ組織の仲間だろう?一緒に頑張って、一緒にばんばん稼ごうね!」
なんか、すごくいい人そうだったけれど、シノギで稼ぐとなるとそんな明るいテンションではいられない。
俺は帰ると楠が俺の肩を叩き、部屋を出て行った。
急に俺と吉村の二人きりになって、島田さんとはまた違う気まずさがある。
するとおもむろに吉村が俺に話しかけてきた。
「土方君さぁ、僕たちの仕事ってどんなものがあるか知ってる?」
そう聞かれて、多少の理解はあるが答えづらく、つい口ごもってしまった。
なんぜ、取り立てとか詐欺とか、ヤクザの前で堂々と発言するのもなんだか憚られた。
「僕らの仕事はね、基本的には不動産業、飲食店経営、建設業、販売、金融業、人材派遣なんかがあるんだ。シノギなんて聞いたらみんな地上げだとか、水商売だとか、詐欺、みかじめ料の集金、高利貸し、人身売買なんていうけどね、そうじゃないんだ。僕たちは僕たちなりのプライドと誠意、そしておもてなしの精神をもって経済に貢献しているんだよ。不要になった土地を買い取り、お金に変えるのも地域貢献だし、サラリーマンに癒しの空間を届けるのも地域貢献、荒地になった未利用地を開拓して、新しい建物を建設するのも地域貢献、いいものを消費者に届けるのも地域貢献、銀行ではもう融資を受けられなくなったかわいそうな人たちの最後の砦としてお金を貸すのも地域貢献。さらに、人々の職の場を与えるのも地域貢献だ。どうだい?僕たちの仕事は愛に満ちているだろう。地域のために切磋琢磨するのが、僕たちの真の仕事なんだ」
この人はシノギの仕事をどれだけポジティブにとらえているのだろうかと逆に驚いた。
まぁ、そんなふうに思えば、非合法の仕事も少しはやりやすくなるということかもしれない。
しかし、この人の場合は本気で言っている気がするから恐ろしい。
「僕の名前は吉村貫二郎!今日からよろしくね、土方君」
彼はそう言って満面の笑顔を向け、握手を求めた。
俺もその場に流されるようにその手を取った。
やはり、シノギの仕事はなかなか癖がありそうな気がする。