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第96話 姉貴に別れを告げる

意外にも事務所内はとてもきれいだった。

棚の上には埃一つなく、壺は磨かれていて光り輝いていた。

それならばと額縁の上も覗いてみるが、やはり埃はない。

どれだけ掃除が行き届いているのだと感心しつつも、応接間ではなく、奥の事務室を掃除することにした。

事務室では、ただでさえ厳つい顔をした人相の悪い男たちが、パソコンを睨みつけるように眉間を寄せながらパソコンと向き合っている。

キーボードを打つ手は軽快で、当然のように全員がブラインドタッチだ。

いつ腱鞘炎になってもおかしくないレベルだった。

俺が後ろからこっそり覗いていると、すぐに男たちは気が付き、鋭い目つきで睨みつけてくる。

俺はすぐに掃除をしているふりをして、顔をそむけた。

応接室もそうだったが、この事務所もこれだけ頻繁に使われていてもきれいだった。

しかし、ここは万年人員不足のブラック中小企業に勤めていた俺だ。

事務室の掃除のポイントは熟知している。

まずは給湯室のシンク周りを掃除し、飲み物が手早く取り出せるよう、飲料水周りや冷蔵庫内を掃除した。

事務室で一番ゴミがたまる場所といえばシュレッダーの中身だ。

これは案外手間もかかるし、手入れが面倒な場所だ。

あとは配線周りの掃除など、意外と手が見過ごされがちな場所もある。

俺は一通り掃除を終えると、給湯室内で少し古くなったお茶葉を見つけて、それで事務員の四人にお茶を入れた。

四人は随分お疲れのようで、配られたお茶に最初こそ驚いていたが、休憩がてらにお茶をすすり出す。

その中の男が、初日から俺が全く怯える様子を見せないことに驚いていたようで、そのことを感心したように俺に話しかけてきた。

意外にも思えるだろうが、中小企業のなんでもありの営業マンは、相手がヤクザかと思えるほど厳つくて理不尽な会社の社長との付き合いも存在するのだ。

きっとそこらの一般人よりはよほど慣れている。

それからも掃除や書類の整理をしながら、時々、事務員のスタッフたちとも世間話を交わした。

人相こそ悪いが、案外話せる人ばかりで、少し神経質な部分はあるが、いい人ばかりだ。

そして、そんな俺を見て一番驚いていたのは藤堂だった。

藤堂は俺に掃除を切り上げるように言って、再び応接間のソファーで向き合う。

早速質問はあるかと言われたので、俺はポケットの中にしまった小さなメモを片手にいろいろと質問した。

藤堂は宣言通り、全ては話してはくれなかったが、できる限り正確に答えてくれていたようだった。

仕事の内容は少し変わっているが、基本的な金の流れや人の動きは変わっていない。

上納金など特殊な制度はあるものの、それは福利厚生費として一部回収されている形になっているため、構成員たちには給料のような形で小遣いと呼ばれる支給金が支払われているようだ。

どんな手口で銀行口座を開設したのかはわからないが、手渡しというわけでもなさそうだった。

まだ夕方だったが、藤堂が邸宅の方へ戻れというので、俺は言われた通り戻ることにした。

行きは車で快適に来られたが、帰りは俺の体一つだ。

藤堂に駅の場所を尋ねた後、その足で戻ることにした。

しかし、邸宅に帰る前に俺にはやらなければいけない仕事がある。

俺は邸宅がある駅を通り過ぎて、六つ先の駅へと向かった。



チャイムを押すと家の奥から返事をする声が聞こえた。

そして、扉が開き、エプロン姿の姉貴が顔をのぞかせる。


「敏郎!もう、心配したのよ。いきなり電話解約しちゃったから、連絡つかなかったじゃない」


姉貴は頬を膨らませて俺に文句を言った。

姉貴の中では俺は機種変更か何かをして、電話が繋がらないと思っていたらしい。


「晴香もだいぶ落ち着いたみたい。クラスメイトの子たちとは相変わらずみたいなんだけど、他のクラスに友達ができたみたいで、今は少しだけ学校でも楽しそうにしてる」


安心して微笑む姉貴の顔を見て、俺は心の奥でほっとした。

それと同時にこれから告げなければいけない言葉が俺の胸でくすぶっていた。


「そっか。良かった……」


俺はそれしか言えず、なかなか言葉が出ない。

それに気が付いたのか、姉貴が心配そうな顔で俺を見つめた。


「どうしたのよ、敏郎。何かあったの?」


その言葉を聞いたとき、さすが何十年も付き合ってきた兄弟だと思った。

姉貴は俺が何かを隠していることに気が付いている。

俺は大きく息を吸って、姉貴の顔をまっすぐに見た。


「姉貴、ごめん。俺、今はもうカタギじゃないんだ。小野組っていう反社会勢力の組織に属している」


俺の言った意味が理解できなかったのか、困った表情で俺の顔を覗いた。


「何を言ってるの?小野組って何?カタギって……」

「だから、もう姉貴たちには会えない。反社に家族がいるって知られたら、義兄さんも困るだろうし、姉貴も近所付き合いしにくくなる。勇志も晴香も今は大事な時期だし、俺のせいでみんなに迷惑かけたくないんだ。弟は死んだと思って、忘れてほしい」


姉貴は驚きつつも何度も首を振って、俺の前に立ち、腕をつかんだ。


「そんなのできるわけないじゃない。反社って何のこと?どうして敏郎がそんな場所にいるの?またあの人に何かされたの?警察になら、私が一緒に行くわ。知り合いにいい弁護士さんを知っている人がいるから、ね。そんな馬鹿なこと言ってないで、一緒に考えましょう?」


姉貴も混乱しながらも必死だった。

その意味を理解したくない。

そんな感情が滲み出ている。


「もう、戻れないんだ。これは俺が選択したことだから。あいつのためでも金のためでもない。俺が望んで入ったんだ」


俺の言葉に信じられないといった顔を見せる。

そして、現実を拒絶するようにさらに大きく頭を振った。


「無理よ、そんなの。私たちたった二人の兄弟なのよ?今までだってずっと一緒にやってきたじゃない。それを急に死んだと思えとか、忘れてくれなんて、絶対無理よ。お願い。帰ってきて!晴香も勇志もこんなの望んでない!私もあなたを失うなんて、絶対に嫌!!」


俺の袖をつかむ姉の力は強かった。

絶対に俺を放すまいと必死なのが伝わった。

俺はそんな姉の手の上からそっと手のひらで包み込んで答えた。


「ほんと、ごめん。姉貴には悪いことしたと思ってる。でも、俺は戻る気はないよ。晴香のことや勇志のことは心配だけど、きっと俺がいなくてもあいつらなら大丈夫だ。俺は残りの人生、これにかけるって決めたんだ。だから、わかってほしい……」


姉貴の手は震え、少しずつ力が抜けていくのを感じる。

姉貴は膝から崩れるように座り込み、顔を手で覆い隠して、声を上げて泣いていた。

何度も何度も俺の名前を呼び、そして「ごめんなさい」と謝っていた。

この一連の流れが親父のことからきているのだということは口にしなくても姉貴にはわかっていた。

そして、何もできなかったのを悔いているのだ。

昔もよく、こんな姉貴の姿を見ていた気がする。

母親が父親に殴られるのを隣の部屋の襖の間から見て、俺を抱きしめながらわんわん泣いていた。

父親に気が付かれないように、声を殺して泣く姉貴。

俺の耳元で何度もごめんねとつぶやいて、体は震えていて、それでも必死に俺を守ろうとしてくれていた。

あの時の俺は今の姉貴のように無力な自分を呪っていた。

自分が子供だから、父親から母親を守れない。

こうして怯えている姉貴も守ってやれない。

なんて情けない男だと何度悔やんだことか。

けれど今は、その思いをやっと報えたと思っている。

最悪な形ではあるが、俺はもう大切なものを守れない非力な男ではないのだ。

子供のように声を出して泣く姉貴の頭を優しく撫でた後、俺は静かにその場を去った。

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