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第95話 極道の世界の過酷さを知る

自分の人生を犠牲にすることなら、いくらでも考えてきた。

これからの俺の人生をすべて市子に捧げる覚悟はしてきたはずだ。

だけど、家族との絶縁など、俺は考えたこともなかった。

俺の思いだけならどうでもいい。

けれど、それを告げた時、姉貴や晴香、勇志はどう思うのだろうかと考えた。

俺と姉貴は土方家の唯一の家族だ。

それを俺の都合だけで断絶していいのだろうか。

この俺の勝手な決断を、姉貴は許してくれるのかと心配になった。

頭の中に浮かぶのは姉貴の泣き顔。

きっとこれは姉貴を裏切ったのと同じことになる。


「おい、着いたぞ。降りろ!」


車の外から楠に出るように促された。

俺はこの時、ジャージからスーツに着替えて、伊東さんの事務所に向かう車の中にいた。

俺がいろいろ考えている間に、どうやら事務所の前まで着いたようだ。

俺は車から降りて、目の前のビルを見つめた。

それは古い五階建ての細長いレンガ調のオフィスビルだった。

この中に伊東さんが管理している事務所があるらしい。

俺は後ろから楠についていって、建物の中に入った。

そして狭い階段を上り、二階の扉から事務所の中に入った。

そこは12畳ほどの広さの部屋で、家具はいたってシンプルだった。

奥には別に事務室もあるようだ。


「おう、来たか。まあ、座れ」


伊東さんは俺の顔を見るなり不敵な笑みを浮かべ、目の前のソファーに座るように促した。

楠は俺の顔を見て頷き、従うようにアイコンタクトを送ってくる。

俺は恐る恐る目の前のソファーに座った。

そして、その後ろには楠が手を組みながら立った。

その状態だけでもものすごく緊張する。

毎度のことながら、伊東さんの気迫は凄まじく、目の前にした時の重圧がひどい。

目を合わせただけで殺されるのではないかと思うほどの迫力があった。


「今日は組での中枢の仕事を覚えてもらう。これも幹部にとっては大事な仕事だからな。今はまだ下っ端の立場だが、おめぇが今後目指す場所は幹部の席だ。ただ、実力もねぇのに幹部の席を譲ってやれるほどうちは優しくねぇ。覚悟して臨めよ」


伊東さんは俺にそう告げて、にやりと笑った。

どこか戸惑う俺を見て面白がっているようにも見えた。

彼にとって俺は跡目争いの候補であっても、全く脅威とは思っていないようだ。

それはそうだろう。

伊東さんが知る限りの俺は、ただ市子に愛の告白をするために組に乗り込んできた無謀な男というだけなのだから。


「後のことは全部、若頭補佐の藤堂に任せてある。藤堂は優秀な男だ。安心して指導を受けろ」


伊東さんはそれだけ告げて、席を立った。

そして、他の部下を連れてどこかへと出かけていってしまった。

さすがにあのド迫力の伊東さんから教えを乞うのは勘弁してほしかったが、かといって目の前にいる藤堂という初対面の男に指導されるのも複雑な気持ちだった。

藤堂は俺の顔を睨みつけながら、無言で立っていた。

本当にやりづらい。


「じゃあ、俺は戻るからな」


伊東さんがいなくなると、後ろに立っていた楠が俺に向かって手を上げた。

そして、事務所を出ていこうとしたので、俺は慌てて楠の袖を引っ張った。


「ちょ、ちょ、ちょっと待てよ。俺とあの人を二人きりにするつもりか?」


俺は藤堂に聞こえないような小さな声で楠に訴えた。

楠は訳が分からないという顔で俺を見下ろしてくる。


「藤堂さんはいい人だぞ。頭も切れるし、さすが伊東さんの右腕だと思うよ」

「そうじゃなくて、あの人、さっきから俺をずっと切り殺さんばかりに睨みつけてくるんだけど。二人きりになったら、俺は絶対殺される!」


俺の慌てぶりがおかしかったのか、楠はにやにや笑いながら、俺の掴む袖を引き離して答えた。


「ちょうどいい。藤堂さんに切り殺されて来い」


楠はそう告げて、容赦なく俺を伊東さんの事務所に置いていった。

この薄情者と俺は心の中で楠を罵った。

すると、後ろの方で藤堂さんが呼びかける声が聞こえる。


「おい! 何をしている。とっととついてこい!」


その声はどこか冷たく、苛立ちを漂わせた声だった。

藤堂からしても俺のような素人の男の指導など嫌なのだろう。

俺は黙って藤堂の後をついていった。

藤堂が連れてきた場所は隣の事務所だった。

事務所ではパソコンが四つあって、そこにはそれぞれガラの悪い男たちが座ってパソコンを操作している。

皆スーツ姿ではあるが、どこかシュールだ。


「ここでは事務所に届く、ありとあらゆる情報を管理している。まずはそれぞれの事務所から届く縄張りの動向報告のメールをチェックし、内部情報の管理、また、揉め事などの対処報告、組員の教育と指導状況など組内の状況を把握する。他にも経理や会計の仕事もある。上納金の管理や、各組員への給与の分配、売り上げ実績など見なければならないからな。さらに組の警備状況の把握、また警察の動向の情報もここに集まってくる」


俺はそれを聞いて唖然とした。

たったこれだけの人数で、その仕事の量はあまりに多くはないだろうか。

まさに今の時代のヤクザはインテリというけれど、それだけの仕事量がこなせるならカタギでも十分やっていける気がする。

むしろ、彼らの方が優秀なのではないかと思えるほどだ。


「俺たちの世界は仕事ができない奴はすぐに排除される。カタギのように、従業員を守るような甘ったるい制度はない、実力主義だ。だが、あいつらと俺らの世界の大きな違いは適材適所を明確にしていることだ。パソコンが強い奴らは情報処理や事務仕事。喧嘩が強い奴は取り立ての仕事。口がうまい奴は営業、社員教育。ただ適当に部署に配属して、人材殺すような運営はしてねぇんだよ」


つまり、藤堂が言いたいのは、俺たちのような一般の会社はダメ社員には優しいが、実力のあるやつの発掘は遅れているということだ。

それゆえに人材育成がこいつらよりもできていないと言いたいのだろう。

確かに今の日本社会はまだまだ人材育成が十分とは言えない。

できない社員に手を伸ばす分、できる社員の適性を見極める能力は劣っている部分はあるかもしれない。

それによって貴重な人材という力を無駄遣いしていると言われれば、そうかもしれなかった。

それを考えると、この世界は本当の意味での実力主義だ。

そして、藤堂からすれば俺たち一般社会の方が適切ではないと言いたいのだろう。

それは裏社会での誇りか、それとも表社会への恨みかはよくわからない。


「ここでは甘えは一切許されない。それは幹部の血縁であっても同じだ。ここは個々を見る場所。上に上りたければ、実力を発揮するしかない。真面目に堅実に上を目指すやつもいれば、ずる賢く、卑怯な手を使っても知的に上り詰めようとするやつもいる。そこにルールなどない。結果がすべてだ」


藤堂はなかなか厳しいことを言っているが、この世界の本質を見抜いているようにもみえる。

俺たちは政府や法によっていろいろと守られてきた。

しかし、その恩恵はここでは受けられないのだ。


「だから俺は、お前の女を踏み台にして上るやり方も否定する気はない。ただし、それはここまでの話だ。ここからは実力のない奴はかならず潰されていく。カタギの世界のように考えてたら、すぐに消えることになるぞ」


段々、藤堂が俺の何に苛立ちを感じたのかわかってきた気がした。

つまり、この世界のことを全く知らないカタギの男に、簡単に地位が与えられるほど優しい世界ではないと言いたいのだろう。

今俺が置かれている状況は彼らにとって不条理であり、許しがたいことだ。

俺は実力があって飛び級したわけではない。

組長の気まぐれと市子の配慮あってのことだ。

だからこそ、ここからは己の力だけで這い上がってみろと言っているように聞こえる。


「俺は、市子を踏み台にした覚えもないし、これが実力とも思ってはいない。跡目争いに参加するのは俺が安易に市子と関わってしまった責任だと思っている。だからと言って簡単に周りを納得させられるとも思わない。あんたの言う通り、ここからは実力主義だ。俺も自分の力を出せる限り出して、周りが納得いく結果を出すつもりだよ」


俺は藤堂の顔をまっすぐに見て答えた。

藤堂たちの不満はわかるからこそ、ここは真剣に答えたかった。

彼は俺の顔を数秒間見つめた後、小さく息をついて俺に言った。


「まずは掃除からだな。事務所内を掃除しながら、周りの様子を見て学べ。疑問に思ったことは随時メモをして、まとめて俺に質問しろ。答えられる範囲なら答えてやる」


彼はそう言って、掃除ロッカーの扉を開けた。

やはり新人の仕事といえば、掃除らしい。

俺はジャケットを脱いで、ワイシャツの袖をまくり、すぐさま掃除を始めた。

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