第94話 極道での仕事が始まる
「てめぇら、さっさと起きろっ!!」
俺は楠の叫び声で目を覚ました。
時刻は午前五時半。
まだ、早朝だった。
俺は瞼を掻き、布団から体を起こす。
「なんなんだよ、朝っぱらからぁ」
俺は欠伸をしながら、目の前で慌ただしく朝の支度をしている馬越に聞いた。
馬越は新しいジャージに着替えながら答えた。
「仕事の時間っすよ。朝飯当番は五時半から準備。掃除当番は六時から玄関掃除があるんす!」
その話を聞いて、ここにいる奴らは案外規則正しい生活をしているじゃないかと思った。
寝るのは遅いから、睡眠時間は少ないけれども、部屋に戻って、とっとと寝る準備をすれば十二時前には寝ることもできる。
そして、もう一つ気が付いたのは、準備を急ぐ仲間の中で、唯一布団の上で寝続けている男がいることだった。
こいつは大丈夫なのだろうか?
「おい、こいつは起こしていかなくていいのか?」
俺は目の前で爆睡している男を指さした。
すると、準備を終えて部屋を出ていこうとした山野がこちらを向いて答える。
「そいつは夜番で今朝帰ってきたんすよ。俺らと交代だから、起こす係はこいつだったんすけど、こいつ、帰ってすぐ寝るから、おかげで俺たちが寝坊んすよ」
そこは自力で起きればいいんじゃないの?と言ってやりたかったがやめた。
きっとこいつらはアラームを設定したとしても起きないだろう。
「あぁ、土方さぁん。たぶん、土方さんにも仕事あるから、ひとごとじゃないですよぉ」
山野に続いて部屋を出ていこうとした馬詰がついでのように答える。
そういうことは早く言ってくれ。
俺も慌てて布団から起き上がって、洗面所に向かおうとした。
その時、後ろからいきなり島田さんの声が聞こえる。
「新しいジャージはこちらに用意してございます。土方さんの今日のお仕事は朝の玄関掃除からです」
俺はびっくりして声を上げる。
島田さんはいつからここにいたのだろうか。
俺の記憶では、昨日の夜中には自宅に帰ったはずだ。
今日の島田さんは昨日同様、しっかりとスーツを着こなしているし、髪の乱れもない。
この人はどういう生活をしているのだろうか気になった。
「お、おはようございます、島田さん。昨日はちゃんと眠れました?」
俺はちょっとした世間話のつもりで島田さんに聞いてみる。
島田さんは表情一つ変えずに答えた。
「おはようございます。はい、昨日は十時半に帰宅し、軽食をとったのち、風呂に入って十二時には就寝いたしました。今朝は四時半に起床し、今に至ります」
なんて無駄のない動きなんだと呆れながらも、俺は急いで支度をした。
楠も昨日言っていたが、悠長にしていられるのも昨日のうちで、俺は今日からこの組織で働かされるらしい。
屋敷の仕事は一向に構わないのだが、初っ端から借金の取り立てとかだったらどうしようかと悩んだ。
俺は顔を洗い、新しいジャージに着替えて、外に出た。
なんと玄関には既に俺用の新しいシューズまで置いてある。
俺は島田さんに振り向いて、涙を浮かべながらお礼を言った。
「俺のために着るものから履くものまで揃えてくれて、ありがとうございます。島田さんがいなかったら俺、初日から何にもできなかったですよ」
「お気になさる必要はございません。ジャージは当組の小姓の制服のようなもの。こちらで用意するようになってございます。ついでにシューズに関してですが、土方さんの所持品を確認したところ、履き古して使えそうにないボロボロのシューズしかありませんでしたので、組の面子の為にも新しいものを用意させていただきました。これらの費用については来月の小遣い、つまり給与から天引きとなりますので、ご安心ください」
いや、まったくご安心ではない。
制服と言いながら、結局俺の給与から天引きされるなんて、なんていうブラック企業だろう。
まあ、ここは合法でも企業でもないんだけど。
さりげなく俺のシューズのことディスられているし……、島田さんの発言は容赦ない。
「ついでに申しますと、今そこで寝ているのが、昨日紹介出来ずじまいだった市村鉄矢です。この者は年こそ若いですが、長年組に属してきた男で、内情については詳しいので、もし気になることがあればお尋ねください」
さらりと島田さんが部屋の中で寝ている男の紹介をした。
若いのに所属年数は長いとはなかなか複雑な事情がありそうだ。
そして、俺は自分の腕時計を見て、すでに仕事時間を過ぎていることに気が付き、慌てて靴を履いて外に飛び出した。
「土方、おっそぉい!とっとと仕事始めろ!!」
俺を見るなり、楠が俺に怒鳴りつけてくる。
そして、早速竹帚を投げつけてきたので、俺はそれを受け取って、玄関の方へ向かった。
そこには同じようなジャージを着た馬詰がすでに掃除を始めていた。
俺は彼に声をかけ、掃除の仕方を教わる。
すると、気の抜けた眠たそうな声で玄関掃除のやり方を教えてくれた。
俺はそれに従って、もくもくと仕事を始めるが、やはり気になることがたくさんありすぎて、馬詰に話しかけずにはいられなかった。
「ってかさぁ、このジャージはなんなの?制服とか言われたけど、その色が斬新というか、なんか目立たない?」
俺は箒を持ったまま、目の前で着ているジャージを見せた。
デザインこそありきたりだが、問題は色なのだ。
するとそれを見た馬詰は笑う。
「俺も紫は嫌ですねぇ。ださいっつうか、それで街歩きたくないかも」
そうなのだ。
俺に支給されたジャージの色は紫。
薄紫とか渋めの紫紺とかじゃなくて、ザ・パープルというか、ちょっと赤みがかった紫というか、絶妙に目立つ色だ。
四十過ぎたおっさんが、パープルカラーのジャージとかやばいから!
「あ、その色、正確には『ヴィオレ』っていうんすよぉ。しゃれてっしょ?」
まるで俺の心の声を読んだかのように平然と答える馬詰。
アホそうな喋り方をする男だが案外博識のようだ。
「ついでに今日は楠の兄貴はスーツ着てますが、兄貴のジャージの色、赤なんすよ。ついでに俺は緑、山野は黄色、佐々木が青、馬越がピンクですねぇ。市村が確か黒で、島田さんは白っすね。この島田さんの白ジャージがまたいけてんすよぉ!」
馬詰は少し興奮気味に答えた。
なに?この組ってイメージカラーとかあるの?
もうそれ、アイドルとか通り越して、戦隊ものヒーロー化している。
しかし、ピンクではなくてよかったと改めて思う。
ああいう色は若い奴が着るのに限る。
そう考えると、まあ、俺が紫なのは無難なのかもしれない。
掃除を終えると、食卓の準備の手伝いをさせられた。
朝食をするために部屋をセッティングし、組長や市子、そして一部の幹部が朝食を速やかに食べられるようにするためだ。
俺は新人なのでまだ、組長たちの食事の準備はできない。
毒など盛られたら困るからだそうだ。
もうこれは、幕末のお殿様クラスの対応だと思う。
準備ができると俺たちは炊事場に戻る。
小野家の屋敷の炊事場は広く、一部が板の間になっていて、そこで食事をするようだった。
炊事場で自分の朝飯をもらい、席に着く。
気が付けば、当たり前のように島田さんが俺の横に座っていた。
この炊事場での席も決まっているようで、上座には楠が、そこからは年功序列というか、所属年数で順番が決まるらしい。
だから俺は一番端なのだが、さらにその横に島田さんが乱入してきた感じだ。
音もなくさりげないのが、また怖い。
食事が始まると俺たちは黙々と飯を食べ始めた。
今まで独身だったからなおのこと感じることなのかもしれないが、こうして朝早く起きて、玄関掃除をして、朝飯の準備をした後、みんなで朝食を食べる。
カタギで生きてきた時より、よっぽど健全で健康的な生活をしているように思う。
働いていたときは、朝食なんて食べていなかったし、ぎりぎりまで寝て、コーヒー飲んで終わらせていた。
それがこうしてしっかりとした朝食を食べられることは幸せなことなんじゃないだろうかと思えてくる。
「土方さん、今後の予定をお伝えしてもよろしいですか?」
俺がそんなことを考えながら、朝食をおいしく味わっていると横から島田さんが話しかけてきた。
島田さんはすでに朝食を食べ終わっていて、真顔で俺の顔を見ている。
俺はご飯を口の中でもごもごしながら頷いた。
「朝食を食べ終えた後、伊東さんの事務所に行ってもらいます。そこで組の基本を覚えてもらう予定です。翌日は山南会長のもとへ。そこではシノギの仕事を覚えてもらいます。
そして、三日後はいよいよ総長との親子の盃になります。こちらは正式な行事になりますので、正装となります。お着物はこちらで用意いたしますので、土方さんは手順を覚えておいてください」
「え?なに?そんなにしっかりやるものなの?書面か何かでさささぁとやった方が早くない?」
俺は驚き、島田さんに答える。
ヤクザといえども、今の時代もっとデジタル的対応だと思っていた。
時間やお金をかけて、生き残れるかもわからん男のために親子の盃って大げさすぎだろう。
俺の言葉を不快に感じたのか、島田さんは一瞬、険しい顔を見せた。
「親子の盃は何よりも大事な儀式です。それを安易な書面返しで終わらせていいわけがありません。土方さんはもっと自分が組に属した自覚を持ってください」
まさかの島田さんからお叱りを受けてしまった。
確かに俺はまだまだヤクザになったという自覚が薄いのかもしれない。
昨日聞いたように、俺は市子のおかげで飛び級しているのだから、もっと早くこの世界に慣れなくてはいけないはずだ。
「それと……」
島田さんは改まって俺に告げた。
「土方さんが小野組に入る以上、血縁関係及び、カタギでの関係とは断絶してもらう必要があります」
その言葉に俺は一瞬、頭が真っ白になった。