第93話 『鬼の土方』が誕生する
気が付けばすっかり日も暮れていた。
今日は休むことなく、ただひたすら部屋の掃除をしていたような気がする。
夕方手前になると、小姓部屋に楠が怒鳴り込んできた。
小姓にとって大事な炊事の仕事があるからだ。
もうとっくに時間が過ぎているのに、彼らは掃除に夢中になりすぎて時間を忘れていたらしい。
同時に外の警備当番の担当の者も慌てて飛び出して、再び俺と島田さんの二人きりになった。
掃除をする島田さんと俺を見て、楠は不愉快そうにぼやいた。
「あんたら掃除するのは構わねぇけど、あいつらには他にもやることがたくさんあんだよ。こんなことさせてんな」
俺は楠の掃除なんて意味がないような言い方をされて、つい腹を立ててしまった。
彼らが忙しいのはわかる。
しかし、こんな醜悪な環境で暮らさせていいわけがない。
いつか不衛生が原因で病気するリスクだってあるはずだ。
「自分が汚した場所を掃除するのは当たり前の話だろう!上司ならここまでの悪環境になる前にどうにか――」
「楠の兄貴、すいやせん。ここからは土方様と二人で片づけますんで、勘弁してくだせぇ」
俺が楠に文句を言い終える前に、島田さんが遮るようにして楠に謝った。
楠は俺を睨みつけていたけれど、島田さんの言葉に免じて、何も言わずに立ち去った。
俺の腹の虫は収まらなかったが、これ以上何か言っては島田さんの迷惑になる。
俺は黙って、そのむしゃくしゃを掃除に当てつけるように必死になって進めた。
やつらが帰ってきたのは、九時過ぎあたりだった。
くたくたになった状態で、部屋に入った瞬間、倒れるように雪崩れ込んできた。
彼らの仕事がどれほど過酷なのかを物語っていた。
こんな生活をしていたら、当然、部屋だって汚くはなる。
「しっかし、久しぶりだなぁ。こんなまともな床に横になるの」
若い衆の一人が天井に向かってつぶやいた。
それに答えるように、別の奴が喋り出す。
「なんか部屋が広く見えるぜ」
そう言って若い衆らは笑い出していた。
正直、笑っていられる状況ではなかったのだが。
俺は呆れた表情をして、玄関前の床で寝っ転がる男たちを見ていた。
すると突然、俺の後ろから島田さんの険しい怒鳴り声が聞こえた。
「てめぇら、寝そべってんじゃねぇ。まずは挨拶しねぇか!」
その言葉で、若い衆たちも慌てて体を起こして、横一列になって正座をした。
俺も島田さんの変わりように驚き、後ろを振り返る。
やはりこの人もヤクザなのだなと実感した。
「右から順番に挨拶!」
そう促されて、一番端の若者が声を上げた。
「馬越三成ッス。渡世2年の若輩者です」
そして、馬越の自己紹介を終えると次々と隣の奴から自己紹介が始まる。
「山野健八。26歳。独身。特技はサクランボの枝を舌で結ぶこと!」
「佐々木愛之助……です」
「馬詰隆太っすぅ。よろしくっすぅ」
みんな個性豊かなのはいいが、若干俺の後ろで控えている島田さんの殺気にも似た怒りのオーラが気になって、全然頭に入ってこなかった。
ってか、山野の特技、自信満々に言っている割にはしょぼいな……。
「まじめにやれ、馬鹿者!土方様はお前らの上になる人だぞ。嘗めてかかってんじゃねぇよ」
島田さんの言葉で一気に空気が引き締まった。
しかし、その話の内容において、若い衆たちはまだ納得はしていないようだった。
「この人が直参だからって、俺ら差し置いて引き上げとか、反則っすよぉ。俺は納得いかねぇっすぅ」
馬詰が他の三人の代表として不満を漏らしていた。
島田さんの顔がさらに険しくなる。
状況を変える意味も含め、俺は慌てて、彼に尋ねた。
「し、島田さん? 直参ってなんですか? それに引き上げって……」
その言葉に島田さんははっとしたのか、すぐに俺に頭を下げてきた。
「申し訳ございません。掃除に夢中で大事なことを土方様にお伝えしておりませんでした。土方様は他の若い衆とは違い、総長つまり、小野組組長と直接子弟関係を築くため、飛び級という形で立場が引き上げとなっているのです。これを我々の世界では『直参』といい、イレギュラーなことなのです」
その説明を聞いて、なぜ目の前の若い衆が不満そうなのか、楠が俺に厳しいのかやっと理解できた気がした。
そもそも、市子の恋仲の男だからって、入ってきたばかりの俺が、若衆頭と同等といわれること自体おかしい。
実力なわけではないし、不満に思うのも当然だと思った。
「そういうことですか。わかりました。では、改めましょう。島田さん、俺のことを『様』で呼ぶのはやめましょうよ」
俺の言葉を聞いた島田さんが唖然とする。
「ならばどのように呼びましょう。土方の兄貴ですかね?」
いや、それだと違うやつを思い出しそうなので断りたい。
それに年上の上、古参である島田さんなのだから、もう少し気軽に呼んでほしかった。
「まぁ、呼び捨ては難しいにしても、『さん』ぐらいでいいんじゃないんですか?」
「土方さん……ですか。しかし……」
この人はどこまで堅物なのかと思う。
若い衆の方がよっぽど俺に気さくに話しかけているというのに。
「お前らも、俺のことは『土方さん』って普通に呼んでくれ。それなら誰にも文句言われないだろう?」
俺は若い衆に向かって発言した。
そうすればきっと、島田さんも呼びやすくなるだろう。
「はぁ、しゃぁねぇなぁ。なら、そう呼んでやるよ」
といきなり生意気な発言をしてきたのは、一番年下で下っ端の馬越だった。
やっぱりこいつらには多少のお灸を吸わせなくてはいけないようだ。
俺は若い衆が持ち帰った俺の荷物の中から、あるものを取り出した。
「俺の部屋からいろいろ持ち帰ってもらったのはありがたいんだが、中身を確認したら、内容にかなり偏りがあるようなんだよなぁ。わかるか?」
俺はそう言って、男たちに向かってある段ボールの中身を見せた。
それを見た瞬間、全員が背筋を伸ばす。
残すべきものは他にもたくさんあっただろうに、奴らは大事に箱に詰め込んで帰ったのは俺の所持していたDVDの山だ。
丁寧にもアイドルのヌード写真集も一緒に入れてある。
俺はその中から一枚取り出し、中のディスクを取り出した。
そして、男たちの前で豪快に割って見せる。
それを見た瞬間、男たちの顔は真っ青になり、悲鳴を上げた。
それからも容赦なく、また新しいDVDを取り出してディスクを割ろうとすると、男たちは慌ててそれを止めに来た。
「なにすんだよ。俺たちが楽しみに持ち帰ったもん、壊すなんて外道か!」
「そうッスよ。こんなの拷問ッスよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は若い衆たちににやりと笑って見せた。
「お前ら、もし俺に今後、生意気な態度を見せたら、このDVDだけでなく、お前らの大事なコレクションの命もないと思え。この業界で新参者の俺だけどなぁ、人生の生きてきた歴はお前らよりよっぽど長いんだよ!」
俺はDVDをちらつかせながら叫んだ。
島田さんに多少偉そうにされるのは許せる。
しかし、こんなケツの青いガキに生意気な口を利かれるのは我慢ならなかった。
その辺のけじめは極道だろうとカタギであろうと同じだ。
佐々木は俺の顔を呆然と見上げながら、小さな声で呟いた。
「お、鬼だ……」
俺はこの日からこの小姓部屋では非道な男、『鬼の土方』という異名をつけられるのであった。