第92話 初日早々大戦争が勃発する
伊東さんの姿が見えなくなると、早速楠に呼び出される。
俺は立ち上がり、楠と島田さんの前に立った。
そして、楠から島田さんの紹介が始まった。
「この方は島田頼さんだ。今日からお前の世話役になる。まぁ、簡単に言えば指導係だな」
「指導係……」
なんとも奇妙な流れになってきた。
つい最近までは俺が永倉君の指導係であったのに、今度は俺が誰かに指導される立場になるとは。
「そいで、俺が楠清十郎だ。俺の役職は若衆頭、わかりやすく言えば下っ端のまとめ役だ。仕事のノウハウは俺が教えるが、基本的な生活の指導は島田さんがやる。うちは下っ端も多いから、若衆頭の俺は案外忙しいんだよ」
最後はちょっと自慢気に話す楠に若干苛立ちつつも、俺はひとまず気のない返事をしておいた。
なんだかすごくめんどくさそうな人だ。
それに加えて、島田さんは妙に静かで落ち着いているように見える。
見た目だけで判断すれば、おそらく俺よりも年上だろう。
全く俺に配慮のない楠が、島田さんには妙に気を使っているのが気になった。
「じゃぁ、俺はここまでな。今日は休みにしとくけど、明日からしっかり働いてもらうからなぁ。そこんところ、よろしく!」
急に俺に対して仲間意識を持ち始めたのか、楠の印象が最初の時とはずいぶん違った。
若衆頭というだけあって、なかなかの世話好きっぽかった。
楠が去って、急に島田さんと二人きりになると妙な緊張感が漂った。
俺は愛想笑いを浮かべながら、島田さんに話しかける。
「土方敏郎です。この業界についてはど素人ではありますが、よろしくお願いします」
俺はそう言って頭を下げた。
すると島田さんは険しい表情を見せて、俺の言葉に訂正を入れた。
「私はあなた様の世話役です。よって上司ではなく、むしろ部下に当たる身分です。土方様は、新参者ではありますが、仮にも市子お嬢様の婚約候補。立場的には楠と同じ、若衆頭か、それ以上に当たります。故に、あなた様が私に敬語を使う必要はございません」
あまりにも堅苦しい言葉に俺は唖然とした。
年上で業界歴も長い先輩にあたる人に、敬語は不要だと言われても困る。
今からこの人にいろんなことを教えてもらわなければいけない立場なのに、どう接すればいいのかと悩んだ。
永倉君とはまた違う、やりづらさを感じた。
「では早速、新居の方へご案内いたします。小姓部屋と呼ばれる社宅は邸宅内にございます。渡り廊下で繋がっており、土足でなくても移動は可能です。社宅内には供用で使える簡素な自炊場、冷蔵庫、便所、風呂場などはございますが、個室はございません。一階は食卓の間の10畳。二階が共同の寝間12畳に各々の布団を引き、生活してもらいます。現在の小姓の数は5人。掃除洗濯は当番制。食事は基本屋敷内での賄がありますが、夜間当番の場合は食べられませんので、社宅内で軽食をとってもらう形になっています」
急にいろいろ説明されても、全く頭に入らなかった。
とにかく個室はなく、すべてが共用スペースとなるらしい。
俺には当面プライベートがなさそうだ。
「土方さんのご自宅の荷物ですが、今、若い衆に取りに行かせていますので安心してください。ただし、大型家電においてはこちらの判断で処分させてもらう予定です。なんせ、小姓部屋は狭いため、置くスペースがありません。そこのところはご了承ください」
「いや、それでいいですよ。元々捨てるつもりだったし、持ち込めないのは理解しているので。片づけてもらえるだけでも本当に助かります」
俺はそう言って、部屋まで案内してくれる島田さんに手を振って答えた。
今頃、大家がヤクザの集団を見て大慌てしているところを想像するとなんだか笑えてきた。
俺たちは室外に出て、屋根しかないコンクリートの渡り廊下を渡った。
そして、その先に簡素だけれど立派な家屋が建っていた。
島田さんはその家屋の玄関である引き戸を開き、中に案内してくれた。
薄暗い部屋。
換気の行き届いていない部屋はどこか湿気を帯びている。
そして何よりも最初に感じるのは何とも言えない強烈な臭いだった。
男くさい?
そんなものじゃない。
これはこの世のものとは思えないほどの激臭だった。
俺は腕で口と鼻を抑えながら、家の中を見渡した。
そして、その瞬間、今までにないほどの大声をあげてしまった。
隣にいた島田さんがそれに驚き、目を見開いた。
「土方様。どうされましたか?」
平然と聞き返してくる島田さんにむしろ俺が驚いた。
こんな光景を見たら誰だって叫びたくなる。
俺の部屋も随分な汚部屋具合だったが、ここはそれの比にもならない。
まず玄関には大量の革靴とサンダルで埋め尽くされている。
履き潰された古いものから、真新しいものまで一緒くたになって積みあがっている。
そこから何とも言えない異臭が放たれていた。
しかし、それだけじゃない。
玄関に続く、自炊場のシンクには何日も洗っていない食器や食べ残しの汁が入ったカップ麺の容器、ペットボトルが散乱していて底が見えない。
その上にはコバエがたかっている。
コンロの上にもゴミが山積されていて、台所の原型をとどめていなかった。
扉の開けっ放しのトイレからは特有の下水道の臭いが立ち込め、モザイクがかかるばかりの荒れようだ。
風呂も同様にここに住む住人はどうやって風呂に入っているのだろうと思うほど、散らかっていた。
居間に入ってみると、大きな円卓のちゃぶ台を中心に、衣類やら食べかすやらが散乱し、なぜか布団までが敷かれていた。
隅に積みあがったゴミ袋の山。
開けっ放しの押し入れ。
階段にまで浸食した荷物。
よく見ればテレビ台の近くには大量のDVDや雑誌が転がっていた。
当然、夜中仕込むための素材だ。
その横であふれるティッシュに埋もれたゴミ箱がなんとも嫌な空気を漂わせている。
まさに足の踏み場もない状況に俺は唖然とした。
よく見ると、足元には長期滞在していると思われる人類の最大の敵である奴らが快適に生活している様子が見えた。
これもう、業者呼ぶレベルだろう。
「申し訳ありません。いつも言って聞かせているのですが、片づけた矢先にこの状態なので、我々も骨を折っているのです。布団は土方様用の新しいものをご用意してございます。戻って来次第、土方様の寝床は用意させますので、ご容赦ください」
いやいやいや、そんな次元の話ではないだろう。
こんなところに新しい布団を敷いたって、寝られるわけがない。
食事をする気も起きないし、数時間滞在するのも不可能だ。
俺は土足のままずかずかと部屋に入っていき、荷物を踏み荒らしながら、部屋の奥の窓に向かって進んだ。
サッシに手をかけると、ロックを解除し、力を入れて窓を開ける。
「土方様!」
驚いた島田さんが玄関の前で俺を叫んでいる。
これはもう戦争だ。
俺は眼光を走らせながら、後ろに佇む島田さんに言った。
「これはさすがに見過ごせない。島田さんには申し訳ないですが、俺と一緒に戦争、起こしちゃくれませんか?」
俺はそっち側流にお願いしたつもりだった。
これはもう大戦争だ。
本気を出さなければ飲み込まれる。
島田さんも俺の態度が意外だったのか、最初こそ驚いている様子だったが、仏頂面のその顔を微かに歪ませながら答えた。
「はい」
そして、俺たちの大戦争は始まる。
若い衆が戻ってきたのは、俺が部屋に案内されてから五時間後のことだった。
彼らはそれぞれ俺の荷物を段ボールに詰めて戻ってきた。
そして、俺たちの様子を見て呆然としている。
島田さんが部屋中のごみをかき集め、俺が五人分の布団を干していた。
部屋中に溢れていたごみは袋に詰められ、一か所に集約し、食器は洗って食器棚に戻されていた。
彼らは驚きと歓迎で声を上げる。
「おい、喜んでる場合じゃねぇよ。お前らも手伝え!」
俺は目の前にいる若い衆に声をかけた。
最初は戸惑っていたものの、島田さんの目線に促され、彼らも懸命に掃除を始めた。