第91話 組に属する意味を理解する
ヤクザになる、つまり暴力団に所属するという意味をこの時初めて知ることになる。
「明日までに家財道具全部持って、とっとと出ていきな!!」
家に帰ると大家が家で待っていて、俺にそう告げた。
反社の人間は一般的な借家を借りられないらしい。
俺は渋々承諾して、家財道具をまとめるが、明日中に全てを出し切るのは難しい。
置いておく場所もないし、処分するしかないだろうと腹をくくった。
必要なものだけキャリーバッグに詰めて、家を出る。
問題はそれだけではなかった。
気が付けば俺の銀行口座は凍結されていた。
そう、反社の人間は銀行口座を持つことはできないらしい。
俺の全財産は財布の中に入った金だけとなった。
当然、電子マネーも使えず、クレジットカードも停止されていた。
どうするべきか途方に暮れ、小林に電話すると、ひとまず小野組の邸宅に来るよう促された。
組長との会談の翌日には、俺は会社に行き、退職願を出した。
松平課長は驚いていたが、上の連中はむしろほっとした様子だった。
退職届を出した後、近藤さんが心配そうに俺に近づいてくる。
「おい、土方。お前本当に退職するのかよ」
俺は小さく息を吐いて、答える。
「これ以上、会社には迷惑かけたくないんで」
その言葉を聞いて、俺の後ろにいた永倉が話に入ってくる。
「土方さんは真面目ですねぇ。ばれるまで黙っていればいいのに」
「いや、そういうわけにもいかねぇだろう」
近藤さんが珍しく永倉の発言に対して突っ込みを入れる。
すると今度は近藤さんの後ろで沖田がおいおいと声をあげながら泣いていた。
「土方さん、辞めないでくださいよぉ。土方さんが会社辞めたら、誰が俺の始末書の手伝いしてくれるっていうんですかぁ」
「いや、それはもうお前ひとりでできるようになれよ。それより、始末書書かないようにしろって」
もう、こうして沖田に注意することもないと思ったら、今言うべきことは言っておこうと思った。
いざ辞めるとなると、寂しいものだ。
「土方さん!」
最後に現れたのは心配そうな顔をした大村さんと斎藤さんだった。
俺はそんな大村さんの顔を見ると、申し訳なくなる。
「大村さん、いろいろとご迷惑おかけしました。こんな勝手な理由で会社を辞めることになるなんて……」
一度は覚悟したこと。
しかし、ただの一人の男として会社を辞めるのと、堅気を捨てて裏社会に入るのとでは全く違うものだ。
「そんなことはいいんです。それより私はあなた自身が心配で……」
当然だ。
いきなり、表社会から抜けるのだ。
心配する大村さんの気持ちはわかる。
「大丈夫です。俺は何とでもなりますから。それよりも、大村さんこそ、無茶しないでくださいね。将君もいるんですから」
「そうですね」
大村さんはもう俺には頼れないのだと実感したらしく、不安げな表情になる。
今まで散々、大村さんの家庭の内情に関わってきたのに、これではあまりにも無責任に感じた。
「土方さん」
最後に斎藤さんがまっすぐな目で俺を見つめ、名前を呼んだ。
「今回の件、父には黙っておきますね」
「……お願い致します」
ここにきてしんみりしていた気持ちより、裏社会に入る自分の立場のリアルさを実感した。
すっかり忘れていたけど、斎藤さんは警視総監の娘だった。
これからは彼女とは相反する立場になるのだと思うと意外だ。
俺は深々と礼をして会社を去る。
すると最後に後ろから近藤さんと沖田が追いかけてきて、ビルの玄関先で俺に向かって叫んだ。
「土方! 俺はお前がどんな立場になろうとお前の先輩だからな。本当に困ったら頼ってこい。話ぐらいは聞いてやる!」
この言葉は俺史上一といえるぐらい、心に刺さる言葉だった。
こんな立場になってもなお、近藤さんは俺を仲間だと思ってくれている。
それが何よりも嬉しかった。
けれどこれ以上、近藤さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
俺は零れそうな涙を必死にこらえて、深くお辞儀をした。
そして、沖田も後ろから俺に言葉をかける。
「土方さぁん! もし俺に何かあったら、土方さんの力で俺を救い出してくださいねぇ。忘れないでくださいよぉ」
と、彼は大きく手を振る。
絶対に助けてやるものかと心の中で叫んでやった。
こんな感動的な別れを終えた後に、自宅での出来事だ。
俺は暴力団に所属していることにここまで後悔した瞬間はない。
まさに、絶望という言葉が身に染みた。
小林に電話した後、そのまま小野組の邸宅を訪れる。
今度こそはインターフォンを使って、中の人を呼び出した。
出たのは、以前俺を案内してくれた楠という男だった。
俺が名前を告げると数秒間沈黙が続き、その後、ガチャリと音を立てて潜り門のロックが解除された。
俺は恐る恐る中に入り、キャリーケースを引きながら、以前案内された脇玄関に向かう。
扉の前には構成員の一人が立っていて、奥には楠がいた。
「靴脱いで、あっちの玄関収納に入れな」
楠は乱暴な口調でそう言い放ち、玄関収納の方へ指をさす。
俺は素直にそれに従い、靴をしまった。
そのまま楠に連れられ、奥の座敷に連れていかれる。
そこに待っていたのは、小林ではなくまさかの若頭の伊東さんだった。
俺は彼を見た瞬間、息が止まり、硬直状態になる。
何度見ても彼の凄みには圧倒されてしまう。
「まぁ、座れや」
伊東さんに促され、俺はキャリーケースを楠に預け、彼の前に座る。
彼はまじまじと俺を眺め、微かに笑った。
「無様なもんだな、土方。お前、住む場所も金も無くしたんだってな。お前はまだまだヤクザになるってことの意味を分かっちゃいねぇ。とりあえず、これ、使えや」
彼はそう言って、俺の目の前にスマホと通帳を投げてきた。
俺はそれを受け取り、中身を確認する。
名義は別人だったが、中の金額を見て驚く。
「100万!?」
俺の貯金残高よりも多く入っている。
いきなりこんな大金渡されても俺はどうしていいかわからない。
「勘違いすんな。やるんじゃねぇ。貸すんだよ」
その言葉を聞いて、俺はぞっとした。
つまり、闇金に金を借りたという意味だ。
「トイチが基本だが、今回は市子嬢の顔に免じて、トナナで貸してやる。まぁ、親父の見立て通り、実力がありゃ、そんな金、すぐに返せる。だだし、ただのハッタリならお前は借金まみれになって、すぐに島流しだろうなぁ」
伊東さんは俺の目の前で大笑いして見せる。
俺には全く笑えないのだが。
そもそも極道における島流しがどういう意味なのかさえ、俺には理解不能だった。
「本来、こんな話も若頭の俺がする仕事じゃねぇ。俺も暇じゃねぇんでな。細かいことはそこにいる島田に聞け」
そう言って、伊東さんは襖の向こうにいる男を指さした。
「そこにある携帯は会社からの支給品だ。好きに使え。ただ、通信費はお前の給料から毎月しょっ引く、意識して使えよ。住居はうちに独身用の寮がある。親父の世話をするための小姓どもの部屋だ。お前もそこで暮らせ」
すらすらと話す伊東さんの言葉に俺は全くついていけなかった。
しかし、ひとまずの住居は組の方で用意してくれるらしい。
これで野宿せずに済むと思うと、少しだけほっとする。
「最後に」
伊東さんは改まって告げた。
鋭い眼光が俺を捉え、俺の背筋に嫌な汗が流れた。
「てめぇの父親の処分について、知りたいか?」
俺はその言葉を耳にした瞬間、一気に冷静を取り戻した。
そうだ。
俺の父親は小野組の制裁を受け、俺の前から消えたのだ。
俺はごくりと唾を飲み込む。
聞いてしまえば、もう元には戻れない気がした。
それを察したのか、伊東さんは鼻で笑って、立ち上がった。
「まぁいい。お前が聞きたくなったら、聞きに来い。聞いて、気分がよくなる話でもねぇからな」
伊東さんはそう言って部屋を出て行った。
部屋を出ると、そこに待機していた楠と島田が伊東さんに向かって深々と頭を下げていた。
やはりこの人は裏社会において、とんでもない地位に立つ人なのだと実感した瞬間だった。