第90話 想いを告げる
市子の手はかすかに震えていた。
顔を俯かせ、食いしばっているのが見えた。
この答えが俺の運命を変える。
もしこの場で、そんな意図はなかったと言えば、きっと俺はそのまま処分されるだろう。
市子はゆっくりと顔を上げた。
その力強い視線は、祖父である組長ではなく、他の幹部でもなく、俺に向かっていた。
その瞳に、悲しみ、悔しさ、怒りといった複雑な感情が入り混じっているのを感じた。
そして、彼女は声を震わせながらも、ゆっくりと、しかしはっきりと答えた。
「私、小野家当主の孫の市子は……、土方敏郎さんを次期小野組組長としてふさわしい方だと判断し、選抜しました」
その言葉は俺の命をつなぎとめる最後の一言だった。
それを聞いて一番に笑ったのは、彼女の祖父である小野組組長だ。
彼がこんな大声で笑うのを見るのは初めてなのか、皆唖然としている。
「そうか、そうか。この男はお前をそこまで言わせるか。そこまでこの男の命が大事か。お前がそこまで言うのなら、ここで捨て置くのも面白くない。よし、わかった。この土方敏郎をうちの組で引き取ろう」
「親父!」
その言葉に一番に反応したのは伊東だった。
隣に座る山南もいぶかしげな顔で見ている。
「それは本気で言っているんですか?」
伊東の質問に組長は大きく首を振る。
「嘘をついてどうする。俺は面白いと思ったから、こいつを受け入れた。何か問題はあるか?伊東、山南」
呼ばれた二人は、驚きつつも口を閉じた。
言いたいことはたくさんあるだろう。
しかし、組長が決めたことだ。
それを幹部の二人が覆すことはできない。
「ございません」
「仰せのままに」
そう言って二人は組長に向かって深く頭を下げた。
俺もその光景に呆然として見ていた。
「土方!」
いきなり組長から名前を呼ばれ、俺はびくっと体を揺らした。
「は、はい!」
「今日からおめぇはうちの組のもんだ。市子の許嫁とまでは言えねぇが、お前の働き具合で考えてやらないこともねぇ。今からお前は、そこにいる若頭の伊東、営業本部長の山南と共に次期組長候補として、この小野組を引っ張ってもらう。お前がもし、この選抜で選ばれたなら、市子をやっても構わない。もとからそのつもりで来たんだろう?」
組長の言葉はあまりにも高圧的で、否定などできるはずもなかった。
俺は「はい」と大きな声で深々と頭を下げた。
まさか自分が、小野家の跡目争いに巻き込まれることになるとは予想もしていなかったのだ。
しかし、よく考えたらそうだ。
市子と一緒になりたいと宣言することは、次期組長の座を奪いに来たことと同じなのだ。
俺はここにとんでもない宣言をしに来たのだと今実感する。
それは目の前にいる伊東や山南を敵に回したということなのだろう。
女神様が言っていた、「恋が成就した後の命の保証はない」と言われたのはこのことだったのだと思い知った。
組長はそのまま部屋を後にする。
複雑な表情の伊東や山南などの幹部たちも席を立ち、部屋に残るのは一部の組員と市子と小林だけだった。
市子はすっと席を立ち、ゆっくりと俺に近づいてくる。
そして、座っていた俺を見下ろすように立っていた。
俺は顔を上げ、市子を見上げた。
夢にも見た市子との再会に喜びを感じずにはいられなかった。
「……市子」
その言葉を放った瞬間、俺の頬に衝撃が走った。
最初は何が起きたかわからず、混乱する。
頬が熱く、痛みを感じる。
市子を見ていた視線がいつの間にか違う場所に向いていた。
「あんた馬鹿なの!なんでこんな場所まで来てるのよ!!」
市子の本気の怒りだった。
彼女の目には怒りとともに、悲しみが混じっていた。
「俺はただ、お前に会いたくて……」
「私は会いたくなかった!こんなことにならないように、もう敏郎とは会わないって言ったのよ。これじゃ、全て無駄じゃない」
「でも!」
俺は立ち上がって、市子を見つめた。
「なんでお前だけが全て背負う必要があるんだよ。今回の件は俺にも責任があるだろ。俺の親父がやったことなんだ。お前がそこまですることじゃない」
「だけど、もし私が普通の女子高生ならここまで大事になることもなかった。敏郎をあそこまで追い詰めることもなかったのよ」
「だから全てお前が責任を取るのか?そんなのおかしいだろう。なんでいつもお前は一人で勝手に――」
「敏郎にはこっちの世界に関わってほしくなかったからに決まっているでしょ!!」
市子の言葉は部屋中に響いた。
一瞬周りが静寂に包まれる。
そして、後方の方からか細い男の声が聞こえた。
「あ、兄貴もお嬢もやめてくんせぇ。みんな見てやす」
小林は足をプルプルさせながら、俺たちを必死で止めようとしていた。
たぶん、正座していたので痺れたのだろう。
そして、周りにまだ若手の組員が残っていることに気付いた。
彼らは後片付けをしながらも、興味津々で俺たちの方を見ている。
なんだかちょっと、楽しそうだ。
市子は真っ赤な顔をして、俺の腕を引いて部屋を出た。
後ろから小林が追いかけようとしていたが、足が痺れてうまく歩けないようだ。
俺はどこに連れていかれるかわからないまま、長い廊下をいくつも抜け、渡り廊下の先の洋風の建物の一室に連れてこられた。
おそらくここが市子の居住区なのだろう。
市子のためにわざわざ作られたような洋館の離れ屋は、彼女の立場を物語っているようだった。
彼女は扉を閉め、俺を部屋の奥へ立たせる。
気が付けば彼女の表情は曇っていて、とても悲しそうだった。
「どうして……、どうしていつもあんたはそうなのよ。いつも自分を犠牲にして、誰かを助けようとするのよ。それにだって限度があるでしょう?私を助けるっていうことは命をも捨てる覚悟ということじゃない。他人のためにそんなことする馬鹿、見たことないわよ」
彼女の声は震えていた。
俺も市子の思いを感じて胸が苦しくなる。
「そうかもしれない。でも、どうしても助けたかった。このまま、見て見ぬふりはできなかった」
「だからってこんなところまで乗り込んでくるやつなんている?命を捨てに来ているようなものじゃない。あんた、本当に殺されていてもおかしくなかったのよ。小林の一言がなかったら、どうなっていたか……」
市子の言う通りだ。
他人から見た俺は、馬鹿みたいに正義感を振りかざし、命を捨てに来た愚か者にしか見えないだろう。
「私はあんたに普通の生活をしてほしかった。あっちの世界で幸せになってほしかっただけなのよ。私とあんたは違うもの。あんたがここまでする必要なんてなかったでしょ」
俺はそうじゃないと首を振る。
「……違う」
「違くない。しかも、組長候補にまでさせられて、今命が救われても、今後はどうなるか……」
「…違う」
「何が違うのよ。私はここまでしてあんたに助けてもらおうだなんて全く思っていなかった」
「だから、違うんだよ!!」
俺はつい興奮して、市子の肩を激しく掴んだ。
市子もこれには驚き、顔を上げる。
「これは自己犠牲なんかじゃない。俺がしたくてしたんだ。俺が選んだ道なんだよ」
「……え?」
市子はまだ混乱した表情をしている。
「俺が市子に一瞬でも会いたかったから、命を捨てる覚悟でやってきた。あの場で言った言葉は全部嘘じゃない。俺は俺のためにここに来たんだ。たとえ殺されることになっても、お前に何も伝えられないまま終わりたくない」
やっと市子も意味を理解したのか、戸惑いの表情を見せて顔を伏せた。
市子は俺が自分のことを好きだとは考えたこともなかったのかもしれない。
「俺を振り払わないでほしい」
さらに俺のその手に力がこもる。
もう離したくないから。
市子と離れたくないから、もう誤魔化しはしない。
不器用なんて理由をつけて、言葉を濁したりなんてしない。
「俺は市子が好きだ。だからこれからもずっと、俺を市子の側にいさせてくれ」
その瞬間、緊張していた市子の顔が崩れ、目から大量の涙がこぼれた。
今まで強がっていた姿が嘘のように溶けていく。
「……会いたくなかったなんて、嘘。本当はめちゃくちゃ会いたかった。自分でお別れを言ったはずなのに、毎日、毎日、敏郎のこと考えて、忘れようとしても忘れられなかった。私は……」
その言葉を続ける前に、俺は市子の唇をその場で奪った。
もう、言葉なんていらない。
市子の想いはもっと前から俺の心に届いているから。
市子は最初、驚いている様子だったが、すぐにそれを受け入れた。
組長の前に立たされた時、ヤクザの幹部に囲まれた瞬間、生きた心地などしなかった。
それでも俺が食いしばってきたのは、市子に会いたかったから。
会って、声を聴いて、触れて、彼女の笑顔が見たかった。
そのためなら命を捨てたって構わなかった。
昔の達観した俺なら絶対に考えられなかったことだと思うが、今は違う。
今はもう、市子という運命の女性に出会ってしまったから。
ゆっくりと唇が離れる。
あの瞬間が嘘のように、空気が変わっていた。
「敏郎……」
頬がぶつかりそうなほどの近距離で市子がささやく。
「ん?」
俺は市子に聞き返した。
「大好き」
彼女は俺に抱き着いてきた。
俺はそんな彼女を力強く受け止める。
俺はこの瞬間のためにここまで走ってきたのだと、この時実感した。