第89話 組長の前に立たされる
男たちに屋敷の中へ案内された。
長屋門の奥から続く石畳の道を進んだ先の立派な正面玄関ではなく、駐車場へ続く砂利道の方を歩いていく。
そして、脇玄関から母屋の中へ入って行った。
脇玄関はとても狭く、男たちの革靴でひしめき合っていた。
俺に連れ添っていた楠という男が、周りの若い奴らに叫んだ。
「おいっ!たたきに靴が脱ぎっぱなしだぞ。すぐにしまえって言われてるだろう!」
楠の言葉で周りの男たちが急いで玄関へ向かい、たたきに脱ぎ捨てられていた靴を拾い上げたて、玄関の奥にある玄関収納へ靴をしまいに行った。
こういう世界は礼儀を重んじるとは聞いていたが、なかなか厳しそうだ。
俺は部屋の奥へ案内されるたびに緊張感を増した。
胸がはじけるのではないかと思うほどの緊張と恐怖。
今日ほどプレッシャーを感じたことはない。
それはそうか。
ヤクザの組長の前に出されるなんて経験、そうそうできるもんじゃないしな。
若干呆れながらも、俺は奥の座敷へ連れていかれる。
建物は古いながらも手入れが行き届いており、独特の風格を醸し出していた。
楠が襖の前に立っていた男に目配せをし、男も小さく頷き返した。
そして、襖を少しだけ開く。
そこから楠は指を添えて、自分の体がやっと入れるほどの広さに開けた。
襖のすぐ横には別の男が控えていて、その男に小声で俺の事情を話しているようだった。
奥に入っていた男も理解したのか、横目で俺を睨みつけた後、ゆっくりと頷いて見せた。
「お話し中、失礼いたします。先ほど、土方敏郎と名乗る者が、親父にお目通りを願いたいと参っております。いかがいたしましょうか。」
部屋の中の襖の横に待機していた男が、組長にお伺いを立てたようだ。
部屋の奥から少しばかりの沈黙と、しゃがれた、しかしとても重厚な声が響いた。
「通せ」
その一言で、周りの空気が一気に変わった。
俺はその男の案内で中に通される。
部屋の中は20畳ほどの広さがあり、その上座には威厳漂う高齢の男が鎮座していた。
まるでこの世界の王であるかのような存在感があった。
男の目はこちらに向けられていないが、明らかに俺は囚われている。
数秒後、この場で殺されていたとしてもおかしくないと感じた。
組長の隣には市子が座っていた。
組長に向かうように座っていたが、俺の顔を見るなり驚いた表情を見せる。
当然だろう。
もう会わないと別れ、わざわざ自分の身を挺して俺を救ったというのに、こんな場所に現れるなんて、裏切りにすら見えただろう。
彼女の目の奥に絶望の色を感じた。
俺は組長の前に座らせられる。
俺の横には市子だけでなく、あの伊東や他の小野組の幹部と思しき面々がそろって座っていた。
俺は組長の顔を正面から見ることができず、ただ拳を握り締めながら床に目を落としていた。
顔中の血管から汗という汗が流れていたと思う。
数分間、沈黙が続いた後、組長はゆっくりと口を開く。
「……わしは常々興味があった。あの何事にも冷淡な市子が、一人の男を助けたいと言い出したのだ。あんなに嫌っていた極道という世界に身を売ってでも助けたい相手、気になるよなぁ、伊東」
独り言のように始まったその言葉は、最後には俺の真横にいる伊東に投げかけられた。
伊東は軽く頭を下げてから答える。
「そうですねぇ。俺も気になってました」
この緊張感漂う異様な空気でも伊東は淡々と答える。
さすが組員の幹部といったところだろう。
度量の違いを感じた。
それを聞いていた市子の表情にも緊張が走る。
「市子はバカな子じゃない。よくわかっていたはずだ。これらの力を借りるという意味がどういうことなのか。それが、こんな男の人生のために費やすなど、理解ができない話だとは思わんか、山南」
今度は伊東の隣にいる山南という男に質問を投げかける。
山南は紫という派手なスーツを着たビジネスマンのような男だった。
伊東と比べれば体格も平凡。
ヤクザには見えない。
「同意です。見た感じ価値のあるような男には思えまへん。調べた情報からもこの男に何の価値のないことは証明されてます。若いならともかく、四十も超えた男ですよ。捨て置けばよろしいのに」
山南は関西交じりの言葉で答えた。
この男からも緊張という感覚は感じられなかった。
「しかし、だからこそだ。だからこそ、わしは気になっていた。そして、この男は肝だけは据わっているのか、はたまた相当な阿呆かは知らんが、わしの前に現れよった。その根性だけは認めてやりたいと思う」
俺はその言葉に少しだけ目線を上げて見た。
しかし、目の前の男の目は相変わらず座っている。
「ただ、残念なのは、市子が身を削ってでも救ってやった恩義をこうした形で裏切りよったことだ。わしの前に現れるということは、命はいらんというのと同じ。お前さんはその覚悟があって、ここに来たんだよなぁ?」
最後は俺への投げかけだった。
俺は息が詰まる。
緊張でうまく声が出なかった。
それでも今は答えなければならない。
さもなければ、この瞬間に命を取られてもおかしくないのだ。
俺は勇気を振り絞って顔を上げた。
「お、俺はこのまま市子さんの好意に甘えて生きていく自分が嫌だったんです。自分の気持ちもちゃんと伝えられないまま、お別れなんて絶対許せなかったんです!!」
俺の叫びに一番に反応したのは意外にも伊東だった。
伊東は俺の横で大笑いし始める。
「嫌だったって、お前さん、いい年だろう。若いもんじゃねぇんだから、そこいらの節度もわかってるだろう?」
「わかってます。わかっているからこそです。世間のそういう風潮を守るために、はたまた自分の身を守るためにただ保守的に生きる、その意味は何ですか?ただ、自分の身が安全であればいいんですか?自分の人生をかけて自分を救ってくれた女の子がいるというのに、それを無視して自分だけのうのうと生きていくのは違うと思うんです。俺はそんな彼女の気持ちに報いたい。俺のせいで彼女の人生を棒に振ってほしくなかったんです」
その俺の言葉にいち早く反応したのは、組長でもなく、はたまた伊東でもなく、山南だった。
「報いたいって、あんた。あんたのしてることは真逆やで?市子はんの努力を無駄にししはったんや。なんでそれがわからんの?」
俺はそう投げかけた山南に目線を向けて答える。
「ここに来たからって、彼女の生活が元に戻ることはないかもしれません。でも、だからこそ、俺もそんな彼女の人生に寄り添いたかったんです。もし、ここで命を取られたとしても、彼女と過ごした時間をなかったことにして一人で生きていくよりはよっぽどマシです。俺が若ければ、俺のこの無鉄砲な行動にも理解されたかもしれない。けど、逆なんですよ。若くないから、俺の残りの人生がそんなに長くないからこそ、命差し出す覚悟ができたんです。残りの人生を賭けてこの場に立ってるんです!」
その言葉に誰もが口を閉ざした。
そう、若ければ、世間を知らない無鉄砲で片付けられたかもしれない。
そして、こんなおっさんが逆にこんなことしているのはおかしいと思うかもしれない。
でも、違う。
おっさんだからこそ、残りの人生が長くないからこそ、迷わずに彼女に人生捧げられるんだ。
ここまで生きてきたからこそ、芽生える覚悟だってある。
すると、組長は少しだけ口の端を緩めて口を開いた。
「市子のために生きたいと言ったのはお前で二人目だ。なぁ、小林。お前から何か言いたいことはあるか?」
その言葉の先に、部屋の隅に小林がいることに気が付いた俺は振り返る。
小林は今までに見たこともないような神妙な顔で座っていた。
そして、彼はゆっくりと答えた。
「あに……、土方さんはお嬢が選んだ相手です。その意味、親父にならわかりますよね?」
小林の言葉はまるで挑戦的だった。
組長が怖くないわけがない。
それでも小林は勇気を振り絞って答えたのだ。
それはきっと俺だけじゃない。
市子のためでもあるのだ。
その言葉に組長はほほうと唸り、今度は自分の孫娘、市子に目を向ける。
「そうか。そういうことか、市子。お前はこの男がお前に、そしてこの小野組にふさわしいと思って選んできたのだな?」
その瞬間、全員の目線が市子に投げられた。
市子がその答えにどのような返答をするのか不安に思いながらも、俺は険しい表情で顔を伏せる市子を見ていた。