第88話 小野組の門をたたく
ごみ袋の山から這い上がった俺は、一直線に市子がいるはずの小野組本宅へ向かった。
屋敷の前まで着くと、長屋門の門扉を思い切り叩いた。
「誰か開けてくれ! 組長の孫娘、市子さんに会いに来た!」
その声が屋敷に届いたのか、門に誰かが近づいてくる音が聞こえた。
俺の予想に反して開いたのは、正面の大門ではなく、隣にあった小さな門、潜り門だった。
そこから男が顔を覗かせる。
スキンヘッドにサングラス、黒のスーツと、どう見てもまともな人間には見えない。
彼は俺に気づくと、想像よりも高い声で答えた。
「はい? どちら様?」
思ったよりも普通の返答だった。
拍子抜けした俺は、来た時の勢いを忘れ、冷静に答える。
「えっと、土方敏郎という者ですが、あの、小野市子さんいらっしゃいますか?」
男は不思議そうな顔で俺の名前を繰り返した。
「土方……さん? 土方としろ……」
そして、やっと俺を思い出したのか、俺を指さして大声を上げた。
「あ、てめぇ! お嬢に手ぇ出しやがったとんでもない男じゃねぇか。お嬢が今、どんな目に遭っているのか知らねぇだろう!」
男は俺に向かってそう叫び、敷地内にいた仲間を呼びつけ、表に出てきた。
柄の悪い男が二、三人出てきたが、やはり大門からではなく、潜り門から丁寧に一人ずつ出てきていた。
「おめぇが、土方か。よくもやってくれたな」
どこかのB級映画か、チンピラ漫画の決め台詞のようなものを吐きながら、男たちが近づいてくる。
昭和を思い起こさせるような、拳を握り、音を鳴らす仕草もきちんとつけてくれていた。
「お嬢が許してもな。俺たちはぜってぇてめぇを許さねぇよ。一度面を拝んだら、徹底的にボコってやろうと思ったんだよ」
男はそう言って近づいてくる。
他の男もその男に続いて近づいてきた。
「そもそも門なんか叩いてんじゃねぇぞ。隣にインターフォンあるのが見えねぇのか!」
次の男の言葉にハッとさせられる。
確かに立派な長屋門だが、潜り門の横にはちゃんとしたカメラ付きインターフォンが付いていた。
軒下には丁寧にも最新式の監視カメラも設置してあり、さすが大手極道だと思った。
「てめぇの親父のせいでな、俺たちは散々火消しに回されたんだよ。分かっているのか、こらぁ」
息巻いているように聞こえる男の言葉も、じっくり聞くと最もな意見だった。
きっと俺も同じ立場なら同じことを思う。
その点に関しては、確かに俺に落ち度だろう。
「分かってる。だから今日は、その落とし前に来た」
その言葉に先頭の男がハッとさせられた。
まさか、命を救われた俺が自ら戻ってくるとは思っていなかったのだろう。
里奈が真実を教えてくれたとしても、俺が目をつむって知らないふりをすれば、彼らとこれ以上関わることもなかった。
けれど、俺はそんなことはできない。
世界中の人間に罵られたって、俺は何度でも市子に会いにくるだろう。
「はぁ、てめぇ、何を言ってんのか分かってんのかよ。俺たちの落とし前はてめぇらの考えているような軟なもんじゃねぇんだぞ」
男はそう言って俺に拳を振りかざしてきたが、その動きは俺の目の前で一瞬止まる。
そして、険しい顔をして、一歩下がった。
俺は何事かと思い唖然とした。
男は何かに気づいたようで、後ろにいた男に小声で話しかけていた。
「なぁ、あいつなんか臭いんだけど。めっちゃ生ゴミみたいな臭いする」
「はぁ、まじかよ。そんなやつ、素手で触りたくねぇな」
「よく見ろよ。あいつの肩、なんか腐ったものくっついてんぜ? スーツもテカテカしてるし、やばいんじゃねぇのか」
最後はついに俺のスーツを指さしながら、不満を言い合っていた。
俺は改めて自分の着ているスーツを見ながら、彼らの言うように生ゴミの油のようなシミと生臭い臭いを確認した。
確かにこれは素手で触りたくない。
「素手がダメなら、足の裏で蹴ればいいんだよ! ほら、やっちまえ!」
その手があったかと思いながらも、男たちは勢いよく俺に近づき、宣言通り、足の裏を使って蹴ってきた。
相手の攻撃が分かっても、さすがは暴力団。
力は強い。
俺は必死で自分の体を腕で守りながら、ダメージを軽減しようとした。
すると、再び潜り門から誰かが顔をのぞかせているのが見えた。
俺は体をガードしながらもその男の姿を見る。
「兄貴!」
それは小林だった。
小林は俺を見つけた瞬間、俺に近づいてきて、男たちから俺を庇った。
「辞めてくだせぇ。兄貴はお嬢の大切な人なんす!」
その言葉を聞いて、男の一人が小林に答えた。
「はぁ、大事な人だぁ? こいつはお嬢を汚した張本人じゃねぇか。お前が庇う義理はねぇ」
「だから、それは間違いだってお嬢も何度も説明しやしたよね。兄貴はそんな人じゃねぇんすよ」
小林がどんなに訴えようとしても男たちは聞く耳を持たなかった。
当然だ。
小野組から見た俺は、市子の立場を揺るがしたとんでもない厄介者なのだから。
すると今度は後方から車がこちらに向かってくるのが見えた。
それは、漆黒に光り輝くベンツのGクラスだった。
セダンとはまた違った高級感と存在感を感じた。
そして、門の前に止まると、そこから一人のガタイのいい男が降りてくる。
沖田なんて可愛く見えるほどの筋肉質な体だ。
身長は180cmを優に超えている。
真っ黒な髪をオールバックで固め、頬から首にかけて大きな傷跡があった。
まるで映画やドラマから出てきたようなヤクザの姿だった。
体から溢れる威圧感は凄まじく、目の前に立たれるだけで震え上がりそうだった。
年は俺よりも上だろうか。
50近くには見えた。
「お前ら、何してる」
それは短い言葉だったが、重圧に満ちた低く重い声だった。
今まで俺を蹴り上げてきた男たちの表情にも緊張が走る。
「へ、へい。その、この男は例の土方でして、お嬢に会いたいと暴れていましたので、少しばかり教育を……」
男たちの言葉に彼はほうと意味ありげに答えた。
「教育……ね。親父の家の前で堂々と……」
その言葉だけで俺の背筋に冷たいものが走った。
この男はただ者ではない。
そこいらの暴力団とは明らかに風格や威厳が違った。
そして、男の興味は俺に向けられたのか、ゆっくりと目線をこちらに向ける。
まるでウサギがイヌワシに標的にされた瞬間のようだった。
俺の体の底からの震えが止まらない。
「そぉか、君が土方君ねぇ。ようこそ、小野家へ」
彼はそう言って笑顔を作る。
しかし、その目は明らかに笑っていなかった。
「土方君を親父の前に通してやってくれ。今ちょうど、その件で幹部会が始まるところだったんだ」
その言葉に俺はハッと顔を上げる。
男は俺の顔を見て、意味ありげに笑った。
「かわいそうに。そんなにやられて。まあ、気にしないでおあがんなさいな。きっと親父も君を歓迎する」
男はその言葉だけ残して再び車に戻った。
男たちが門から離れると、門扉は自動で開かれる。
そして、完全に開き切った後、車が屋敷の中に入って行き、再び扉は閉められた。
俺はただそれを呆然と見ていることしかできない。
すると、俺を散々蹴ってきた男たちが俺を睨みつけて声をかけてくる。
「おい、お前も中に入れ。伊東さんがああ言った以上、お前を追い返すわけにはいかねぇ」
そう言って、俺を潜り門の方へ誘導した。
体中蹴られて痛む体を労わるように、小林が俺の体を支えて、門をくぐった。
その中はまるでドラマに出てくる高級料亭の中のようで、小野組という存在がどれほど大きいものかと思い知った。
俺は今からそんな人たちの前に立ち、自分の気持ちを伝えるのだ。
それはあまりにも現実味を帯びていない気がしてならなかった。