第87話 ついに女神様とお別れをする
ここは間違いなくあの女神様と会っていた夢の世界だ。
体の感覚もどこかぼんやりとしていて、夢の世界だとわかった。
しかし、俺は必死に市子に会うために走っていたところで、断じて眠っていたわけではない。
今朝、目覚めてからの一連の流れが全て夢だった可能性も考えてはみたが、そんなはずはない。
夢だとしたら、どれだけ長い夢なんだ。
俺が必死に考え込んでいるとき、後ろから誰かが近づいてきて俺の背中に抱き着いてくる感覚がした。
その感触は若干柔らかさを帯びていたので、おそらく女性だろう。
何事かと思って振り向こうとした瞬間、腹の前で交差した腕が見えた。
手首と手首を掴むようにして俺の体を固定し、しっかりとホールドされている。
これはいけないと思った時には既に俺の体は宙を舞い、見事に頭から地面へと着地した。
見事なジャーマン・スープレックス・ホールドが決まった瞬間だった。
俺の人生の中で、まさか誰かにジャーマン・スープレックス・ホールドを決められる瞬間が来るなんて夢にも思っていなかった。
こんな馬鹿げた仕掛けをしてくるのは、もう一人しかいない。
ここが夢の中で本当に良かったと思う。
俺の後ろで女神様が満足げな笑みを浮かべながら息を切らせているのが見えた。
「積年の恨み、晴らしてやったわ!」
女神様がそこまで俺を憎んでいたとは初耳だ。
俺は数秒間、天を仰ぎながら寝ていたが、ゆっくりと体を起こした。
そして、真剣な眼差しで女神様を見つめた。
「それよりも俺、なんでここにいるんですか? これって夢の中ですよね?」
プロレス技の件より俺は先にそこを確認しなければならなかった。
眠っていないのに夢の中とはどういうことなのだろうか。
走り出した瞬間、俺はトラックにでもはねられて死んだのか?
女神様はいつものように平然と頷いた。
「そうよ。ここはあなたの夢の中」
「でも、俺、眠っていたわけじゃなくて走ってたはずなんですけど、俺の現実の体は今、どうなっているんでしょうか?」
その言葉でやっとそのことに気が付いた女神様が指であごを摩り、斜め上を見つめながら考えた。
「さぁ、どうなってんだろう。寝ながら全力疾走しているとか?」
「それって確実にやばいやつですよね! 事故る可能性高いじゃないですか! ってかそれどういう状況!?」
久しぶりに大声で女神様に叫んでしまった。
しかし、これは仕方がない。
なんたって俺の命に直結する話だ。
「大丈夫よ。夢の中の時間と現実の時間は違うから」
それを聞いて少しほっとした。
目を覚ましたら、走っている途中と言うことか。
目覚めた時には近くに車がいないか最善の注意を払っておこうと誓った。
「現実の時間の方が早いわね」
それ、絶対俺、死んでるじゃん。
普通、逆じゃない?
「でも大丈夫、大丈夫、……たぶん。無意識でも人間は危機管理能力に長けているから、寝ている間に死んでるなんて、そんな、あるはずは、ないわよ……たぶん」
「たぶん」っていう単語、多くないか?
この状態で女神様の言う危機管理能力とか何を言っているのかわからないし、話し方からして自信のなさが漏れている。
ものすごく不安なのだが、俺は今、それどころじゃない。
「今は女神様と世間話している場合じゃないんだ。とにかく俺を起こしてくれないか」
俺は必死になって目の前の女神様に懇願する。
女神様の愚痴ならすべてが片付いた後、いくらでも聞いてやる。
その時に俺の命がある保証はどこにもないけれど、あの世に行く三途の川前の河原で、土産話として何時間でも聞こう。
だから、今すぐ現実に帰してほしかった。
「世間話って何よ。私との会話がそんな陳腐なものと思われていたわけ? 心外だわぁ!」
「いや、だからそれどころじゃないって――」
俺が必死に女神様に訴えようとした瞬間、突然、目の前に掌が現れた。
彼女が俺を停止するように手を翳したのだ。
「あんたに確認したいことがあるの。これはとても重要なこと。だから、今はそれどころなのよ」
珍しく女神様は真面目な顔をしていた。
俺はごくりと唾をのむ。
「あんた、今からどうするつもりなの? 小野市子と会ってどうするの?」
まさか、女神様がそこまで理解しているとは思わず、俺は驚きを隠せなかった。
でも、よく考えたら彼女は神だ。
俺の状況を随時感知していてもおかしくはない。
「市子を止める」
「どうやって? 結婚なんてやめろぉって、どっかのトレンディードラマの真似事でもする気?」
女神様の言葉はいろんな業界に怒られそうではあったが、今はそこに着目していられない。
「市子の被ろうとしている責任も、俺が半分担う。出来るかどうかはわからない。もしかしたら、殺されるかもしれない。だからって、このまま市子を見捨てて、俺だけのうのうと生きるだなんて出来ない。ならせめて、死ぬ前にあいつに俺の意思を伝えたいんだ。俺の命一つであいつのなげうった人生が取り戻せるならそれでいい」
俺の言葉に、女神様が呆れた表情になった。
「馬鹿だ、馬鹿だとは思って来たけど、本当にもう救いようもないぐらいあんたの脳みそ腐ってるわね。あんたが会いに行ったってね、あの子の努力が無駄になるだけじゃない。せっかく救われた命、どぶに捨てるようなものなのよ? 世界はどうするのよ。あんたが世界を救わないといけないんでしょ?」
悔しいが、今の女神様の意見は最もだ。
俺が今、市子に会いに言ったって、ただの犬死かもしれない。
でも、それでもいいと、俺の心が叫んでいるんだ。
もう、市子の顔が見れないと思うぐらいなら、会って、顔を見て、本当の気持ちを伝えたい。
例え、言葉で伝えられなくても、市子の気持ちに報いたいと思う。
「世界の救済なんてどうだっていい。そもそも、たった独りのちっぽけな中年のおっさんに、そんな壮大な責務なんて抱えられるわけねぇんだよ! けどなぁ、こんな俺にだってプライドぐらいある。中年だからって、しがないサラリーマンだからって、人生全て諦めてきたわけじゃない。人生をかけてでも一緒にいたいっていう相手を見つけちまったんだ。なら、俺は最後まで、出来る限り、その願いを果たしたいと思う。気が付くのが遅かったのかもしれない。何もかも無駄になるかもしれない。だとしても、ここで諦めるなんて選択、俺にはできない! もう、諦めるのはうんざりなんだよ!!」
俺の言葉に女神様は唖然としていた。
彼女が俺の言葉に圧倒されているところを見るのは初めてだった。
想像以上に女神様は落ち着いていて、声を上げることもなく、俺の顔を見て小さく息をついた。
「そう。ならいいのよ」
「え?」
女神様の意外な反応に俺は肩透かしを食らう。
「今まで散々、上から圧力かけられて、あんたを追い立てて来たけど、そもそもそんな努力する必要もなかったのよね。本来神様なんてさ、ただ、見守っているだけで良かったのよ」
彼女の言葉は何かを悟っているようだったが、俺には理解できない。
「気にすることないわ。あんたには私という最強の女神が付いているって言いたいところだけど、あんたには市子との恋を成就させて、世界を守るっていう使命があるんだから、そう簡単に死んだりはしないわよ。なんたって神様のお墨付きだからね」
彼女はそう言って笑った。
「あんたは市子との恋が実るように全力で動きなさい。その先に本当の未来が待っているのだから」
「女神様……」
この時初めて、女神様が神様らしく感じた。
「ってか、ほんと、取り越し苦労よね。心配して損しちゃった。私の今までの努力返せっての」
感心した側から、女神様は俺の知っているいつもの女神様に戻っていた。
ついでにお前、今まで大したことは何もしてこなかっただろうと言ってやりたい。
「ああ、念のために言っておくけれど、恋が成就した後の命の保証はないから。そこんところはよろしくね」
「は?」
女神様の笑顔に俺は呆然とする。
さっきの感動を返してくれ。
というより、やはり俺の死ぬかもしれない運命は何も変わらないらしい。
一先ずその線引きが恋の成就の後と言うことだけだった。
女神様は手を振りながら、俺の胸を思い切り突き飛ばした。
その瞬間、体がぐらりと傾いて、倒れそうになる。
驚きのあまり、目を閉じてしまったが、次の瞬間に感じたのは腰の痛みの軽減と、くしゅっとしたビニール袋の擦れる音。
そして、途轍もない生臭さだった。
俺が寝ていた場所はごみ置き場の生ごみ袋の上だったらしい。
そして、目を開けるとそこには珍しそうなものでも見る小学生が俺を囲むように眺めていて、その中の一人がそんな俺を汚物のように枝で突ついていた。
俺が体を起こすと、子供たちは驚き、一目散に逃げていく。
命は助かったが、このごみ臭い匂いにまみれて、小野組の門を叩くのは気が引けた。
掌にはいつものように油性ペンで『GOOD BEY BY 女神様』と書いてあった。