第86話 里奈に気づかされる
社長の宣言通り、翌日には何事もなかったかのように俺の日常は戻っていた。
あれほど苦情を言っていた取引先からの電話も、契約破棄の話もなくなり、今までと変わらない関係が続いていた。
強いて言うなら、あの後、俺を散々罵倒した取引先の社長が菓子折りをもって土下座しに来たことだ。
あんなにプライドが高かった彼が恥ずかしげもなく地面に頭を擦り付けている姿は、滑稽を通り過ぎて憐れだった。
それ以外、特に変わったことは何もない。
父親が訪れる前の平和な日々が続いていた。
仕事を終え、約束通り俺の全額おごりの飲み会をするべく、営業部全員と斎藤さんで会社を出た時、ビルの前で制服を着た里奈が鞄を抱えて立っているのが見えた。
俺はそれを見た瞬間、何かが起きていると直感した。
俺は一緒にいた同僚に今日の飲み会を中止してもらうように頼み、その場を後にした。
沖田はすごく残念がっていたけれど、近藤さんはすぐに察して承諾してくれた。
「里奈っ!」
俺は里奈に近づき、名を呼ぶ。
里奈も気が付き、すぐに自分から俺に近づいてきてくれた。
「敏郎! 何やってんのよ!」
開口一番にそんな言葉をかけられて、俺は戸惑う。
「何がだよ!」
「何がじゃないわよ。こんなところでのうのうと仕事して、信じられない!あんたはそれでいいわけ?」
「だから、何の話なんだよっ!!」
里奈は明らかに焦っていたが、理由がわからなかった。
全く事情を呑み込めない俺に里奈が唖然とする。
「何がって……、まだ気が付いてないの? あんたってどこまで鈍感なのよ!」
里奈は自分を落ち着かせるように目を瞑り、答えた。
「敏郎のところに、敏郎のお父さん、来たでしょ?」
「なんで、お前がそれを知っている!?」
俺は無関係な里奈にまでそんな事情を知られていることに驚いた。
すると、里奈は「黙ってて」と人差し指を俺の唇に翳した。
「それで私たちのこと、というより市子とのこと、脅されたんじゃないの?」
疑念は残るものの、俺は黙って頷いた。
「やっぱり。敏郎のお父さんだったんだね。お父さんが小野組の管轄外のチンピラに目を付けて、『小野組の者だ』と名乗らせて、敏郎と市子のことを吹聴するように仕組んだんだよ。それが市子や組の耳にも入って、大事になってた」
予想はしていたが、やはり小野組でも一波乱あったようだ。
俺は市子が心配になった。
「市子は大丈夫なのか? あの後、チンピラに絡まれたり、俺の父親に嫌がらせを受けたりしていないか?」
その言葉を聞いた里奈がかっと目を見開いて叫んだ。
「ばかっ!!」
俺はなぜそんな言葉を投げつけられたのかわからず困惑する。
「組織が動くって、そんな軽い話じゃないよ! 今までどうしてうちの家の事情に市子が関与してこなかったか、敏郎はわからなかったの? そこには重責がかかってくるから。それは市子だけじゃない。うちや家族にまでかかるってこと。なのに、今回、敏郎に何もお咎めがないのはなんでだと思うの? 誰かが敏郎を庇ってくれているからでしょ?」
「庇ってって……」
俺は全てを失念していた。
市子は普通の女子高生じゃない。
小野組という大きな組織の血族だ。
彼女の名誉を傷つける行為を小野組が許すはずがない。
今回の件、単に小野組が孫娘の不名誉を揉み消すために動いたとしか考えていなかった。
そうなれば、当然、俺の父親を見つけ出し、原因を作った俺にも制裁が届いてもおかしくない。
だが、命が助かるどころか、解雇すらされなかった。
それは不自然だともっと考えるべきだった。
なぜ父親は俺の前から姿を消した?
なぜ社長は突然、『なかったことになった』と言った?
なぜあれほど苦情を言ってきた取引先が文句ひとつ言わず、関係を続けてくれた?
なぜ俺は解雇を免れた?
俺が市子たちと関わりを持っていたのは事実だし、父親の言っていたことが誇張だとしても、世間がそんな俺を簡単に許すわけがない。
それなのに、魔法のように『何事もなかった』ようになったのが誰のおかげか。
市子に決まっている。
市子が里奈の家庭事情に首を突っ込まなかったのは、どんなに憎い父親だとしても、組によって消されることを恐れていたからだ。
そして、助けられたという事実一つで、里奈も組織とは無関係な人間ではいられない。
それは里奈だけでなく、幼い弟の永久君も一緒だ。
だが、今回は事情が違う。
俺の父親の手によって、市子自身が騒ぎに関与してしまっている。
当然、その落とし前を誰かがつけないといけない。
俺の父親やチンピラを罰したところで終わることなのか?
いや、きっと違う。
一番責任を取るべきは、軽率に市子との関係を深めてしまった俺だ。
なら、どうして小野組は俺の解雇まで止めたのか。
解雇どころか、命を奪われたっておかしくなかったはずだ。
里奈の言う通り、誰かがその重責を担わない限り……。
なぜこんな簡単なことにも気が付かなかったのだろう?
少し考えればわかることだったのに。
俺との関係を世間に吹聴された時点で、市子は部外者じゃない。
俺の責任はこんなもので終わるものじゃない。
それを知った瞬間、俺の中でどうしようもない感情がこみ上げてきた。
「どうして、市子はそんなこと……」
市子が関与してしまったのは理解できる。
けれど、そこまで俺を庇う理由などない。
俺には俺の責任を取らせればいい。
里奈はありえないとでも言いたげな顔で、頭を左右に振った。
「なんでわかんないの? そんなの答えは一つじゃん。市子が敏郎のことが好きだからでしょ?」
俺はその言葉に驚き、顔を上げる。
「好きな人を傷つけたくないって思うのは当然でしょ? 自分と関わったことで敏郎がこんな目にあったんだもん。市子なら責任取ろうとする。けど、それ以上に、敏郎が好きだから、自分の将来を投げうってでも、敏郎の未来を守ろうとしたんじゃん!その想いすら届かないなんて、悲しすぎるよ……」
里奈の顔は今にも泣きそうだった。
きっと里奈なら市子の気持ちが痛いほどわかるのだ。
里奈もまた、自分を犠牲にしてまでも俺を好きになってくれたから。
「市子の投げうった将来って何なんだ? 市子は組織と何を取り交わしたんだ?」
そう、市子がいくら一族の娘だからと言って、組織に甘えなどありえない。
市子に差し出すものがなければ、組織は市子の言い分を聞くはずはないのだ。
彼女はわかっている。
自分にまだ組織にとって価値のある存在なのだと。
里奈は少し言いにくそうにしていたが、目を瞑り、ゆっくりと答えた。
「……進学を諦めたのよ。市子は進学をせずに、組織の一部になることを決めたの。小野組は血族で続けてきたけど、正確には世襲制ではないから、市子が後を継ぐってことはない。それでも、組にとっては小野家の血は貴重。市子のおじいさんは、市子を次の組長の女として差し出すつもり。みんなそれなりの年だし、正妻とも限らない。市子は小野家の血族を産むためだけに嫁がされるんだよ」
俺は声も出せなかった。
そんな人生がこの令和の時代に存在するというのか。
そんなのがまかり通るわけがない。
それではまるで、市子には人権がないみたいじゃないか。
許せないと思うと同時に、そうしてしまったのが自分だと思うと悔しかった。
俺は持っていた荷物を里奈に投げ渡し、その場を駆けだした。
里奈は荷物を受け取りながらも驚き、俺の名を呼ぶ。
「俺はもう、後悔したくないんだっ!!」
俺はそう叫んで足を走らせた。
迷うことなどどこにある。
今まで市子のため、誰かのためと思って想いを殺してきた。
この想いを自分の中だけで消化すれば誰もが平和でいられると思っていた。
あの日、プールサイドで言われた別れ。
それが市子の望むものではないと本心ではわかっていたのに、引き止められなかった。
どうしてあの時、それでもお前と一緒にいると、どんな過酷な人生でも共に生きると言えなかったのだろう。
これでは涼子の時と何も変わっていない。
勝手に絶望して、勝手に思い込んで、相手の本音を本気で知ろうとなんてしてなかった。
あの市子の言葉が市子の下した判断なのだと彼女に責任を押し付けて逃げたのは誰だ?
そして、この騒動を起こした発端は誰なんだ?
俺が間違って市子に告白したことで縁が出来てしまった。
再会した日、ちゃんと事情も話せないまま、関係を深めてしまった。
あの日から、俺には何も責任がなかったというのか。
運命が悪いと言い切って、自分の選んできた道をなかったことにはできない。
この全ての出来事を市子だけに負わせていいわけがないんだ。
俺はもう一度市子に会うべく、必死に走っていた。
走って走って周りが見えなくなるぐらい必死で走った。
そして気が付けば、雲の中、そう俺は夢の中にいたのだ。
……なぜ?