第85話 斎藤さんの意外性を知る
一体何が起きたのだろう。
俺はそう考えながら、常務たちに一礼して会議室を出た。
彼らも当然、混乱しており、俺の自主退職どころではなかった。
この『なかったこと』とは、本当に社長が下した判断なのだろうか。
それとも……。
その時、目の前に心配した表情の近藤さんと沖田が俺に近づいてきた。
後ろからは、相変わらず冷静な永倉君がゆっくりとした歩調で近づいてくる。
心配しているわけではないのかもしれないが、永倉君も状況を把握しておきたいらしい。
「どうなった? 会社側から身勝手な供給はされなかったか?」
おそらく近藤さんが言っているのは、さっき会議室で行われた自主退職の促しについてだろう。
近藤さんも、おそらくこの流れを読んでいた。
だから、心配してくれたのだ。
「……はい。円満退職を促されました」
俺は少し嫌味のつもりで言った。
俺だって内心では、会社のこうした保身的なやり方が気に入らないのだ。
その言葉を聞いた瞬間、近藤さんたちは驚き、息をのんだ。
「やっぱり!あいつらはいつもそうだ。自分たちのことしか考えちゃいない。今から俺が抗議してきてやる。確たる証拠もつかめていないから、懲戒免職にできなかっただけだろうがって。あいつらがやっていることは不当解雇だ!」
これ以上、近藤さんをヒートアップさせてはいけないと思い、俺は慌てて訂正を入れる。
「でも、それもなくなったんです。社長の一言で撤回になりました。全てはなかったことになったそうです」
「なかったこと?」
俺と同じように近藤さんもその部分に違和感を覚えたようだ。
うちの会社が、顧客よりも社員を守るような献身的な会社でないことは明確だ。
それは社長も同じこと。
そんな社長が、どうして父親が起こした不祥事をなかったことにすると突然言い出したのか、俺にはわからなかった。
「まあ、考えられるとしたら、小野組の手が回ったってことだろうな」
近藤さんのその言葉に、今まで黙っていた永倉君が急に話に割り込んできた。
「そんなのおかしいですよ。だって、この一連の嫌がらせは小野組の人間がやったことなのでしょう? それを身内が火消しに回るだなんて、二度手間です」
いかにも永倉君らしい合理主義の考え方だ。
確かに一部の構成員が市子のことを思って暴走した可能性はあるが、それもなんだか違和感がある。
すると、突然、にょきっと斎藤さんがどこからともなく現れ、解説し始めた。
「問題はそこです!小野組というのは明治初期から続く大老舗で、噂の通り裏では政府とも強いコネクションを持っていると考えられます。彼らの仕事は表立っては、不動産業や飲食店経営、建設業などがありますが、本業は『掃除屋』です。ああ、これ、清掃業って意味じゃないですよ。確かに、派遣会社を立ち上げ、清掃の委託も受けているとは聞いたことありましたが」
俺たちが驚いているのは、『掃除屋』についてではない。
斎藤さんが、あまりにも裏社会について知っていることだ。
「政治家や業界人の不祥事なんかもなかったことにしているので、今回の件も彼らなら簡単になかったことに出来たでしょうね」
斎藤さんが、あまりにもぺらぺらと話すので、俺たちは言葉を返すことも忘れていた。
彼女の言っていることは実にわかりやすく、小野組について十分理解できた。
「そんなことより、斎藤さん。なんで、そんなに詳しいの?」
俺はここにいる社員の代表として質問する。
普通の会社員が、そんなに詳しいとは思えない。
「ああ、私の父は警視総監なんです。昔は公安にもいて、こういうの詳しいんですよ。仕事の内情は当然口外禁止ですが、一般的に知られている程度の情報は熟知しています。反社の関わり方について幼い頃、父からレクチャーされていましたからね」
彼女は笑顔で答えているが、そんな爽やかに話すことなのだろうか。
元公安というだけでもすごいのに、警視総監とは理解不能の領域だ。
というか、そんなお嬢さんがなぜうちのような中小企業に勤めているのか理解できない。
「でね、私が最も気になっているのは、その嫌がらせをしてきた奴らなんですよ。いくら組の末端である下っ端であっても、こんな組の顔に泥を塗るような行為をするはずがないです。ましてや、組長の孫娘の顔を画像で晒すなんてもってのほか。これは小野組にとっても由々しき問題なんですよ」
彼女はそう力説する。
その圧に、俺はすでに負けそうだ。
「だからこそ、小野組が火消しに回ったのは理解できます。私の予測では、これを仕掛けたのはおそらく小野組の人間以外ですからね。誰かからの依頼か、別の組の嫌がらせでしょう。しかし、小野組を敵に回す命知らずな奴が暴力団員にいるでしょうか? どちらかというと半グレの仕業というか、素人のやり口です」
それを聞いて、俺はやっと理解できた。
一連の発端は間違いなく俺の父親であり、奴が仕掛けた嫌がらせだ。
チンピラに声をかけて、嫌がらせをやらせたのだろう。
だからこそ、統制が取れず、店の売り上げに手を出したり、窃盗や器物損壊を堂々とやっていた。
警察沙汰になるのを全く恐れていない行動だ。
「この嫌がらせをやらせたのは俺の父親です。それははっきりしています。しかし、それに対して動いたのは小野組ではなく、小野組と名乗っただけの半グレ集団だったのかもしれません」
俺の言葉に納得したのか、近藤さんも頷きながら答える。
「そうか。あいつらはわざわざ組の名前を使って暴れたんだもんなあ。誰も奴らが小野組であった確証は得られなかったはずだ」
しかし、それでもまだ斎藤さんの中で解消できない疑問があるようだ。
「そうだとしても、気になるのはその火消しがうちの会社にまで及んだことです。小野組から考えれば、火消しは取引先だけで良かったはずだし、一個人の不祥事を全てなかったことにする必要はない。それはとてもコスパが悪いからです。土方さん一人ぐらいは捨て置いてもいいだろうし、というより土方さん自体を処分した方が早い気がします。事実であれ、無実であれ、孫娘に手を出した疑いがあるんですから」
なんて物騒なことを言うんだ。
しかし、確かにそうだ。
会社に圧力をかけるような回りくどいことなどせずに、俺自体を誘拐でもしてなかったことにした方がよっぽど早い。
そうなっては非常に困るし、俺も今日から外を歩くときは気を付けようと思う。
そんな中で、一人全く話についていけない人物がいた。
言わずもがな、沖田である。
沖田は笑いながら頭を摩り、俺たちに質問してきた。
「あのう、小野組って何ですか? 応援団の名前か何かですか?」
その段階からわかっていなかったのかと呆れてしまう。
「ああ、わかったぁ、あれでしょう。最近はやりの女性アイドルグループの名前とか。土方さん、そんなアイドルにまで手を出したんですか? お盛んですねぇ」
全然わかっていないし、今すぐこいつを殴りたいと思うのは俺だけだろうか。
俺は空気を壊さないようにぐっとこらえる。
皆がいなくなった瞬間にでも、沖田の後ろからスクールボーイを食らわせてやろうと心に固く誓った。
「とにかく、退職だけは逃れたってことだな。土方、お前ももう怪しいやつらと関わるのはよしとけ。お前がお人好しなのはわかるし、その個人に問題がないのもわかるが、一般人には危険すぎる。なにより今の時代は情報があちこちで飛び交っている。リスクが高すぎるんだよ」
近藤さんは俺にそう注意した。
彼の言っていることは正しい。
今回の件は、父親の問題でもあるが、俺の軽率な行動にも要因はあるのだ。
その何とも言えない空気感の中で、永倉君がもっともらしい質問をしてきた。
「っていうか、なんで今回の件に土方さんのお父さんが関わっているんですか? そもそもなんでお父さんが土方さんにこんな壮大な嫌がらせをするんです?」
俺は自分一人で理解しているつもりだったが、その疑問は当然だ。
しかし、この場でその説明をするのは難しい。
「それについては、そのぉ、長くなるので近々みんなで飲みに行った時にでも話そう」
「マジっすかあ! みんなで飲み会、久しぶりっすね!」
俺の提案に真っ先に反応したのは沖田だった。
そして、近藤さんも仕方ないと同意してくれる。
ちゃっかり斎藤さんも参加するつもりのようだ。
そこで思い出したのは、永倉君がこういう付き合いをあまり好まないということだった。
事前に聞いていたのに、この提案は良くなかったかなと彼を見たが、特に不愉快そうにもしていなかった。
「当然ここは今回の騒ぎも含めて、土方さんの奢りなんですよね?」
彼のその質問を聞いて、彼もまた成長しているのだと実感し、なんだか嬉しかった。
というか、その飲み会、いくらかかるのか非常に心配だ。