第84話 会社から自主退職を促される
「私はねぇ、敏郎君……」
男は沈んだ声で話し始めた。
しかし、どこか感情的で、体の奥から滲み出るような重たい声だった。
「奪われたんだよ、あの男に。私と妻は愛し合っていた、誰よりも深く愛し合っていた。それなのに、あの男がいきなり介入して、私から妻と子供を奪っていったんだ。私の大切な家族を!ひどいとは思わないか」
俺は益々、男の言っている意味が理解できなかった。
あの男とはおそらく母方の祖父のことだろう。
しかし、奪ったのではない。
母を助けるためにこの男から引き離したのだ。
だが、この男はそう思ってはいない。
「引き離しただけじゃない。私が何度も何度も家族を返してくれと頼んだのに、あの男は金に物を言わせて、私を支配しようとしたんだ。私がどれだけ失望したか!」
目の前の男の異様さに恐れを感じつつも、俺は反論した。
「じいさんは奪ったんじゃない。お前の暴力から母さんを守ったんだよ。お前は自分の妻に何をしたのか覚えていないのか?あんなに殴っておいて、それを今頃愛しているなんて、虫が良すぎるだろう!!」
「百合子は、私の愛をちゃんと受け止めてくれた。ちゃんと私を愛してくれた。なのに、あいつが、あの男が何もかも奪ったんだ。どうしてそっとしてくれやしなかったんだ。私の家庭を壊したのはあの男じゃないか!!」
百合子とは母の名前だ。
母を愛していた?
散々殴っておいて、それを愛だというのか。
愛している人に痛みを味合わせるやつなんてどこにいる?
普通、愛しているのならもっと大事にしたいと思うものだろう?
なのになんで、こいつは……。
男の言葉を聞くたび、気づかされてしまう俺がいる。
この男はただ、淋しいのだ。
愛する妻を殴りながら、愛してくれと叫んでいる。
そんな愛し方がおかしいってことぐらい誰でもわかるはずだ。
それでもこの男はやめられなかった。
不安を覚えるたびに殴って、殴っても愛し続ける妻に愛を感じた。
こんな絆、馬鹿げている!!
俺は更に胸ぐらを掴んだ手に力が入った。
許せない。
憎い気持ちは変わらないのに、今までの様にただ憎しむということもできないのだ。
知りたくなかった、こんな気持ち。
母親がなぜ、この男を見捨てられなかったのか。
離れた後もなぜ、父を愛し続けたのか。
あんなに憎んでいたはずの父親なのに、それでもこいつが肉親で、不器用で、それが俺の中にも遺伝子として流れている。
それと同時に、母の人を助けたいという遺伝子もまた俺の中に組み込まれているのだ。
どうして肉親の絆というものは、離れたいと思っても離れてくれないのだろう。
男の身体をものすごい勢いで押し上げながら、声にもならない雄叫びのような声を上げた。
この気持ちを言葉にすることなどできはしない。
悔しくて、苦しくて、憎たらしくて、それでもそれだけではいられない、どうしようもない悲しさが同時に溢れている。
「……お前はただ、独りになるのが嫌なだけなんだ!」
俺は男に向かって叫んだ。
「お前はいつだって愛してくれとばかり叫んでいる。でもなぁ、自分が誰かを愛さなきゃ、誰もお前のことなんて愛しちゃくれねぇんだよ。求めてばっかりで得られるもんなんてねぇんだよ!!」
これは俺の心の叫びだった。
この父親が間違っていたことは、家族に暴力を振るったことだけじゃない。
間違っていたのは、愛し方だ。
自分ばかり見て、自分を被害者としか思えなかった。
それが全て悲劇の始まりなんだ。
わかってる……。
この男が本当に欲しいのは金なんかじゃない。
金は支配のための一部だ。
本当に望んでいたのは、誰かがそばにいることだったんだ。
誰かからの無償の愛がほしかったんだ。
でも、今更、血を分けた親子だからって許してやることも愛してやることもできない。
頭の中には昔、母が俺に言った言葉が響いている。
『お父さんを嫌わないであげて。あの人は本当はとても愛情深い人だから』
俺はずっとその言葉が受け入れられなくて、母さんが勝手に思っていることだと思っていた。
でも、今なら思う。
この男は血も涙もない冷酷な人間なんかでなく、誰よりも弱く情けない人間臭いやつだったんだと……。
俺の頬に流れる大量の涙。
霞む男の顔。
どうしようもない感情が溢れてくる。
どうして今までこんなに苦しんできたのだろう。
どうしてこんなことに囚われてきたのだろう。
どうしてこんなことで俺の人生を潰されてきたと思うと悔しくて、感情が抑えきれなかった。
父親とはそれ以上何も話さなかった。
男も黙って俺の前から消えた。
それからはコンビニに行くのもやめて、家に引きこもった。
布団の中で蹲りながら、何度も泣いた。
そして、翌日の朝、会社から連絡が入る。
連絡してきたのは松平課長で、その声はどこか沈んでいた。
ああ、最悪な決断になったのだなと、その時理解した。
社内に入ると、社員全員が俺に注目した。
松平課長が会議室から顔を出し、俺を呼びつける。
営業部の席から心配そうな表情の近藤さんや沖田が見えたけれど、俺はそちらに振り向けなかった。
今彼らの顔を見てしまったら、俺の中の決心が鈍ってしまう気がするからだ。
会議室の壁際には松平課長だけでなく、副社長や常務が並んで座っていた。
そして、最初に口を開いたのは副社長だった。
「今回の件で、我が社は計り知れない損害を被った。君の行動は、当社の信頼とブランドイメージを著しく傷つけたのだ。」
彼ははっきりとした厳しい口調で俺に告げる。
俺はただ黙って静かに聞いていた。
「会社としては君に対して賠償請求も検討せざるを得ない状況だったが、そのような事態は会社にとっても望ましいものではない。そこで君には、責任の取り方として、自主的な退職という選択肢を考えて欲しい」
俺は目線を上げる。
会社としてはそれが一番穏便で安全な対策だったのだろう。
俺が辞めれば、取引先にも言い訳が立つ。
そんなところだろうとは思っていた。
最初から断る気なんてない。
それが一番、平和的解決だから。
「……わかりました。自主退職いたします」
俺がそう答えた時、目の前の上司たちから安堵した思いを感じた。
松平課長も相変わらず険しい顔をして、俺を睨みつけている。
すると、会議室の扉が突然開かれ、そこから社長が顔を出した。
彼は俺たちを一瞥した後、副社長に尋ねた。
「どうなった?」
社長の重厚な声が響く。
副社長は頭を低くして答えた。
「土方君がこちらの要件を飲んでくれたことで、穏便に解決しました」
その言葉で社長も納得すると思っていたが、そうではなかった。
「その話は撤回だ。なかったことにする」
誰もがその言葉に驚き、固まる。
なぜ、突然そんな話になったのかわからない。
明らかに副社長も狼狽し、社長に尋ねた。
「何を言っているんです。それじゃあ、取引先に説明が――」
「そんなもの必要ない。取引先はいずれ戻ってくる。損害なんてものは最初からなかったんだ」
「おっしゃっている、意味が……」
すると、社長は痺れを切らしたのか、大きな腕を振って叫んだ。
「ええいっ!うるさい!!なかったことになったのだから、なかったんだ。理解しろ。それと、土方を退職させるのもやめろ。わかったか!!」
社長はそれだけ言い残し、部屋を後にした。
俺たちは呆然とするしかなかった。