第80話 父親が現れる
家に帰る途中、突然姉貴から電話があった。
すぐに受けるが、電話口の姉貴は泣きじゃくるばかりで、何を伝えたいのかわからない。
「ごめんね」と繰り返すばかりだった。
とりあえず帰宅するのはやめて、姉貴の家に向かうことにした。
家のチャイムを押すと、出てきたのは姉貴ではなく勇志だった。
「急に来て悪い。姉貴の様子がおかしかったから」
「大丈夫。たぶん、僕たちよりも叔父さんが母さんの話を聞いた方がいいと思う」
勇志の言っている意味がすぐにはわからなかったが、彼が部屋に入るように促したので、俺はそれに合わせるように中に入った。
姉貴はソファーに座り、顔面蒼白だ。
その横で娘の晴香が心配そうに肩を寄せている。
晴香が俺に気づいた時、一瞬気まずそうな顔をしたが、逃げることもせず、母親に一言声をかけて立ち上がった。
そして、俺の前に立ち、苦笑いを見せる。
「久しぶり、としちゃん」
こうして面と向かって話すのは本当に久しぶりだ。
俺も話を聞いただけだが、最近の晴香は午前中だけ授業に出ていて、午後からは保健室にいるらしい。
いじめはなくなったようだが、無視に近い形で晴香に近づくクラスメイトはいない。
それでも、晴香は少しずつ授業に参加し、自分なりの学校生活を確立しているようだった。
色々なものを失った晴香にとって、この一年はつらいものだっただろう。
そして、その原因の発端に自分がいることが悲しかった。
俺は晴香に合わせて言葉を交わす。
「久しぶり。晴香の元気そうな姿を見れてよかったよ」
「私はもう大丈夫。今は、ママの話を聞いてあげて」
晴香はそう言って、俺を姉貴の横に誘導する。
たった数か月なのに、晴香はずいぶん大人になった気がした。
俺はそっと姉貴の横に座り、彼女の様子を見た。
目の周りは真っ赤に腫れ、顔色が悪かった。
相当ショックなことがあったのだろう。
俺は姉貴にそっと寄り添い、尋ねる。
「姉貴、何があったんだ?」
その言葉で姉貴は顔を上げる。
そして、再びその瞳から大量の涙があふれ、俺の胸に抱きつきながら、何度も「ごめんなさい」と連呼していた。
「謝るばかりじゃわからないよ。その理由を教えてくれ」
俺の言葉にやっと涙が止まる。
しゃっくりまじりの声が続いた後、ティッシュで涙を拭いて、落ち着かせるように息をついた。
その後、ゆっくりと話し始める。
「……お父さんが来たの」
その言葉に俺は絶句する。
驚きのあまり、泣いている姉貴の肩を力いっぱい掴んでしまった。
「どこに!? 家にか!? あいつがなんで今更!?」
姉貴のことを気遣う余裕など俺にはなかった。
それぐらい衝撃的なことだったからだ。
「わからない。けど、ずっと前から私たちのこと調べていたみたいで、今日突然家に現れたの。お金が欲しいって強請られた」
「……何言ってんだよ、あいつ。もう、俺たちとは何の関係もないだろう!!」
「借金があるみたい。お母さんと別れてからの数十年で作ったらしくて、親戚のよしみで少し貸してくれって。借金がかさみすぎて、もう首が回らないみたいだった」
俺はぐっと奥歯をかみしめた。
父親と母親が離婚した後、祖父は父親からの接触を拒むために、しばらくの間、金を工面していたらしい。
その後、父親にもまともな職が見つかり、当面の間はそこで問題なく働いていたと聞く。
しかし、その頃にはもう、父親はアルコール依存だった。
酒もタバコもやめられない。
時間があればパチンコに行き、夜はキャバクラで騒ぐ。
そんな人間が一般的な給料でやっていけるとは到底思えなかった。
案の定、負債は続き、それは少しずつ加算していったのだろう。
ついには職場にもそれがばれて、解雇され、しばらくの間は路頭に迷っていたのだと聞いた。
俺は、許せなかった。
あいつは家庭をめちゃくちゃにした張本人だ。
俺たちの母親もあいつのせいで、おかしくなった。
やっと祖父が色々な手段を使って俺たちから引き離してくれたというのに、今更またつきまとうのか。
そう思うと、俺の中からどうしようもない怒りがこみ上げる。
「まさか、あいつに金渡してないよな」
その言葉に姉貴はびくりと肩を揺らす。
この反応は渡しているのだろう。
俺は少し冷静になろうと黙った後、ゆっくりと尋ねる。
「いくら渡した?」
姉貴は言いづらそうに口をもごもごとさせた。
「……100万」
「100万!? そんな大金、なんで渡したんだよ」
俺は攻めるような声で姉貴に問い詰めた。
それが姉貴を追い詰めるとわかっていても、冷静ではいられなかった。
「だって、あの人、家族にまで手を出すって言い出したのよ。晴香や勇志の写真を見せつけてきて、進学させないようにしてやるって。それに、以前、晴香が敏郎の家に行った時の写真も手に入れてて、叔父と姪の不埒な関係をネットに拡散するって脅してきたの。私もう、耐えられなくて。100万渡すから、もう二度と来ないでって頼んだの」
俺はその言葉を聞いて、絶句した。
あいつがやりそうなことだと思った。
いくら姉貴が優しいからといって、今まで散々ひどい目に遭わせてきた父親に同情で金を渡すとは思えない。
父親もそれぐらいはわかっていたはずだ。
だから、断られた時のために、以前から対策をしてきていたのだ。
無駄なところに頭が回る男だと腹立たしくなる。
しかも、晴香と俺をネタにするだなんて、最悪だ。
俺にも責任がないわけではない。
それ以上にこんなものが拡散されたら、傷つくのは確実に晴香なのだ。
やっと学校にも行けるようになってきたというのに、また後戻りになってしまう。
俺は姉貴の肩から手を放し、首を振った。
いつまで俺たちはあの男に振り回され続けなければならないのだ。
姉貴は何も悪くない。
姉貴はただ、自分の娘を守ろうとしただけだ。
俺がもっと晴香たちのことを、お互いの関係に配慮していれば、こうならなかったのかもしれない。
ただ、そんなことはあいつには関係ないのだろう。
どんな形だろうと俺たちから不利な情報を集め、コントロールしようとしてくる。
そういうやつなのだ。
「100万渡したからって、もう来ないとは思えない。あいつにはとんでもない額の借金があるんだろう? 今回、あいつの思い通りになったんだ。また、同じように甘い蜜を吸おうとやってくるだろうな」
姉貴の顔はさらに真っ青になった。
姉貴だってわかっていなかったわけではない。
そうだとしても、晴香からあいつを引き離すためには必要だった。
「本当にごめんなさい。私にはどうしていいかわからなかったの。こんなことをしたって、あの人の呪縛からは逃れられない。けど、今は、邪魔をされたくなかったの。私たち家族にとって、あの父親の存在は脅威なのよ」
姉貴の言いたいことはわかった。
俺にとってもあの父親が人生最大の汚点だ。
忘れたい事実の一つだった。
「たぶん、敏郎の前にも現れると思う。敏郎のこともかなり詳しく調べていたみたいだから。それに、私以上に手強いとも思ってる。気を付けて、敏郎。あの人、何をしてくるかわからない」
姉貴の言う通りだろう。
あの人は俺の前に現れる。
それが職場なのか、家なのかはわからないが、当然俺はあいつに一銭も金は渡さないだろう。
そうなればあいつは俺にとって不利な情報をひけらかしてくるはずだ。
それがなんなのかはわからないが、俺が想像する以上に最悪なことに違いない。
「俺のことは心配するな。自分のことは自分でどうにかする」
「でも!」
姉貴は不安そうな顔で俺を見上げてきた。
こんな時にまで弟を心配してくれる姉貴は本当にいい姉だ。
「姉貴は勇志や晴香を守らないといけないだろう。それに、義兄さんにも迷惑をかける。俺には控えているものなんて何もないんだ。あいつとは真正面から向き合って、もう姉貴たちに被害が及ばないようにするよ」
「……そんなこと言っても、敏郎には敏郎の生活があるでしょう? あの人のために人生を捨てる必要なんてないわ」
姉貴の力強い言葉に俺は慰められた気持ちがした。
「捨てる気なんてさらさらないよ。だからってあいつの好きなようにはさせない。姉貴は一先ず義兄さんと協力して、少しでもあいつが近づいてこないように対策してくれ。後のことは俺が何とかするから」
今後、俺がどう対応すればいいのか、今はまだわからない。
それでもこれは俺の人生において決着をつけないといけないことなのだ。
幸か不幸か、俺にはパートナーも子供もいない。
これは俺がやらないといけない使命だと感じていた。
大変失礼いたしました。
小説家になろうでも一部掲載が抜けていました。
第70話 第73話 第74話です
大変申し訳ありません。