第79話 女子高生から別れを告げられる
里奈に「少しだけ一人になりたい」と言われ、俺はその場を離れて市子たちの元へ戻ることにした。
一人にするのは心配だったが、これ以上俺が側にいても里奈は心の整理ができないだろうと思ったからだ。
俺が戻ると、市子は肩にパーカーをかけて待っていた。
最初は二人だけでいなくなったことを咎めてきたが、里奈が一緒でないこと、そして俺の顔色が悪いことに気づき、市子なりに察したのだろう。
少し考えた後、彼女は小林を里奈のところに行かせた。
小林は一瞬、市子の側を離れるのを躊躇ったが、市子の真剣な表情を見て決心したのか、足早に俺が戻ってきた方向へ歩き出す。
きっと小林は里奈に直接話しかけたりはしない。
少し離れた場所で危険がないか見守るのだろう。
小林にまで迷惑をかけてしまったと思うと、本当に申し訳なかった。
市子は俺に隣に座るよう声をかけてきた。
俺は小さく頷き、素直にその隣に座る。
そして、しばらくの間、俺たちは無言でプールで楽しそうに泳ぐ光景を見つめていた。
「……あのさ、ありがとうね」
この沈黙を最初に破ったのは市子だった。
市子がなぜ俺にお礼を言うのかわからず、そっと彼女の横顔を見る。
「敏郎、里奈のこと真剣に考えてくれたんでしょ? 今までなら女子高生みたいなガキ、相手するかよって感じだったけど、敏郎の真剣な顔を見たら、そうじゃないってわかったよ」
市子にはなんでもお見通しのようだ。
俺は情けなくなって小さく笑う。
「お前、里奈の気持ち、知ってたのか?」
「当然でしょ。親友なんだから」
その親友という言葉が俺の胸にずしりと重くのしかかった。
俺はその親友を好きになり、里奈を振ったのだ。
なんていう運命のいたずらだろうか。
「里奈から直接言われたのは、花見の後だった。私に断りをいれるように、自分は敏郎が好きだって告白されたの」
それで、お前はなんて思った?
そんな質問を俺はできなかった。
その先の答えを俺は知りたくなかったからだ。
「でも、そんなのとっくに知ってたよ。里奈の反応を見ればわかるもん。きっと、敏郎が里奈の父親から里奈を守ったからじゃないよ。もっと、その前からだよ」
「……え?」
意外な言葉に俺はまっすぐ市子の顔を見た。
すると、市子と目が合い、彼女は優しく笑った。
「気が付かなかったの? ほんと、敏郎は鈍いなぁ」
彼女のその笑顔が眩しくて、俺は思わず顔を逸らした。
もしかしたら、顔も赤くなっていたかもしれない。
「多分、敏郎と初めて会った日から、里奈は敏郎を気になってたと思うよ。確信したのはいつだったかなぁ。敏郎の家に遊びに行った日かも。敏郎の家に行こうって提案したのは里奈の方だったし」
全然、気が付かなかった。
あの時は単なる気まぐれで、大人をちょっとからかってやろうという遊び心だと思っていた。
「なんで、俺なんか……」
里奈の気持ちがわからない。
俺みたいなしがない中年男のどこが気に入ったというのだろうか。
「私は、なんとなくわかるよ。里奈の気持ち。敏郎はさぁ、私たちに対して偏見なく、同じ目線で見てくれるんだよね。私の家が極道と知っても、里奈の家が複雑だと知っても、敏郎は何も変わらなかった。私たちの世界にはさ、そういう大人が少ないんだよ。ただの女子高生として、女の子として見てくれる人がさ」
その言葉はどこか重たく響いた。
きっと、市子も里奈も普通の高校生よりもずっと特殊な世界で生きてきたのだ。
大人は彼女たちに対して全く優しくなかったのだろう。
「そんな扱いに慣れてると思ってた。大人なんてそんなもんだって割り切っているつもりだったから。でもね、告白した敏郎の真剣な眼差しを見た時、そうじゃないかもしれないって思えたの」
「あ、あれはお前にではなくて――」
俺が慌てて言い訳をしようとした時、市子は「わかっているよ」と再び笑う。
「あの時もこの告白は私じゃないって、なんとなく気が付いていた。だって、私、敏郎に告白される理由なかったし、あなたが私のストーカーには見えなかったから。基本的には私の側にはいつも小林がいるし、それに私が極道の娘だとわかった時点でみんな離れていくもの。もし、本当に私が好きで、極道の娘だと知っても告白してくれたならって思うと嬉しかった。あの時は全力で拒否しちゃったけど、あの日は家に帰るまでずっとドキドキが止まらなくて、告白されるのってこんな気持ちなんだぁって思ったよ」
市子の意外な告白に俺は息が苦しくなった。
嬉しい気持ちと情けない気持ちが混ざり合う。
あの時の告白が本当に市子で、大村さんでなかったら、俺たちはどうなっていたのだろう。
「それでもさ、マッグで再会した時、ちょっとだけ運命を感じて恥ずかしくなっちゃった。きっとあの時のことは誤解なんだろうなって思いながらも、疑った。敏郎はどんな人かわからなかったし、想像とは違う人かもしれないし、警戒はするでしょ? それにね。なんか悔しいじゃない。初めての告白が、ただの勘違いだったなんて思うの」
そこまでわかって、俺にあそこまで罵声を浴びせたのかと思うと呆れた。
けれど、本音は気持ち悪いと思う以上に嬉しいと思ってくれたことが嬉しかった。
普通、女子高生に知らない中年男が告白したら、怖いと思うものだと思うから。
「今までひどいこと言ってごめんね。敏郎のこと、嫌だとか迷惑だとか思ったことないから」
その言葉だけでも俺の心は救われる。
市子に嫌われていない。
それだけで今の俺には十分だ。
「それだけでも伝えられてよかった」
彼女はそう言って立ち上がる。
俺はその意味が分からず、顔を上げて彼女を見た。
「だから、会うのは今日で終わり。道端でばったりすれ違っても、もう声はかけない」
「なんで?」
俺は思わず声を荒らげてしまった。
勢いよく立ち上がり、沈んだ市子の顔を見つめる。
「前から決めてたの。里奈が敏郎に告白したら、会うのは辞めようって。今まではね、里奈が敏郎に会いたいっていうから付き合ってたところもあったし、本当はこんな関係良くないんだと思ってた。敏郎がおじさんだからじゃないよ。私が極道の娘だから」
彼女の極道の娘という言葉が俺の頭の中で反芻した。
そう、彼女は普通の女子高生ではない。
元々は俺が関わっていい女の子ではなかったのだ。
「いい機会でしょ。里奈も今後、敏郎とは会いづらいだろうし、私たちも受験だし、卒業したら里奈自身がどうするか決めるんじゃないのかな。ちょうどいいタイミングだったんだよ」
彼女はそう言って、少し歩き始めた。
「私、小林のところ行ってくるね。里奈のことも心配だし。あれだったら、敏郎は先に帰ってもいいから……」
市子はそれだけを残し、俺から離れようとした。
俺はこのまま終わらせたくないと彼女の腕を掴む。
彼女はそれでも振り返らなかった。
「お前は……、お前はそれでいいのかよ。もう、俺には会いたくないってことなのか?」
極道の娘だからとかじゃなくて、俺たちが赤の他人だからじゃなくて、市子の本心が聞きたかった。
市子はすぐには答えなかった。
気持ちを落ち着かせるように顔を伏せてから、ゆっくりとこちらに顔を向けてきた。
その顔はどこか弱々しいけれど、笑っていた。
「いいに決まってんじゃない」
その言葉に俺は何も言い返せなかった。
市子がそう望むなら俺は何も言えない。
俺はゆっくりと市子の腕から手を放す。
彼女はそのまま奥へと歩いて行った。
俺は何もできないまま立ち尽くし、足元にできた濃い影だけを見つめるしかなかった。