第76話 女子高生とプールに行く
プールなんて何年ぶりだろうか。
俺の覚えている最後の記憶は、姉貴夫婦に箱根旅行に誘われて、泊まったホテルのプールで勇志と晴香と一緒に遊んだ時ぐらいだ。
独り身の俺にとってプールなんて無縁だし、海に誘ってくれるような友人もいない。
こういう場所は遠目から眺めて、若かりし頃を思い出すものだと思っていた。
俺がしみじみとプールサイドに立ち、周りの様子を眺めていると、やっと着替え終わった一人が後ろから声をかけてきた。
「兄貴!」
あちこちに「プールサイドでは走るな」と書いてあるのに、小林は子供のように駆けていた。
手には大きな浮き輪、頭には真っ赤な水泳キャップとシュノーケリング用のゴーグルをつけている。
いやいや、ここはプールなのだから、シュノーケリングゴーグルはおかしいだろう。
よく見ると、浮き輪も普通の浮き輪じゃなくて、巨大なアボカドの形をしている。
せめて、中央に穴が空いた普通の浮き輪を借りてきてくれよ。
「俺、この日のために水着新調したんすよ。見てください!」
小林はその場で浮き輪を投げ捨て、大股を開き、俺の前で自慢の水着を見せつけた。
おかげで浮き輪は風に飛ばされ、端にあるフェンスに引っかかっていた。
某アニメを思わせる鮮やかな黄色の虎柄のビキニ。
それは小林のような男ではなく、女性に着てほしかった。
小林の場合はラ〇ちゃんというより、レ〇、もしくはラ〇父になってしまう。
しかし、小林は随分気に入っているらしく、まるで見せびらかすように歩き回っていた。
俺は小林の水着ショーには全く興味がない。
ひとまず、飛ばされたアボカド浮き輪を回収し、空いている場所を探す。
夏休み真っ盛りで人も多く、どこも混雑していた。
俺たちはなんとか場所を見つけ、そこに折りたたみのサンシェードを広げながら二人を待っていた。
しばらく待っていると、やっとのことで二人が現れた。
「お待たせぇ」
いくら水着に着替えるにしても長すぎるだろうと文句を言いたくなり、俺は顔を上げた。
「おせぇよ。待っている間に焼け焦げるかと思っ――」
その先の言葉が出なかった。
目の前に現れたのは、ボーダー柄のビキニを着た里奈と、上にパーカーを着てはいるが白色でフリルの付いたビキニを着た市子だった。
里奈は高校生にしてはけしからんほどのナイスバディだし、市子もまさか露出の高いビキニを着てくるとは思わなかった。
しかし、二人とも最高に似合っている。
似合いすぎて、周りの男からの視線が熱かった。
「見るな、見るな」と周りの男たちを目で蹴散らした後、二人をサンシェードの下に座らせる。
「ああ、喉乾いちゃった」
里奈は座るなり、いきなりそうぼやく。
「さっき来たばかりだろうが。プールにもまだ入ってないのに」
俺はそんな里奈にすかさず突っ込んだ。
「プール入る前にやることいっぱいあるんだもん。日焼け止めとか塗らないといけないし」
そう言って里奈はカバンからウォータープルーフの日焼け止めを出して、俺に差し出した。
まるで、その意味を察しろと言わんばかりに。
「水着はいいんだけどさぁ、露出が多すぎて日焼け止め塗るの大変なんだよね。特に背中とか後ろが……」
里奈は挑発するように俺に背中を見せて言った。
昭和の時代だったら、これは日焼け止めではなく、サンオイルだったんだが、意味合いとしては昭和も令和も同じだ。
背中は他人が塗る。
その誘惑。
すると、市子が呆れた表情で里奈に言った。
「それは私が手伝ってあげるから、早くプール入ろ」
彼女はそう言って里奈から日焼け止めを奪い取り、背中を向けるように指示した。
俺はほっと安心した後、何気なく小林に目を向けた。
すると小林がシートの上で寝そべって俺に言った。
「兄貴ぃ。俺の日焼け止めも塗ってくだせぇ」
「お前なんて炭化してしまえ」
俺はそんな小林に背を向け、他に準備するものはないかと周りを見渡した。
小林は残念そうな声を上げ、一人で必死に日焼け止めを塗り始めていた。
今どきは女子だけでなく、男子も日焼け止めを塗る時代になったようだ。
俺たちの時代はまだ、ちょっと焼けた男ぐらいがかっこよくて、シミとかしわなんて考えてもなかったんだけどな。
そう思いながら目線を向けると、里奈のカバンの中にしぼんだ浮き輪のようなものが入っているのが見えた。
俺はそれを指さして膨らませるか聞くと、「お願い」とそのまま頼まれた。
ここは男の見せ所と言わんばかりに、その浮き輪を息で膨らませようとするが、できない。
顔を真っ赤にしながら、息を切らすばかりだった。
そんな俺を見かねてか、市子が電気空気入れが無料で貸し出されているらしい情報を告げた。
そういうのは早く言ってほしい。
俺は早速、しぼんだ浮き輪を持って空気入れを借りることにした。
そして膨らませて初めて理解する。
これ、ダチョウの浮き輪だ。
丁寧に頭と羽がついている。
こういう形の浮き輪って、ペガサスや白鳥とかが多いんじゃないの?
ダチョウってどういうセンスだよ。
相変わらず思考が読めない女子高生の浮き輪に空気を入れ終わると、タイミングよく二人も準備を終えた状態だった。
「ウォータースライダー乗りに行くよ!」
里奈はそう言って、スライダーに向かって駆け出した。
俺は慌てて浮き輪をサンシェードの下に置いて、里奈たちを追いかける。
俺もすっかり「プールサイドは走ってはいけない」ことを忘れていて、監視員に見つかり、怒られてしまった。
こういう時、どうしても俺は悪目立ちするらしい。
行列に並んで、俺たちは順番を待った。
里奈は興奮しているのか、待っている間も動きっぱなしだった。
その度に揺れるそれが気になって仕方がない。
俺は必死に目線を外に向け、順番が来ることを願った。
前から疑問に思っていたのだが、どうして女子は下着を見られるのは恥ずかしくてもビキニは着られるのだろうか。
隠れている面積も狭いと思うし、半分裸みたいなものだ。
スカートの中から見えたパンツは必死で隠しても、ビキニのパンツは隠さないんだよな。
俺にとってはどちらも変わらないから、ビキニを着てはしゃいでいる子を見ると不思議に思えて仕方がなかった。
早速順番が訪れる。
どうやら二人で浮き輪に乗って滑るタイプらしい。
この組み合わせなら男女だろうと思っていたが、相談する前に里奈と市子が先に乗ってしまった。
残されたのは俺と小林の二人だ。
小林は特に気にならなかったのか、順番が来るとさっさと浮き輪に乗り込んだ。
やつが乗り込んだのが後ろ側の席だったので、俺は前に座らないといけない。
小林の大股を開いた前に座るのはなんだか屈辱だったが、後ろが控えているので、考える前に乗り込むしかない。
案の定、男二人で乗った重々しいその浮き輪は、想像以上のスピードで滑っていった。
その後、俺たちは波のプールに向かうのだが、そこはもうプールと言うより水着で入る温泉のようだった。
泳ぐスペースなどはなく、大衆が波の流れてくる方向を見つめながら漂うシュールな光景。
人数が多すぎて、もうプールとは言い難い状況だ。
そこを離れると流れるプールが現れる。
里奈たちはさっき俺たちが膨らませた浮き輪を持って、流れるプールの方へ飛び込んでいった。
おっさん二人はそんな二人を眺めながら、元いたサンシェードに戻って一休憩入れることにした。
年だろうか。
少し水に浸かっただけで疲れる……。
そんな俺に小林が嬉しそうに話しかけてきた。
「プールなんて久しぶりっすよ。お嬢に仕えてこの方、もう何年も行ってなかったっすからね」
俺は意外に思えた。
今はともかく、年頃の女の子なら毎年のように遊びに来てもおかしくないだろうに。
「そういえば、小林はいつからあいつの世話係してんだ?」
俺は今までずっと疑問に思っていたことを尋ねる。
すると、小林が頭で考え、目の前で指を折りながら数えた。
「……お嬢が小学5年生の頃からですから、今は8年目っすね」
「案外長いんだな。お前が組に入ったタイミングで係に任命されたのか?」
「いいや。俺は最初からお嬢専属ですぜ。俺は高校中退してすぐにお嬢に出会って、そのままお仕えしていやすから、どっちかっていうと組に入ったのはその後ですね」
小林の言っていることがさっぱりわからない。
それに、普通に計算してみると小林の年齢が俺の想定しているものと違った。
「お前、今いくつ?」
「25っす」
もっと年食っていると思ってた。
十分、若者じゃないか。
「お嬢と出会って、俺は一生この人についていくって決めたんすよ。俺が一生守っていこうって。だから、お嬢の世話係は自ら望んでなったんす。当然、組には所属しないといけなかったし、抜けることもできやせん。多分、上に上がるとかもないんじゃないんすかね」
俺には組の事情は分からないけれど、小林が複雑な経歴で市子の世話係になったのがわかった。
今、市子を思っているのは自分だけなんて勝手に思っていたけれど、もしかしたら、俺のこの想いは小林にすら追いついていないのかもしれない。
小林が既婚者であることを考えると、その感情は市子に対する恋心ではないのかもしれないけれど、命がけで相手を守る誓いは相当なものだろう。
俺は改めて、目の前にいる小林という男を知ることになった。