第73話 永倉君の壮絶な過去を知る
「そもそもこういうこと自体、ルール違反なんですよ」
ファミレスの席に着くなり、永倉君は不満そうに俺に愚痴った。
退職代行サービスがどういうシステムになっているかは俺にもよくわからないが、おそらく彼の退職の意思を阻害することはできないのだろう。
「俺は別に無理やり引き戻そうなんて思ってないよ。ただ、永倉君の意思が聞きたかったんだ。そうじゃないと、松平課長も納得いかないだろう?」
その言葉に永倉君は何とも言えない表情を見せた。
そう、これはあくまでプライベート。
会社の先輩としてではなく、彼の知り合いとして会いに来ているのだ。
「実は俺も君に何があったのか詳しくは聞いていないんだ。たぶん、浮島社長から不快なことを言われたからだろうけど、それだけで会社、辞めてもいいのか? 浮島社長との相性が悪いなら、しばらくの間は俺が担当するぞ」
すると永倉君はむっとした顔で目線を逸らし、指先で迷いなくタブレットを操作し、ドリンクバーを注文した。
ついでに俺の分も頼んでほしかったのだが、頼んだのは一人分だった。
「……別に浮島社長の件だけじゃないですよ。松平課長があまりに一方的に責め立てるから、ああ、もうこんな上司とならやっていけないなと思って退職の意思を示したんです。正直、いつ辞めてもいいと思ってましたし」
その話を聞いて、永倉君が俺に最初に質問した時のことを思い出した。
俺に聞いてきたのは、退職の仕方だった。
「永倉君はうちに就職した時から、退職するかもと思いながら入社してきたのか?」
俺はそう質問しながら、自分の分のドリンクバーを注文する。
「まぁ、ぶっちゃけて言えば、そうですね。この会社は僕がしたかった仕事じゃないし、とりあえず就職するために入った会社ですから。精神的に就職浪人とか耐えられない気がして。でも、結局、こうして短期間で退職した方が再就職としては不利になるんですけど」
どこまでも現実的な永倉君。
自分の話を終えると席を立った。
おそらくドリンクバーで飲み物を取ってくるのだろうと思い、一緒に俺の分のコーラを持ってくるように頼んだ。
永倉君は不愉快そうな表情は見せたが断らなかったので、持ってきてくれるのだろう。
その間に俺は永倉君にどんな話をしようか悩んでいた。
彼はすぐに戻ってきて、俺に半分しか入っていないコーラを差し出した。
せめて氷も一緒に入れてきてほしかったが、彼のグラスの中にも氷が入っていないところを見ると、彼自身が入れない派なのかもしれない。
「俺は会社のためとか関係なく、今君がうちの会社を辞めるのはもったいないと思うけどな。君は仕事ができないわけでもないし、営業も向いてないわけじゃない。数年でもうちで実績を積んで、本命の会社に挑戦すればいい。君は若いんだから、それでも全然遅くないだろう?」
彼は俺から顔をそむけたまま、数秒間黙っていた。
そして、ぽつりぽつり話し始める。
「……それじゃ、遅いんですよ。成功者はみんな最初が肝心なんです。最初ダメだった奴は一生ダメなんですよ」
その言葉はあまりにも悲観的に思えた。
彼はどちらかと言えば、合理主義だ。
しかし、その言葉は決して合理的ともいえない気がした。
「なんでそう思うんだ? そうじゃない人もたくさんいるだろう? 永倉君の世代の子たちが合理主義だったり、コスパ重視なのは知っている。けど、君の場合はちょっと行き過ぎている気がするんだ。もしかして、そう思うきっかけが別にあったんじゃないのか?」
俺は今までずっと気になっていたことを永倉君に尋ねた。
彼を単純に今どきの若者と言ってしまえばそれで終わってしまう問題なのかもしれない。
けど、きっと真相はそう単純じゃない。
永倉君は口をもごもごさせながら、答えにくそうにしていた。
きっとそれはデリケートな部分なのだろう。
それでも俺は、それを知る必要があると思った。
永倉君は何かを諦めたように大きくため息をつき、徐に話し始めた。
「僕には四つ上の兄がいたんです。仲は悪かったけど、優秀な人でした。母親はいつもそんな兄を褒めて、周りにも自慢していたんです。そんなこと僕にはどうでもよかった。僕は兄のようになりたいとも思わなかったし、兄に追いつこうともしなかった。でも、そんな兄が突然会社を辞めてきて引きこもりになったんです。それまではいい高校に入学して、有名大学に合格、就職した会社も一流で順風満帆だったんです。兄は就職してから変わりました。家に帰るのはいつも翌日の朝。睡眠時間もほとんどなかった。残業代も十分にもらっているわけでもない。その上、上司からの異様ないじめ。勤め始めて二年目で兄はおかしくなりました。それから半年間、部屋から出ることもなく、そして気が付けば部屋の中で首を吊って死んでいました」
想像以上に壮絶な答えに俺は絶句してしまった。
彼の背景にそんな過去があるとは想像もしていなかったのだ。
「兄が死んで、悲しいなんて思いませんでした。兄弟でもあまり関わりなかったし、兄も僕もお互いに関心がなかったんです。けどね、身内に自殺者が出るって、結構えぐいんですよ。母親は精神崩壊しちゃうし、近所からは偏見の目で見られる。ああ、兄は何勝手なことしてくれちゃってんだって腹が立ちましたよ。そして、同時に僕は兄のようには生きないと誓いました。どんなに優秀な人間でもああなってしまったら、最悪ですよ。今まで苦労したことも水の泡じゃないですか」
彼は自虐的な笑みを浮かべ、小さな声でバカバカしいと呟いた。
そして俺は漸く気が付いたのだ。
なぜ彼が会社での人間関係がドライなのか。
無用な残業や無償労働を頑なに拒絶するのか。
きっとお兄さんが懸命にしてきたことなのだろう。
優秀であろうとするあまり、周りの目を気にして生きてきた。
嫌な仕事も無理な仕事形態にも文句を言わず、精神が擦り切れるまで働いてきた。
そして、ついにはすべてが朽ちて部屋から出られなくなり、生きている理由もわからなくなった。
そんな働き方が正しいなんて俺も思えない。
でも、それ以上に会社が彼の兄にしたことが、こうして家族にまで浸透し、やる気や希望を失わせていると思うと腹立たしかった。
かといって、何も持たない俺がそんな彼に何が言えるだろうか。
「あ、別に同情とかいらないですから。そういうの嫌で、今まで誰にも話してこなかったんで。ただ、話して、僕の退職に理解を示してくれたらそれでいいんです。僕は無理をしない。嫌なことは嫌って言える人間でいたいんです」
人によってはそれが我儘だと思う人もいるだろう。
それでもそれは彼にとっては信念なのだ。
それを覆す言葉を俺は持っているだろうか。
しばらく考えた後、俺はゆっくりと永倉君に告げた。
「だったらなおのこと、永倉君の退職には反対だ」
「なんで!?」
俺の言葉に永倉君は驚いたようだ。
当然だろう。
引き止められたくないゆえに話したことなのだから、これでは意味がなくなってしまう。
「俺はここで世の中なんてやっぱりそんなもんだって納得してほしくない。周りの勝手な言動や決まり事で、人生の多くを諦めるような生き方をしてほしくないんだ。君から見れば俺も所詮は会社の家畜。言いなりに生きている人間に見えるだろう? でも、それを良しとして生きているわけじゃない」
俺の意外な言葉に永倉君は黙って見つめていた。
「サービス残業も上司の理不尽な命令も、納得しているわけじゃないし、諦めているわけでもない。俺はいつだって自分のために、そして仲間のために会社と戦う覚悟はある。それに、君が思うほど周りは無理解でもないんだぞ。君のそういったやるせない感情は近藤さんや沖田だってきっと感じているし、皆どこかでそんな会社のありようを変えたいと願っている。諦める前に声を上げてくれないか。君の本心を伝えてほしい。それでも変わらないなら退職という判断も間違ってはいないと思う。けど、君はまだ何もしていない」
「……それは、そうかもしれないですけど」
「永倉君に足りないのはガッツだと思う。これを根性論みたいに考えてほしくはないんだけど、もし辞めたいなら辞めたいなりの気持ちを松平課長にぶつけるぐらいの気持ちでいなきゃだめだ。それじゃあ、ただ君が泣き寝入りして辞めるようなものじゃないか。悔いがないぐらいぐっちゃぐちゃにかき乱して退職するぐらいの気持ちでいた方が、きっとこの先も楽だと俺は思うぜ」
こんな言葉で永倉君に伝わったかはわからない。
けど、俺に言えるのはこれぐらいだ。
ただ退職したいと思う彼の感情を一方的に非難してもいけないんだ。
人の決断を止めるということは、俺自身もその発言に責任を持ち、動くということなのだから。
「すぐすぐに退職の手続きは取らないと思う。もし、言いたいことがあるんなら、一度でも会社に顔を出してくれないか? そん時は俺も、課長への直談判に一緒に付き合うぞ」
俺はそう言って笑いかけた。
永倉君は少し考えさせてくださいと言い、そこからは他愛もないようなどうでもいい会話をして解散した。