第72話 永倉君が退職代行サービスを使う
俺が相談を受けた日から斎藤さんが営業部に意識を持ち始めたのか、彼女の目線がこちらに向けられることが多くなった。
その目線に気がづくと、どうにも仕事がしにくい。
沖田もそれに気づいたようで、俺に向かって話しかけてきた。
「最近俺、斎藤さんとよく目が合うんですよね。めっちゃ熱い目線なんすよ。もしかして、斎藤さん、俺のこと好きなんすかね?」
これ以上なく緩みきった顔でそう尋ねる沖田は、本当に単純な男だと思う。
「それは壮大な勘違いだ」
いつものように現実を教えてやろうと俺がそうはっきり断定しても、沖田にそんな言葉が通用するはずもない。
次第に鼻歌を歌いながら始末書を片付け始めた沖田のその異様な光景を、松平課長が不審そうに睨みつけていた。
まともな社員なら普通そうなると思う。
それ以外は、概ねまともな日常を送っていた。
永倉君も仕事の態度はさておき、内容自体はしっかり覚えたようだ。
何よりも記憶力と理解力は早く、基本的には優秀な新人と呼んでも問題ない社員なのだが、その態度だけは直す気がないらしい。
彼は今の態度に問題があるという認識ではなく、むしろこの状況を理解できない会社側に問題があると主張しているようだった。
ある意味、肝が座っていると言える。
しかし、結果として最も恐れていた事態が訪れた。
永倉君が回った営業先からの苦情の電話だった。
仕事の覚えがいい彼だったので、比較的長い付き合いのあるルート営業には一人で回ってもらうことにしていたのだ。
大半は問題なかったのだが、確かに浮島食品加工会社は少し癖のある会社なのも事実だ。
浮島社長はすぐにうちの松平課長に苦情の電話を入れ、数時間もの説教をしたようだった。
その後、課長は永倉君を呼び出し、会議室で長々と何かを話しているのが見えた。
それが終わると、永倉君は無表情のまま席に戻ってきて、昼過ぎには早退したと知らされた。
松平課長はかなりご立腹だったようだ。
浮島社長の話がどこまで正しいかはさておき、永倉君に反省が見えなかったからだろう。
聞いているのかいないのか分からない態度で、ただ黙って座っていたらしい。
最後に一言、「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」と形式的な発言をして会議室を出ていった。
そして、昼休みに入ったタイミングで、「体調が悪いから帰らせてくれ」と告げ、そのまま帰宅したという。
松平課長は「ありまじき行為だ」と憤慨し、その指導係だった俺にも愚痴のような説教をこぼした。
俺だって永倉君の態度には問題意識を持ってはいた。
しかし、彼自身が一向に直そうとしないのだからどうしようもない。
子供ではないのだから、二十歳も過ぎた青年をこちらの思うように動かそうとする時点で間違っているのかもしれない。
松平課長は何度も「常識で考えて」とか「普通」という言葉を連呼した。
こういうところが、永倉君と松平課長の合わないところだろう。
なんとなく、永倉君がなぜ早退したのか分かった気がする。
きっと、芹沢課長だったら、また違った結果になっていたと思う。
俺は永倉君を気にしつつも、まだ終わっていない自分の業務に専念した。
しかし、問題はさらに深刻になっていく。
朝出勤して、俺よりも早く出社していた松平課長に早速呼び出され、とんでもないことを聞かされた。
「永倉が退職代行サービスを使って、退職の意思を伝えてきた。噂では聞いていたが、たった一回注意しただけで辞職する、しかもそれを自分の口ではなく他社に委託するなんて、今の若もんはどうなってんだ!」
松平課長の「今の若もん」という括り方が気になった。
この人は個人としては優秀だけれども、部下のサポートにおいてはあまり優秀とは言えない。
俺達の世代ではこういう上司が多いかもしれない。
だからこそ、永倉君のように仕事に対しドライな社員は、松平課長のような上司の下につくと簡単に辞めてしまうのだろう。
「こんなことで辞められても困る。せめて、辞めるなら俺の顔を見て言ってこいって永倉に言ってきてくれ」
「言ってきてくれって、永倉君はもう退職したのでしょう?」
俺がそう聞き返すと、松平課長は歪んだ顔で俺を睨みつけてきた。
「はぁ? 俺がそんなの認めるはずはないだろう。土方は永倉の指導係なんだから、仕事終わったらあいつの家に行って説得してこいよ。そこまでが、指導係の仕事だろう」
この瞬間、永倉君と同じ心境に陥った。
松平課長の言い分は、本当に理不尽だ。
しかも仕事帰りだなんて、それはもうプライベートの時間だろう。
そもそも、一平社員でしかない俺が、どうして新人の退職の責任を取らなくてはいけないんだ。
文句はたくさんあったが、何も言わずに「分かりました」と課長のもとを離れた。
そして、彼をどう説得すべきか、頭を悩ませるのであった。
答えが見つからないまま、俺は永倉君のマンションの前まで来ていた。
相変わらず立派なマンションである。
エントランスに入り、永倉君の部屋番号を押し、インターホンで呼び出した。
しかし、反応はなし。
留守なのかと思い、しばらくの間待つことにした。
きっと近くのコンビニでも行っているのだろうと思ったのだ。
しかし、待てど暮らせど来ない。
その間に何度かインターホンを押したが、やはり反応がなかった。
一度だけ反応があったように感じたが、一瞬で切れた気がする。
もう、これは居留守決定だろう。
腹が立った俺はウーバーイーツの配達員の後ろについてエントランスを抜け、直接、永倉君の部屋に向かった。
そこでインターホンを鳴らすが、やはり音が出ない。
あいつ、電源を切ってやがる。
ついに堪忍袋の緒が切れた俺は、玄関の扉を叩きながら叫んだ。
「永倉君!永倉!いるのは分かってんだぞ。出て来い!!」
まるで集金の取り立てかというほどの騒がしさで叫ぶと、耐えきれなくなった永倉君がチェーンをつけた状態で出てきた。
俺はその少し空いた隙間から足を挟み込み、手で抑える。
永倉君は複雑な表情で俺を見ていた。
「いい加減にしてくださいよ。なんなんですか。警察呼びますよ」
「居留守なんて使ってんじゃねぇよ。話ぐらいさせろ」
「嫌ですよ。部屋に入れたら、また僕を押し倒すんでしょ?」
「俺にそんな趣味はない!てか、そんなことをした記憶もねぇよ」
こいつは今でも花見で家まで送ったことに関して根に持っている。
どれだけ粘着質なやつなんだ。
「もぉ、分かりましたから手を離してください。家の中じゃなかったらいいですよ」
「なら、近くのファミレスはどうだ? そこなら晩ご飯食べながら話せるだろう?」
「いや、僕、もうウーバーで晩ご飯頼みましたから大丈夫です」
本当にこいつはどこまでも食えないやつだ。
「それにこの服装では外出できません」
その言葉を聞いて、改めて永倉君の服装を見る。
白いTシャツにゆるっとしたパンツ姿だ。
それに何の問題があるのだろう。
「別にそのままでいいだろう?」
俺の言葉に永倉君はさらに不快な表情を見せた。
「僕はそういうデリカシーがない人が嫌いなんです。これは家着なんですから、それで外出はできません。着替えてくるので待っていてください」
彼はそう言って、勢いよく扉を閉めた。
俺は唖然とした表情まま、しばらく玄関の前で立つしかなかった。