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第70話 大村さんにふられる

この日は7時には朝食を済ませ、8時半にはロビーに集合することになっていた。

朝食を急いで食べ終え、部屋に戻って混み合う洗面所で顔を洗っていると、歯磨きをしていた沖田が鏡に映る自分の顔を見ながら尋ねてきた。

歯ブラシを口に入れたまま話すので、口から泡が噴き出している。


「おふぇ、なんで顔が腫れ上がってるんすかねぇ?」


沖田が言うように、彼の頬は真っ赤に腫れ上がっていた。

それは、全く起きようとしない沖田を必死に起こそうとした俺たちの功労賞である。

揺すっても引っ張っても起きない沖田に困り果てた同室の俺たちは、昨日のいびきの復讐も兼ねて、顔に何度もビンタを浴びせたのだ。

それでやっと目が覚めるのだから、大したものだと思う。

これで起きなければ、強烈な蹴りを食らわせていただろう。

寝不足の恨みはなかなか根深い。



俺たちは荷物をまとめ、ロビーへ向かった。

すでに上司や女性社員、他の部屋の社員たちが集まっている。

ロビーに着くと同時に大村さんと目が合った。

彼女は恥ずかしそうに頬を染め、すぐに目線を逸らした。

全員が集まったのを確認すると、人事担当が今日の目的地について説明を始めた。

まずは全員で來宮神社へ。

その後は解散となり、自由行動だ。

4時半には熱海に再集合し、来た時と同じく在来線で帰路につくらしい。

俺たちは人事担当の指示に従い、荷物を手に來宮神社へ向かった。

旅館から來宮神社は案外近く、すぐに到着した。

なかなか立派な神社だ。

來福・縁起の神様でもあるそうで、女性社員たちが本殿で何かを必死に祈っているのが目に入る。

女性はこういうパワースポットが好きな人が多い気がする。

俺としては、神様の存在がどういうものかわかってしまった手前、どうも熱心にお願い事をする気になれなかった。

その後、解散となり、各自が集合時間までに自由に観光を楽しむことになった。

早速、近藤さんから誘われたが、その直後、少し恥ずかしそうな顔で立っていた大村さんに声をかけられた。

近藤さんは察しが良かったのだろう、「何かあれば連絡してくれ」と携帯を見せた後、沖田を連れて神社を後にした。

俺は大村さんと向き合ったが、緊張のせいか、しばらく何も話せなかった。

このままここにいても仕方ない。

俺は大村さんを海へと誘った。

海まで行けば、きっと何か話せるだろうと思ったのだ。



俺たちは住宅街を抜け、景色の良さそうな熱海親水公園へ向かった。

海沿いのデッキを歩きながら、他愛もない会話を繰り返す。

しかし、なかなか本題には入れなかった。

すると、潮風に髪をなびかせながら、近くの手すりに手をかけ、海を眺めていた大村さんが俺に話しかけてきた。


「……今日で最後にしませんか、私たち」


聞いた直後、俺はその意味が理解できなかった。


「もう、プライベートで会うのはやめましょう。以前と同じ、ただの会社の同僚に戻るんです」

「どういう意味ですか?」


俺はあまりに突然のことで戸惑う。

大村さん自らそんなことを言うなんて、何か彼女に嫌われるようなことをしたのかと不安になった。

すると、大村さんは何もかも悟ったような、弱々しい笑みを向けてくる。


「私が気づいていないと思いましたか? 土方さんの心がここにないことぐらい、昨日のキスで十分理解できました。どこかで期待していたんです。一緒にいればまた、土方さんの心が戻ってきてくれるって。でもだめでした。もう、あなたの心の中には私はいない……」


その言葉を聞いて、俺は何も言えなくなった。

だってそうだろう。

俺は彼女とキスをしようとしながら、思い出していたのは別の女性の顔なのだから。

けれど、それは俺が認めたくない真実だった。


「卑怯だって思いますよね。女の武器使って色気で好きな人を落とそうとするなんて。汚い大人のやり口だとは思いましたけど、それでも、あなたが欲しかった。卑怯な真似をしてでも、あなたが私を思ってくれるなら、それで良かったんです。でも、あなたはそれでも靡かないから、さすがに私も完敗です」


彼女はそう言って、泣きそうな笑顔で降参とばかりに小さく両手を上げた。

そして、次の瞬間、彼女の頬から涙が落ちる。

それを悔しそうに手で拭っていた。


「ああ、本当は泣くつもりなかったんです。潔くあなたに別れを告げて、今までの関係に戻りましょうと言うだけで良かったのに。それなのに私、今でもすごく悔しくて。やっと心から愛せる人が出来たんです。この人とならどんな困難でも乗り越えられるって思ったのに。今まで流されてばかりの人生だったから、こんなに自分で決断したのは初めてで……。でも、そういう時に限ってうまくいかない。なんでかなぁ」


彼女はそう言って、涙を流しながらも笑って見せる。

それが逆に痛々しかった。


「俺……」


謝ろうとした瞬間、大村さんに遮られた。


「謝るのはやめてください。私が決めたんです。私が、あなたを諦めるって決めたから、あなたから謝るのはやめてください。これ以上、私を惨めにしないで……」


彼女はそう言って、ついにその場にしゃがみ込み、泣き出した。

涙が止まらないのだ。

俺の口から自然にまた謝罪の言葉が零れそうになったが、それをぐっと堪える。

俺がここで謝っても意味がないのだ。

大村さんには全部気づかれている。

何を言っても今はただ言い訳にしかならないだろう。


「……多分、俺自身があなたとの関係を切りたくなかったんだと思います。あなたと過ごした時間が純粋に楽しかったから。でも、きっとこの感情は恋じゃない。だから、あなたの気持ちに答えられない。ずいぶん前から気づいていたのに、俺は言い出せなかった。いろいろと言い訳をつけて、関係を保とうとしたのは俺の方です」


大村さんには決して自分を責めてほしくなかった。

彼女をそこまでさせたのは、この優柔不断の俺なのだから。


「いつから俺が別の女性に惹かれたのか、自分でも自覚がないんです。気づいたら、彼女が気になっていた。けれど、きっとこの想いは届かない。そうわかっているから、大村さんの好意に甘えていたんです。本当の卑怯者は俺ですよ」


俺の言葉に大村さんはゆっくりと顔を上げた。

そして、涙を拭きながら情けない顔の俺に告げる。


「本当、土方さんはひどい人です。でも、そんな正直で不器用なあなたが私は好きだった。だから、せめて、この言葉は私の口から言わせてください」


一瞬、彼女の顔に光が差したように見えた。

目の縁に溜まった涙がキラキラと光り、悲しいはずの彼女の笑顔が、なぜか輝いているように思えた。


「さようなら」


その言葉はあまりにも悲しく、俺の胸を突き刺した。

それでも、俺はこの言葉を真正面から受け止めなければならない。

大村さんと別れた今、もう俺に、どんな言い訳も通用しないだろう。


そう、俺は市子のことが好きなんだ……。

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