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第68話 大人の恋に気づかされる

耳にかかる生暖かい吐息。

重なる肌から感じる柔らかさと温もり。

お風呂上がりのシャンプーの匂い。

鼓膜を揺らす、細かい息遣い。

全てが心をかき乱して、自分の平常心を保てていないのがわかった。

大人の恋愛は、学生の頃のようなプラトニックな関係ではいられない。

場の空気や雰囲気に流されることも、その流れに合わせて相手への気持ちを確かめることもあるだろう。

誰もがその瞬間の相手への気持ちを明確にできるわけではない。

これは恋なのか? 愛なのか? 情なのか? それとも性欲なのか?

感情が分からなくて、ただその時の感情で相手を受け止めることもある。

そこから生まれる愛だって確かにあるとは思う。

彼女の激しくなる心臓の音が、体全身から伝わってくる。

この時、俺を押し倒した彼女の思いが痛いほどに分かった。

俺の腕はゆっくりと、しかし微かに動き出し、彼女の頭を優しく捉える。

そして、間近な距離でお互いの瞳を見つめ合った。

彼女の瞳が揺れる。

でも、きっと彼女の答えは決まっている。

俺は少しずつ彼女の頭を自分へと近づけた。

お互いの吐息が顔にかかるほどの近さになり、あと数ミリで唇が重なりそうになった時、俺の腕は止まった。

その時、頭の中に巡ったのは、大村さんとの出来事ではなかったからだ。

最初は確かに彼女のことで頭がいっぱいで、初めて会った時のことや、彼女に憧れていたことを思い出していたのに、なぜか彼女とのデートで間違えて女子高生に告白した日のことを思い出した。

その瞬間から、俺の頭の中を巡ったのは市子の顔だった。

最初は険悪だった俺たちの仲も、次第に誤解が解けて緩んでいき、最後は優しい表情に変わっていった。

棘のある攻撃的な態度、高校生らしい生意気な態度、驚くほど大人びた態度、呆れた表情を見せる態度、気づかないほど小さく微笑む態度、そして少し切なく、それでいて色っぽい眼差しと指の感触。

こんな時に思い出したくなかった市子との記憶が次々に浮かび、消えない。

なんでこんな時まで俺は冷静なんだ!と心の中で叫んだ。

こういう時は、目の前のことで頭がいっぱいになればいい。

それが大人の恋ってやつだろう?

大村さんは俺の動きが止まったことに気づき、表情を険しくする。

そして、自ら俺の唇に自分の唇を重ね、強引に、そして濃厚なキスをした。

俺はその瞬間、頭が真っ白になった。

そうだ。

彼女にだって欲情はある。

目の前に好きな男がいて、こんなに近い距離にいて、こんなに体も心も許しているのに何もしてこなければ、もどかしいと思うのが普通だ。

本当に彼女は俺を愛してくれている。

求めてくれている。

それは嬉しい。

それなのにどうして、俺の体は動かないんだ。

ただ人形のように彼女の欲情を受け止めて、それでいて自らは動かない。

いつから俺はこんな薄情な男になったんだ。

大村さんは息をつくようにゆっくり顔を上げ、俺の顔を見つめる。

その時の俺の顔はどんなだったろうか。

頭が真っ白になっていた俺には分からなかった。


「土方さん?」


彼女は俺が無反応なことに気が付いて俺の名前を呼んだ。

彼女がもう息子のためにこんなことをしているわけではないのは分かる。

なら、俺は彼女の気持ちに応えるべきじゃないのか。

それなのに、体は動こうとしない。

あの時のように心も動かない。

まるで自分が自分でないようだった。

いつから俺は変わってしまったんだ。

すると次の瞬間、廊下から近藤さんたちの話し声が聞こえてきた。

彼らがこの部屋へ近づいてくるのが分かり、俺たちは慌てて体を離した。

そして、大村さんは急いで髪を整え、俺も立ち上がって乱れた服装を整えた。

そのタイミングで近藤さんが扉を開ける。

彼らの目に俺たち二人が映った瞬間、俺たちはごまかすように話し始めた。


「あ、ありがとうございました。助かりました」


大村さんはそう言って頭を下げる。

俺も同じようにお辞儀した。


「いえいえ、こちらこそ」


何がありがとうなのか分からなかったが、とにかくこの場をごまかしたかった。

彼女はいそいそと近藤さんたちの横をすり抜けて部屋を後にする。

近藤さんの目は明らかに何かを感じ取っている風だったが、沖田の方はさっぱり気づいていないようだ。


「土方さん、また女子社員に好感度上げようとしてるんでしょう? ほんと、隅に置けないっすねぇ」


言っていることはよく分からないが、沖田から見た俺は女子社員に人気を上げるために媚びを売っているように見えるらしい。

むしろ今はその方が好都合だ。

近藤さんはそれに関しては何も言わず、「そろそろ風呂の時間だぞ」と部屋の奥へと入っていく。

俺も慌てて部屋に戻り、風呂の準備をした。



「はぁ~、生き返るわぁ」


体を洗い、狭いが温泉に浸かった近藤さんが頭にタオルを乗せて呟いた。

本当に温泉は心を落ち着かせてくれる良薬だ。

そこからしばらく温泉を楽しんでいたが、近藤さんは俺を横目で見ながら尋ねてきた。


「それで、お前ら、いい感じに進んでいるのか?」


その言葉に驚いて、俺は咳き込んでしまう。

近藤さんにはいろいろとバレているようだ。

しかし、今の俺たちの状況をこの人に話していいものなのか悩む。

それに、何も分かっていないのに好奇心だけ高い沖田も興味津々で聞いている。


「別にそんなんじゃないですよ。プライベートでいろいろあったのは確かですけど……」


近藤さんは「ふぅん」と何かを含むような返事をした。

この人がどこまで理解しているのか分からなくて、怖い。


「ま、いいけどよ。所詮、俺たちには他人事なんだ。俺も馬に蹴られて死ぬのはごめんだからな」


近藤さんが言っていることを全く理解できない沖田が、懸命に「それはどういうことですか」と聞き返していた。

それをうっとうしそうに手で払い退け、近藤さんは再び俺の方を見て言った。


「しかし、そういうものはややこしいもんだからよ、中途半端にしていたら碌なことねぇぞ。男ならきっちりけじめつけて、堂々と前向いて生きられるようにしろよ」


それだけ言って近藤さんは早々に風呂を上がった。

そんな近藤さんを沖田が忙しなく追いかける。

俺だけが上がる事ができず、しばらくの間、風呂の中で今日の出来事について一人考えていた。



集団で宿泊するとなると、学生時代の修学旅行を思い出す。

消灯時間になってもみんななかなか眠らず、くだらない話で盛り上がるのだ。

途中で誰かが「女子の部屋に行かないか」なんて提案する奴もいて、どうして男子とは単純な生き物なんだと思ったものだ。

しかし、社会人になると、ましてや中年男性が増えてくると状況は全く変わる。

風呂から上がり部屋に戻ると、すでに布団が敷かれていて、各々が好きなことに勤しんでいた。

中にはすでに寝ている者もいる。

こんなに明るくて騒々しい中でよく眠れるものだと感心するほどだ。


12畳の和室に8人分の布団はなかなか手狭だ。

皆、相談なしに好きな布団を陣取り、座っている。

中には窓際に座ってコンビニで買ってきた酒とつまみで盛り上がっている奴もいたが、大半は一人の時間を自由に過ごしている。

女子並みのスキンケアをする者や、一人の時間に浸る者、そして家族に電話するために部屋を出る者など、どうも統制が取れていない。

俺も自分の荷物を持って空いている布団を見つけ、そこに座った。

そして、最低限の明日の準備をして、寝る体制に入る。

そのタイミングで沖田が俺に話しかけてきた。


「土方さん、土方さん、なんか修学旅行思い出しますよね、こういうの」


ああ、本当に修学旅行気分のお気楽な奴がここにいたな、と呆れて見てしまった。


「せっかくですから、恋バナしましょうよ。もう、うちの会社で未婚者なの、俺と土方さんぐらいなんですから」


なんで、おっさん二人で寝る前に恋バナだよ、とツッコミたかったが、気になったことがあり一言聞き返す。


「永倉君もいるだろう?」

「永倉は別っすよ。俺は認めてませんけど、女子的にはイケメンみたいだし、若いじゃないっすかぁ。俺は認めてませんけど」


「俺は認めていない」の言葉がやけに多い。

沖田は永倉君を相当意識しているようだ。

沖田にとっては自分と同じ若手ポジションと考えているのだろうが、沖田はもう若手ではない。


「ってか、恋バナなんてしねぇよ。お前は黙って寝てろ」


俺はそう言って布団に潜り込む。

しかし、沖田はしつこく俺に話しかけてきていた。

そのうち誰かが「寝るぞ」と声をかけて、電気を消した。

それでも一人、沖田が話し続けているので、社員の一人が布団の中から沖田に叫んだ。


「沖田、うるせぇ!」


おっさんの集団生活なんてこんなもんだ。

修学旅行より、部活の合宿に似ているかもしれない。

唯一気になったのは、部屋に着くなり自分の場所を確保し、みんなと離れて布団を敷き、風呂から戻ってから一言も会話をしていない永倉君の存在だった。

風呂に入った瞬間も見ていないし、消灯後も布団の中でずっと何かの動画を見ている。

そして、皆が寝静まったころに起き上がって部屋を出てから、しばらくの間帰ってこなかった。

彼はこの旅行を少しでも楽しめているのだろうか。

まあ、それを言うと俺も楽しめているのか分からないが、たまには誰かのいる部屋で寝るのも悪くはないと思った。

ただし、それは沖田のいびきを聞くまでの話だ。

寝静まったタイミングで沖田の壮大ないびきに全員がため息をもらす。

中年にもなれば、いびきをかくことは珍しくないが、それにしても沖田の音はうるさい。

あまりのうるささに誰かが眠っている沖田を力いっぱい蹴り飛ばしていたが、彼は一度も起きなかった。

きっと明日は全員寝不足になるだろう。

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