第66話 将君が両親に自分の考えを打ち明ける
将君が落ち着いたのを見計らい、俺たちは大村さんの家へ向かった。
本音を吐き出せたからか、彼の表情は少しすっきりして見えた。
マンションに着くと、エントランスの前で男女が言い争っているのが目に入った。
何事かと警戒し、俺は将君を自分の後ろに隠した。
「勝手なこと言わないで!あなたと離婚した時にも言ったはずよ。別れるのは好きにすればいいけれど、将だけは絶対に渡さないって!」
怒鳴り声を上げていたのは、意外にも大村さんだった。
彼女と話しているのは、将君の父親である大鳥さんだ。
「あの時も納得したわけではない。お前に教育できる経済力があると判断したから、仕方なく引き渡したんだ。だが、今はどうだ?母親の介護と弟の借金返済で手一杯じゃないか。あいつを育てる余裕なんてないだろう」
その言葉に大村さんは一瞬息をのんだが、すぐに強い口調で言い返した。
こんな強気な大村さんは、俺は初めて見た。
「確かに母の介護で今は手を焼いているけれど、来月には近くの老人ホームに入れることになったから問題ないわ。弟の借金だって、本人が時間がかかっても返すって言っているの。あなたにとやかく言われる筋合いはない!」
すると大鳥さんは鼻を鳴らして答える。
「そんなこと信じられるものか。去年もそう言って、結局延期になったじゃないか。弟の返済だって、ただの口約束だろう。どこまで信用できるかわからん」
「もう入居先は決まっているの。去年はいろいろあってうまくいかなかったけど、今回はもうあんなことはないわ。それに今は弟も実家に戻ってきて、母と一緒に暮らしてくれている。仕事もあるから全ては任せられないけど、二人でやっていけば、今まで通り、将と問題なく生活できる」
「弟の収入も多くはないんだろう?それで今まで滞っていた借金が片付くとは思えん。私は昔からお前の弟が好かなかったんだ。いい加減で素行も悪くて、家族に迷惑しかかけられないろくでなし。あいつがいる限り、お前も将も幸せにはなれんのだよ。だから、将は俺が引き取る。家には妻もいるし、実家の母も協力を惜しまないと言ってくれている。お前が育てるよりも俺が面倒を見た方がよっぽど将のためになるんだ。それをどうしてお前はわからない!」
わかるはずがないだろう、と俺はつい他人事でありながら叫びたくなった。
しかし、その前に大声を上げたのは俺でも大村さんでもなく、俺の後ろに隠れていた将君だった。
「僕はあなたの家には行かない! 僕はずっと母さんと一緒にいるんだ!」
将君のその姿は、もうあの冷めきった大人の顔をした少年ではなく、芯の強い、成長した少年の姿だった。
二人も驚き、こちらに振り向く。
そして、大村さんは後ろにいた俺にも気が付き、視線を向けた。
「お前は黙っていなさい。これは子供が口を挟むような話じゃないんだ。これはお前の将来にかかわる大事な話だ」
その言葉に俺は我慢の限界を超えてしまった。
「何が子供が口を挟むような話じゃない」だ。
これは将君本人の話だろう。
俺は彼の意見を無視して、大人だけで彼の将来を決めるこの父親が許せなかった。
「それはあまりにも一方的じゃないですか? 彼はもう立派な意思を持った一人の人間なんですよ。そんな彼が母親と一緒に暮らしたいと懇願しているのに、どうしてそれを無視するんですか?」
その言葉でやっと大鳥さんも俺の存在に気が付き、怪訝な顔で睨みつけてきた。
まるで下等なものを見るような軽蔑した眼差しだった。
「君は早苗の恋人か? 部外者は引っ込んでおいてくれ」
「土方さんは部外者なんかじゃない! 僕と母さんの大事な人だ」
大鳥さんに最初に反抗したのは将君だった。
俺はそんな彼の言葉に救われた気持ちがした。
大村さんにとってだけでなく、今では彼にとっても俺は必要な人だと言ってくれているのだ。
彼はもう、俺が大村さんの恋人でないと認識している。
それでも俺を受け入れてくれているのが嬉しかった。
「何を言っているんだ、お前は! この男に何を吹き込まれたかは知らないが、こいつは赤の他人なんだぞ。家族の話に首を突っ込んでいい立場じゃない」
「なら、他人じゃなければ、血が繋がっていれば、何をしても許されるの?」
将君の言葉に大鳥さんは一瞬硬直する。
こんな反抗的な態度、一度も見たことがなかったのだろう。
「そんなこと言っていないだろう」
「言っているよ。父さんはいつもそうだ。いつも僕や母さんの気持ちなんて考えずに、自分の考えを押し付けてくる。僕の幸せは僕が決める。そんなの、たとえ実の父親だって、決められたくない!」
その言葉にかっとなった大鳥さんは足早にこちらに近づいてきて、将君の目の前で掌を振り上げた。
彼は驚き、目をつぶり固まる。
その間に俺が入り、大鳥さんの腕を掴んだ。
「それは立派な暴力ですよ。子供に気に入らない発言をされたからって、それを暴力で解決しようなんて、父親として最低な行為です。俺はそんなあなたが、彼の保護者として相応しいとは思えません!」
俺は彼の目を見て、はっきりと答えた。
彼はその殺気立った目を逸らし、息をついて背を向けた。
そして、大村さんの方へ戻って一言告げる。
「今日は保留だ。また連絡する」
彼はそう言って、マンションの前を通り過ぎ、道の向こうへと消えていった。
彼が見えなくなったタイミングで、大村さんは力が抜けたのかその場で座り込んでしまった。
そんな彼女に将君が駆け寄る。
「母さん!」
大村さんは泣きそうな顔で近づいてきた息子を強く抱きしめていた。
「ごめんね。大丈夫だから。お母さんはどんなことがあっても将を手放さないからね」
彼女の決意の強さを感じる。
将君は彼女の胸の中でわんわんと声を出しながら泣いていた。
「なんだ、年頃らしい態度も取れるじゃないか」と、つい微笑ましくなる。
俺はそんな二人の邪魔にならないようにと、静かにその場を後にした。
後日、大村さんから改めてお礼とお礼の品をもらった。
「そこまですることはない」と遠慮しようとしたが、彼女はすっきりした顔で答えた。
「もらってください。私にできないことを、土方さんがやってくださったのですから。もし、あなたがいなかったら私たち、本当に離れ離れになっていたかもしれません。それに将の本音も聞けた。それが何よりも嬉しかったんです」
彼女はそう言って微笑んだ。
もう、あの不満そうな顔をした彼女はどこにもいない。
翌日には無事に彼女の母親も施設に入ることができ、面倒は弟と一緒に見ているそうだ。
大鳥さんが気にしていた弟の借金だが、ひとまず実家を売ってお金を払ったらしい。
残りのお金は弟が責任持って返すと約束したと聞いている。
いろいろあったけれど、なんとか一件落着して、俺も安堵していた。
そんな明くる日、社内でこんな話が浮上した。
「今年は久しぶりに社員旅行を行いたいと思います。皆さんから少しずついただいていた費用も集まりまして、熱海に一泊二日の温泉旅行としたいと思います。今年は新入社員も入ったことですし、ここは親睦を兼ねて楽しみましょう」
それは人事部からのお知らせだった。
そういえば任意ではあったが、社内レクリエーションのために給料の一部が回収されていたのを思い出した。
今更、社員旅行なんて行きたいとも思わなかったが、せっかくの金がもったいないと思い、参加することにした。
その時、ちらっと大村さんと目が合う。
最初は将君のいる大村さんは辞退すると思っていたが、どうやら弟が面倒を見てくれることになったらしく、参加するようだった。
俺の後ろでは嬉しそうな声で沖田が騒いでいる。
「社員旅行なんて何年ぶりですかね!楽しみっす!!」
沖田の言葉を聞いて、俺はなんだか不安しか浮かばなかった。