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第65話 俺の後悔を将君に伝える

確かに将君の言うように、俺が大村さんの告白を受け入れて結婚すれば、解決することもあるのかもしれない。

大村さんの仕事の負担も減らせるし、介護や育児にも今よりは専念できるだろう。

でも、俺はそれでいいのか?

今、同情心から彼女を受け入れ、この家族と生きていくことが正解なのか?

そして、将君にとってもそれが正しいのだろうか?

俺の心の中に、「それは何か違う」と叫んでいる。

俺はゆっくりと深呼吸をして、出来るだけ冷静になるように努め、まっすぐ将君を見据えて答えた。


「……ごめん。それはできない。そんな理由で俺は大村さんと結婚できない」

「なんで!?」


将君は驚きを隠せない様子だった。

それも当然だ。

小学校の彼に俺が拒む理由なんてわかるはずもない。

でも、恋愛ってそんな単純なものじゃないだろう。

家族になるってそんな簡単なことじゃない。

しかし、それを彼にどう伝えればいいのかわからない。


「君の申し出は、俺に同情で彼女と結婚してくれと言っているのと同じだ。確かに俺は大村さんを慕っているし、助けてやりたいとも思っている。けれど、だからといって結婚することが二人の幸せに繋がるとは思わない」

「……全然わからない」


将君は不満そうな顔で俯き、口を尖らせて言った。

それが正直な気持ちだろう。


「君はいいのか?それは俺が君の父親になって共に暮らすってことなんだ。血も繋がらない、君とは何の縁もなかった俺が君の家庭に入る。その意味は分かるよね?」


その言葉を聞いて、彼は一瞬黙り込んだ。

彼は賢い少年だから、今までだって想像していたはずだ。

それでも、本人から直接言われれば、きっとその重みは変わってくるだろう。


「構いません。それで母さんが楽になるなら……」


将君は俺の予想通りの返事をした。

だからこそ、俺はそれが正しいとは思えない。

俺は彼を傷つけないようにと、精一杯優しい言葉で告げた。


「将君、自己犠牲で人を幸せにすることはできないんだよ。その相手が君を思えば思うほど、相手の我慢で願いを叶えたって、心から喜ぶことはできない。君が俺を受け入れようとしているのは、君が俺を父親にしたいからじゃない。一緒に生活したいからじゃない。君の大好きなお母さんに幸せになってほしいから、それだけなんだ。それじゃあ、大村さんだって気持ちよく受け入れられないよ。それに、もし俺が大村さんの今の状況を解決するために結婚を選んだとしたら、彼女はどう思うだろう?」


将君は少し悩んだように俺の顔を見たが、すぐに答えられなかった。

しかし、たどたどしくも必死で答えようとしていた。


「なら、僕はどうしたらいいっていうんですか!? このまま母さんの辛い状況を黙って見ていろというんですか!?」


それは強い口調だった。

彼が段々と興奮しているのが分かった。

とにかく彼は今の状況をどうにかしたいと懸命なのだ。


「君はまず、自分に素直になるべきだ。自分の心と向き合って、君の本心を知らなきゃならない。そして、その本当の気持ちをお母さんにも話してごらん。きっとそれが一番彼女のためになる」

「……そんなの、嘘だ……」


将君は信じられないといった表情で俯いていた。

俺だって自分が小学生の時のことを思い出せば、俺の言っていることが理解しがたいことは分かっている。

それでも俺は伝えようと思った。

これは俺自身の後悔の話なのだから。


「……将君、俺には、ずっと後悔していることがある。どんなに後悔しても、もうやり直せないこと。なぜなら、伝えたい相手はもう三年前に亡くなってしまったからね。伝えたくても伝えられなくなってしまった……」

「それは誰ですか?」


将君は興味を持ったのか、若干の好奇心を映した瞳で俺を見つめてきた。


「俺の母親だ」


その言葉に、将君は再び口を噤んだ。


「俺の母は不器用な人でね、俺はあの人から直接的な愛情表現をされたことがないんだ。俺の世話は基本的に三つ上の姉がしてくれていたし、離婚後は祖父が俺たち兄弟の面倒を見てくれた。あの人は離婚してから、まるで抜け殻のようになってしまって、会話すらままならなかったよ。唯一祖父の話は聞いていたようだけど、毎晩、夫を思って泣いているような人だった」


俺は今でもその時のことを思い出すと胸が苦しくなった。

母が死んだ今でも俺は母に囚われている。


「父は毎晩のように母を殴っていた。父は臆病な人でね、外で嫌なことや不安があるとそれを家で母にぶつけていたんだ。俺はそれを見るのが本当に嫌だったよ。でも、幼かった俺はただその場から逃げることしかできなくてな。母が父と別れると決断した時は、安堵したけれど、でも結局母は変わらなかった。父がいなくなったらいなくなったで、寂しさから酒を飲むようになってね。母も弱い人だったんだなって思ったよ」


将君は黙って俺の話を聞いていた。

小学生には刺激の強い話だったかもしれない。

彼の父は俺の父のように直接的な暴力は振るわなかっただろうけど、きっと言葉の暴力は大村さんに散々浴びせてきたのだろう。

それを見てきた将君は俺と同じように辛かったはずだ。

俺には姉がいた。

しかし、彼は一人だ。

きっと、この辛さを一人で抱えてきたんだと思う。


「大人になって自覚するよ。俺はもっと母親に関心してほしかったんだって。俺のことをもっと見て、知ってほしかった。でも、それを最後まで母親に伝えることはできなかったよ。ただ一言、俺のことも見てほしいって言えばよかったのにな。言えないまま何年も経って、気がつけば俺はこんな年になって、母も病気で他界した。いつかは言える、いつかは伝わるってずっと信じていたんだ。でも、その願いが叶うことは二度となかったよ。俺は将君に俺と同じような後悔をしてほしくない。お母さんに本音を言えないまま、一生を過ごしてほしくないんだ」


その話を聞き終わった将君の表情は複雑そうだった。

唇を噛み、じっと何かをこらえているように見えた。

そして、声をかすらせながら話し出す。


「僕はただ……」


そして再び言葉が詰まる。

俺はそんな彼を優しく見つめた。


「将君、本当はずっとお母さんと一緒に暮らしたいんじゃないのか? そばにいたいんだろう?」


その言葉で彼は顔を上げる。

その目は今にも涙が零れそうなほど潤んでいた。


「もう、我慢しなくていい。お母さんが辛そうだからって、君が堪えなくていい。大事なのは自分の本当の気持ちをお母さんに伝えることだ。それだけで、お母さんは救われるんだよ」


気がつけば、将君の頬は涙で濡れていた。

必死で堪えようとしているのに堪えられない様子が分かった。


「……僕は……僕は、母さんと一緒にいたい。父さんとなんて暮らしたくないよ。けど、もうこれ以上、母さんが苦しそうな顔をしているのが見ていられないんだ。母さんが辛いと僕も辛いから……」


俺はこの時、やっと将君の本音を彼の口から聞けた気がして、ほっとした。

きっと大村さんが聞きたいのは、母親をねぎらう優しい言葉なんかじゃない。

将君の本当の気持ちなんだ。

大村さんにとって将君の「大好き」という感情が何よりも原動力になる。

だって、これまで彼女が頑張ってきたのは、全て息子のためなのだから。

俺はそんな彼の頭を優しく撫でようとした。

まずは自分の気持ちと向き合えた彼を褒めてあげたかったから。

しかし、その瞬間、周りからの冷たく鋭い目線を感じた。

どうやら、俺がいたいけな少年を泣かせているように見えたのだろう。

差し出し始めた手を引っ込めて、ひとまず将君が泣き止むまで黙って待つことにした。

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