第63話 大村さんの息子が失踪する
仕事を終え、会社を出た瞬間、スマートフォンがけたたましく鳴った。
何か忘れ物でもしたのかと思い、何気なく通話ボタンを押すと、スピーカーから聞こえてきたのは、まるで怯えているかのような、大村さんの震える声だった。
微かに鼻をすする音も聞こえる。
只事ではないと感じ、俺は無意識に携帯電話を耳に強く押し当てた。
「大村さん? 一体どうされたんですか?」
明らかに動揺している大村さんに、俺は必死に呼びかけた。
彼女は乱れた呼吸の合間にも、懸命に言葉を紡ごうとしている。
「……将が、将がどこにもいないんです!」
「将君が!?」
信じられない事態に、俺の心臓も早鐘のように打ち始めた。
「家に……、家に帰っても将がいなくて、連絡もつかないんです。児童館にも電話したんですが、ずいぶん前に帰ったそうで……。まさか、将は誘拐でもされたんでしょうか? すぐに警察に連絡すべきでしょうか?」
大村さんの声は完全に混乱していた。
俺はまず彼女を落ち着かせようと、冷静な声で話しかけた。
「大村さん。焦る気持ちは分かります。ですが、一度落ち着いてください。将君は携帯電話を持っていますか?」
「持っているはずです。でも、電源が入っていないのか、何度かけても繋がらなくて……。GPSで居場所も調べたんですが、それも分からなくて。私、一体どうしたら……」
電話の向こうから、抑えきれないすすり泣く声が聞こえてくる。
これはもう、彼女一人で解決できる状況ではなかった。
「分かりました。今すぐそちらに向かいます。大村さんは今、どちらにいらっしゃいますか?」
俺は冷静さを保つため、深く息を吸い込み、彼女に尋ねた。
まずは合流して状況を詳しく聞き、その上で警察に連絡するかどうか判断するべきだと考えたのだ。
今の彼女の状態では、最善の行動が何なのか見当もつかないだろう。
「わ、私は、家の近くの公園にいます」
「そうですか。では、大村さんは一度ご自宅に戻っていてください。俺は今からタクシーでそちらに向かいます。それから二人で、もう一度将君を探しましょう」
「で、でも……」
大村さんのためらうような声が聞こえ、俺は以前大村さんに言われた言葉を思い出して答えた。
「困った時はお互い様だって、そう言ったのはあなたですよ。今は俺を信じて、頼ってください。俺だって、将君のことが心配なんです」
俺の言葉に、ようやく納得してくれたのだろう。
「待ちます」と、彼女は力なく返事をして電話を切った。
俺はすぐにタクシーを拾い、大村さんの家へと急いだ。
大村さんの自宅に着くと、彼女は顔面蒼白で今にも倒れそうな様子だった。
俺は「失礼します」と声をかけ、部屋に上がらせてもらい、まず大村さんをソファーに座らせた。
彼女が少し落ち着くのを待って、詳しく話を聞いた。
「将君が帰ってきていないことに気づいたのは、何時ごろですか?」
「たしか、私が帰宅した八時過ぎだったと思います。いつもなら、もうとっくに将は家にいる時間帯で、児童館も基本は六時に閉まりますから」
「将君が一度家に戻った形跡はありますか? ランドセルが置いてあるとか、何か食べた様子とか」
大村さんは俺の問いにゆっくりと首を横に振った。
「ありません。部屋の中を見ても、今日家を出た時のままでした。すぐに児童館に電話して、将がいつ帰ったか確認したんです。そうしたら、いつも通り六時前には児童館を出たとのことでした。帰宅途中、あの子が今まで道草をしたことも、電話に出なかったことも一度もなかったんです。だから私、もうどうしていいかわからなくて。児童館からの帰り道で、誰かに襲われたんじゃないかと不安なんです」
大村さんの不安な気持ちは痛いほどわかる。
しかし、今の状況で誘拐や事件に巻き込まれたと考えるのは、まだ早計な気がした。
それでも、親ならそういった心配をするのは当然だろう。
「何か怪しい連絡はありましたか? 非通知の電話や、知らない番号からの電話など」
「そういったものはありません。それに、家の近くで事件や事故があったという話も聞いていません」
俺は顎に手を当て、必死に考えを巡らせた。
連絡がないということは、身代金目的ではないのか。
あるいは、将君自身が何か理由があって家に帰っていないのか。
それにしても、なぜ彼は携帯電話の電源を切っているのだろう。
「今日の朝までに、将君に何か変わった様子はありませんでしたか? 他に、彼が寄りそうな場所や、気にしていたことなどはありませんか?」
大村さんも俺にそう聞かれ、再び懸命に記憶を辿っていた。
もしかしたら、その中に何か手がかりがあるかもしれない。
もしなければ、本当に警察に連絡するしかないだろう。
「……わかりません。最近、何かおかしい感じはしていたのですが、それが何だったのか、私にもはっきりとは思い出せなくて。将からも何も聞いていません」
そういえば、以前動物園に行った時も、大村さんは将君が最近元気がないと心配していた。
俺に何か思い当たることがあるとすれば、将君が彼の父親と会っていたことだろうか。
もしかしたら、大村さんはそのことを知らないのかもしれない。
ここは黙っているべきではないと思い、以前帰り道で将君と彼の父親に会ったことを話そうとした。
その時、俺のポケットに入れていたスマートフォンが再び鳴り出した。
電話を無視して大村さんに話すことを優先しようとも思ったが、どうしてもその電話が気になり、画面を確認した。
見慣れない電話番号だった。
しかし、このタイミングで知らない番号からかかってくることに違和感を覚え、俺は一旦席を立ち、廊下に出て電話に出た。
「……もしもし」
俺は少し緊張して、声が震えていたかもしれない。
数秒の沈黙の後、消え入りそうなほど小さな声が聞こえてきた。
「……土方さん、僕です」
「――っ!?」
それは確かに将君の声で、思わず大声を上げそうになったが、隣の部屋に大村さんがいることを思い出し、慌てて口を押さえた。
そして、少し扉から離れ、小声で答えた。
「将君、今どこにいるんだ? お母さんもすごく心配しているんだぞ」
「わかっています。でも、今は母さんの顔を見れないんです」
「そうは言ったって……」
「だから、土方さんと二人で話がしたいんです。母さんにはまだ言えない。悲しそうな顔を見たら、僕はまた決心が鈍ってしまいそうで」
彼に一体何があったのだろうか。
そう思ったが、ここでは深く聞くのはやめた。
それよりも今は、将君の無事が何よりも心配だった。
「わかった。今から君がいる場所に行くよ。だから、今どこにいるか教えてくれるか?」
彼は数秒間黙っていたが、その後ゆっくりと話し始めた。
「駅前のコンビニの前にいます。今は一人です」
「今すぐ行く。君はコンビニの中で待っていてくれ。もし店員さんに何か聞かれたら、お父さんが迎えに来るから、そこで待たせてもらうように言えるかな?」
「わかりました。お願いします」
彼はそう言って電話を切った。
俺は急いで大村さんのいる部屋に戻った。
そして、不安そうな表情の大村さんを見て言った。
「将君から電話がありました」
その言葉を聞いた瞬間、大村さんは一瞬動きを止めた。
しかし、すぐにソファーから立ち上がり、俺の目の前に駆け寄って、声を上げた。
「将は? 将は今どこにいるんですか!?」
「駅前のコンビニです。今から、俺が迎えに行きます。大村さんは自宅で待っていてもらえますか?」
「いえっ! 私も行きます!」
俺は必死な表情の大村さんの肩を掴み、小さく首を振った。
「大村さんはここで待っていてください。将君と会ったら、必ず連絡しますから。少しだけ、彼と二人で話をさせてください」
「話って……」
何か言いかけた大村さんだったが、すぐに何かを察したのか、黙って俺から離れた。
そして、険しい表情のまま床を見つめ、自分の腕を強く抱きしめていた。
「……わかりました。将をお願いします」
彼女はそう言って顔を上げないまま、ソファーに座り直し、小さくため息をついた。
そんな大村さんの姿を見て、胸が締め付けられるようだったが、今はこうするしかなかった。
「行ってきます」と小さな声で伝え、俺は大村さんの家を飛び出し、将君がいるコンビニへと急いだ。