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第62話 大村さんが心配になる

大村さんの元旦那である大鳥さんに話を聞いてから、俺はずっと大村さんのことが気になって仕方なかった。

仕事中にもかかわらず、気が付けば彼女を目で追っている。

彼女のことを思うと、何かしてやりたい気持ちになるが、まだ直接彼女から事情を聞いたわけではない。

将君のこともあるし、あの時のことを話してもいいのかも迷っていた。

できれば、彼女の口から家庭の事情や悩みを明かしてほしかったが、彼女が簡単に自分の弱音を他人に吐くような人でないことは分かっている。

だからきっと、俺が尋ねるまで彼女が事情を話すことはないだろう。

だからこそ、余計にもどかしかった。


「――さん」


耳の端で微かに声が聞こえた。


「土方さん、聞いてますか?」


そこに立っていたのは永倉君だった。

彼は不愉快そうな顔で俺を見下ろし、仕上げた報告書を突き出している。

大村さんにばかり気を取られていたので、永倉君の存在に気がついていなかったのだ。


「悪い……」


俺はひとまず謝って資料を受け取ると、永倉君は相変わらずむすっとした顔で自分の席に戻った。

そして、乱暴に椅子に座ると、パソコン画面を見ながら俺に話しかけてきた。


「今日のタスクはこれで終わったので、僕は定時で帰ります。だから、この間みたいに突然、急ぎの仕事を頼むとか、なしにしてくださいよ」


彼はそう忠告して、再び仕事に戻った。

彼が不愛想なのは入社当時からだが、以前にも増して機嫌が悪いのは、おそらく花見の夜に起きたことが原因だろう。

あの日、永倉君は周りの先輩社員から散々挑発され、泥酔するまで飲まされていた。

そして、帰る頃には熟睡しており、一人では帰れない状況だった。

おかげで、誰が永倉を家まで送るかで、周りの社員の押し付け合いが始まってしまった。

俺もあの日は朝から場所取りで疲れていたし、さらに大村さんからの二度目の告白で頭も混乱していたため、早く家に帰りたかった。

それなのに、俺と永倉君の関係を勘違いした並木が、気を利かせたつもりで俺が送っていくことを推奨したのだ。

お陰で周りからの押し付けも俺に集中し、やむなく送る羽目になった。

最後に「良かったね」というメッセージを込めたウィンクを並木から飛ばしてきたが、腹が立ちすぎて完全に無視した。

泥酔した永倉君を無理やりタクシーに押し込み、彼の自宅まで送った。

自宅の場所はなぜだか人事部の課長が覚えており、運転手にそのままその住所を伝える。

到着した瞬間、俺は愕然とした。

去年まで学生で、俺よりも低収入のはずの新入社員が、随分立派なマンションに住んでいたからだ。

共同玄関にはオートロック。

大きなエントランスには宅配ボックスまでついていて、当然エレベーター完備。

俺なんて築40年は越えている二階建て木造アパートだというのに、この差は何なんだといいたい。

去年まではどうせ、親の仕送りでのうのうと生きていたのだろうから、仕方がないとはいえ、そんなやつを俺の自腹でタクシーに乗せ、ここまで送り届けなければならない状況に、不満を抱かずにはいられなかった。

このままその辺の道に放り投げて帰っても良かったが、さすがにここではよそ様の迷惑になるだろう。

身体を揺すって力づくにでも起こそうとしたが、唸るばかりで反応しない。

仕方なく、彼の荷物の中から鍵を探し出し、それでマンションの中に入った。

部屋番号は聞いていたのでエレベーターで五階まで上がり、部屋の中まで送り届けた。

玄関に座らせても起きず、このまま風邪でも引かれたら、また俺のせいにされるだろうと思い、やむを得ずベッドまで彼を運んだ。

そして、帰ろうとしたタイミングで彼は急に起き上がり、口を手で押さえてトイレに駆け込んだ。

トイレから激しい嘔吐が聞こえたので、さすがに俺も心配になり、彼が楽になるまで解放する羽目になった。

それにもかかわらず、彼が落ち着いて正気を取り戻したタイミングで、突然俺に罵声を浴びせてきたのだ。


「なんで土方さんが僕の家に上がり込んでいるんですか! 信じられません!! 僕は一度だって自分の部屋に他人を入れたこともないのに、最悪です」


彼はそう言って、今すぐにでも家を出るように叫び出した。

俺は言いたいことも言えずにとりあえず家を出た。

こんなところまでわざわざ送り届けさせられた挙句、こんな非難までされるとは憤慨せずにいられなかったが、その日はとにかく早く帰りたかった。

何も言わずマンションを出て、大通りに出るとそこでタクシーを捕まえて帰ったのだ。

怒りたいのは俺の方なのに、なぜか翌日から永倉君は俺以上に不機嫌だった。

そして、大鳥さんに会ったあの日に続く。

大鳥さんから言われた大村さんの事実があまりに衝撃だったため、課長への口実合わせのために永倉君に頼まれていたお土産を忘れたのだ。

一応謝ったのだが、彼はまだ根に持っているらしい。

やはり、新入社員の指導係なんて引き受けるんじゃなかったと改めて後悔した。

そして、俺と同様に新入社員に苦労している社員がもう一人いる。

オフィスの奥の方から絶えず怒号が飛び交う声。


「誰だ! 紙が溢れるまで印刷機にかけているやつは! この資料、こんなに要らないだろう」

「ちょっと、お茶葉のストックないけど追加注文してるの?」

「おいおい、誰だぁ? メールの転送先を間違えて送った奴は。先方からお怒りメール来てるぞ」

「この資料の数字、一桁多いぞ。これはどうなってんだ!?」


その度に慌てて大村さんが駆け寄り、確認しに行く。

恐らく全て、新人の斎藤さんの仕業だろう。

本人も完全にパニックを起こしている。

お陰で何かある度に大村さんは周りの社員にぺこぺこと頭を下げていた。

そして、大村さんが再び斎藤さんに目を向けると、彼女は混乱し、何かをシュレッターにかけていた。

それを見た大村さんが慌てて止めに入る。


「斎藤さん! それシュレッターかけちゃだめな書類よ!!」


斎藤さんもそれに気が付いて、更に慌てふためいていた。

どうやらあちらは俺のところ以上に大変なことになっているようだ。

書類は既に半分以上切り刻まれていて、どうしようもない状況になっていた。

最初はさすがに皆、新人なのだからミスはあると大目に見てくれていたが、最近ではそうもいかなくなってきた。

大村さんの苦労が手に取るようにわかった。

俺も何とかしてやりたい気持ちはあったが、自分自身が新入社員の指導で手一杯だったし、事務の仕事は管轄外で俺もよく知らないのだ。

同情したくても、彼女になんて声をかけてあげればいいのかわからなかった。



夕方過ぎに休憩がてら煙草を吸おうといつもの場所に向かうと、そこには既に誰かがベンチに座っていた。

よく見るとそれは大村さんだった。

あのいつもニコニコとしている大村さんが、背中を丸め、床を見つめるようにして椅子に座る姿は珍しく、俺は心配になる。

驚かさないようにそっと近づいて、声をかけた。

すると彼女はゆっくり顔を上げ、俺の顔を見上げる。

その頬には一筋の涙が零れていた。

その瞬間、俺は絶句してしまう。


「あ、すいません。煙草、吸いますか?」


彼女はそう言って、涙を袖で拭い、席を立ち上がろうとする。

俺はそれを慌てて止めた。


「いや、大丈夫です。大丈夫ですから、大村さんはもう少しここで休んでいってください」


俺のその言葉に戸惑う大村さんだったが、小さく頷いて再び座り直した。

俺は落ち着かなくて、目の前の自動販売機の前に立ったが、何を選んでいいのかわからず、人差し指を上げながら固まっていた。

それに気が付いた大村さんがくすくす笑いながら、俺に話しかけてくる。


「飲み物、買うつもりなかったんでしょ?」


図星で、俺は恥ずかしくなって頬を掻き、彼女の方へと振り向いた。


「ばれました?」

「だって、お財布も取り出さないまま悩んでいるんですもの」


彼女はそう言って再び笑う。

確かにとその時、自分の不自然な行動に気が付く。

すると今度は大村さんが席をずらし、座面を叩いて、横に座るように俺を促してきた。

俺は少し照れくさかったが、黙って静かに従った。

今は彼女の気持ちを何よりも優先したかったからだ。

俺は若干緊張していたと思う。

いつもは猫背になる背中をピンと伸ばして、太ももの前に拳を乗せていた。

そんな俺の肩に、こつんと何かがぶつかる感触がした。

俺は自分の肩に目を向けると、大村さんが俺に頭を預けて寄り添っているのが分かった。

まさか、大村さん自ら甘えて来るとは思わず、俺の頭は混乱する。

しかし、次の瞬間、彼女の弱々しく掠れた声を聴いた瞬間、俺の緊張と混乱は一気に収縮された。


「今だけ……。今だけ、こうさせてください」


彼女の思いを汲み取るように、俺は何も言わずただ大村さんに肩を貸した。

こんなことで彼女が少しでも癒されるなら、俺の肩なんていくらでも貸しても構わない。

ただ、彼女の辛さの全てを担ってやれない自分に歯がゆい思いがしていた。

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