第60話 町中で将君が謎の男と歩いていくのを見つける
その後も、大村さんとは幾度かデートを重ねた。
最初は軽いランチやお茶など気軽なものだったが、俺たちの関係は少しずつだが深まっているのを感じた。
彼女といる時間は楽しかったし、彼女の作る穏やかな空間に癒されているのを感じる。
いまだに俺が彼女を女性として愛しているのかどうかは分からなかったが、今ではこういう関係を続けて、最終的には親密な関係になってもいいと思うようになっていた。
それが自然な流れなんだと自分に言い聞かせていた部分もあったと思う。
その日、大村さんは「お弁当を作ってきたので、一緒に食べませんか」と、いつもの外でのランチではなく、川縁の広場に俺を誘った。
会社の人に見つからないよう、少し離れた場所を選んでくれたらしい。
まさか、大村さんが俺のために手作り弁当を用意してくれるなんて思ってもいなかったので、感謝の言葉が見つからない。
大村さんの作ったお弁当。
きっと、彼女らしい優しい味がするんだろうな。
広場に着くと、彼女はほどよい場所を見つけて腰を下ろした。
俺も隣に座り、彼女が開けていくお弁当を覗き込んだ。
中には、可愛らしいタコさんウィンナーに、彩りの良い卵焼き、それに小さなハンバーグまで丁寧に詰められている。
忙しい朝の時間に、こんなに心のこもったお弁当を作ってくれたことに、心から感謝の気持ちが湧き上がってきた。
しかし、どうしてもそのお弁当を見ていると、花見の時に食べた市子の手作り弁当を思い出してしまう。
あれは本当に最高に美味しかった。
またすぐにでも食べたいと思うほど、完全に俺の胃袋は鷲掴みにされていたのだ。
そんなことを思い出しながらも、今は目の前にある大村さんの愛情が詰まったお弁当を、別のものとしてちゃんと楽しもうと心に決めた。
彼女から箸を受け取り、「いただきます」と手を合わせて、お弁当のおかずへと箸を伸ばす。
まずは定番の卵焼きからだろう。
美味しそうな黄色い卵焼きを箸でつまみ上げ、口の中へと運んだ。
「いただきます。……?」
俺はそう一言告げた後、口の中でもぐもぐと咀嚼した。
口の中に広がるのは、甘いのか、しょっぱいのか、何とも形容しがたい不思議な味だった。
舌の上には、ザラザラとした妙な感触がまとわりつく。
今まで味わったことのない、まさに独特な味だ。
これはきっとこういうものなのだろうと自分に言い聞かせ、それをなんとか飲み込んだ後、俺は再びお弁当の中を注意深く見つめた。
次はメインであろうミニハンバーグに手を伸ばす。
口に運ぶ直前、ちらりと大村さんの顔を見ると、彼女はいつもの優しい笑顔を浮かべていた。
一抹の不安を覚えながらも、意を決してハンバーグを口に入れた。
最初に襲ってきたのは、鼻を突くような強烈なソースの味。
その後に、まるでラードをそのまま食べているかのような、強烈な脂っこさが舌を覆う。
どうしたらこんな味が作れるんだろうかと思わずにはいられないほど、美味しそうな見た目とのギャップが激しい。
こんなにも美味しそうなのに、この味は予想外だ。
しかも、家庭的な雰囲気の大村さんが作ったお弁当だぞ。
彼女の手料理が美味しくないなんて、考えたこともなかった。
しかし、現実は容赦なく口の中でその事実を突きつけてくる。
そういえば、以前、里奈が家に泊まった時、彼女はカレーを振る舞っていなかったか?
里奈もそのカレーについて、特に何も言及していなかった気がする。
もし本当に料理が苦手なら、きっと後で話題になっていたはずだ。
今日はたまたまこういう味付けになってしまっただけで、普段はきっと美味しいのだろう。
必死にそう思おうとした。
しかし、正直なところ、箸は全く進まない。
体は正直だ。
俺の食欲がない様子を見て、大村さんは心配そうな表情で俺の顔を覗き込んできた。
「美味しくない……ですか?」
そんなこと、死んでも言えない。
俺はなりふり構わず弁当箱の中のおかずを口に掻き込んだ。
味なんて気にしている場合じゃない。
飲み込んでしまえばいいのだ。
口の中が食べ物でいっぱいになりながら、俺は絞り出すように言った。
「お、おいひいでふ!!」
これが今の俺の精一杯の言葉だった。
これ以上何か聞かれても、もう対応できない。
すると、彼女は嬉しそうに手を合わせ、答えた。
「良かったぁ。前の夫と将は、私の作ったご飯はカレーしか食べたくないって言われるので、味には自信がなかったんですけど、土方さんのお口には合ったみたいで嬉しいです」
安易に美味しいなんて言うべきじゃなかった。
将君の言葉を考えると、彼女の料理はカレー以外は期待薄らしい。
里奈が大村さんのカレーに触れなかった理由も、今なら納得がいく。
しかし、この強烈な味は、単に好みの問題なのだろうか?
とにかく俺は、味覚を麻痺させるように食べ続けた。
今更「もう無理です」なんて、絶対に言える状況じゃない。
気がつけば、大村さんの分のおかずまで平らげてしまっていて、慌てて頭を下げた。
しかし、彼女は満面の笑みで答えた。
「いいんです。私はコンビニで適当なものを買いますから。それより、土方さんの食べっぷりは気持ちがいいですね。また作ってくるので、その時は食べてくださいね」
この時、俺は悟った。
きっとこの先、彼女の料理の味について、本当の感想を伝える機会は永遠に訪れないだろうと。
そんな、何事もないような日々が過ぎていったある日の出張帰り、偶然学校帰りの将君を見かけた。
彼は一人で町中を平然と歩いている。
遠目から見ても、とても小学生には見えないほど堂々とした雰囲気だ。
少し距離があったので、声をかけようと一歩踏み出した瞬間、俺の足は止まった。
俺が声をかけるよりも先に、彼が何かを見つけたのか、立ち止まったからだ。
そして、先ほどまでの落ち着いた表情から一変、複雑な感情を滲ませ、うつむいた。
一体何があったのだろうかと注視していると、一人のスーツ姿の男が彼の前に現れた。
そして、親しげな様子で話しかけている。
年齢は俺とそう変わらないくらいだろうか。
しかし、明らかにその男からは、育ちの良さと経済的な余裕が漂っていた。
丁寧にセットされた髪型、穏やかで上品な顔立ち。
背は俺よりも高く、すらりと伸びた長い足。
着ているスーツも、安物の三点セットとは一線を画す、オーダーメイドのような完璧なフィット感で、上質な光沢を放っている。
明らかに、俺のよれよれの安物スーツとは別世界の輝きだ。
おまけに、いかにも遊び慣れている男が履きそうな、先の尖った革靴。
一体、この男は何者なんだ?
男はにこやかに将君に話しかけているようだが、将君の表情は硬い。
笑顔は一切なく、むしろ警戒しているように見えた。
次の瞬間、男は躊躇なく将君の手を握り、歩き出した。
将君は、まるで操り人形のように、男に手を引かれるまま歩いている。
――まさか、誘拐か!?
そんなことは考えにくいが、万が一のことがある。
俺は気になって二人についていくことにした。
いつ会社に戻れるか分からないため、とりあえず連絡を入れておくことにした。
最初に電話に出たのは、永倉君だった。
「あ、俺、土方だ。課長に急用が出来たから戻るのが少し遅くなるって伝えておいてくれないか?」
そう頼むと、永倉君はいつものように気だるそうな声で返してきた。
「土方? 誰ですか、それ」
嫌がらせとしか思えないその言葉に、俺は内心で舌打ちしながら答えた。
「こんな時に、ふざけるな」
「はぁ。俺が伝えるんですか?」
これ見よがしなほど大きなため息をついて、永倉君はさらに畳み掛けてくる。
お前以外に誰がいるんだよ!
怒鳴りたい衝動を必死に抑えつけながら、俺は目の前の二人を見失わないように早足で歩いた。
「急用とか言って、本当はサボりじゃないんですか? 土方さんだけ、ずるいですよ」
こんな状況だというのに、こいつは本当に……と思いながらも、確かに仕事ではなく個人的な用件なので強く言い返せない。
仕方なく、帰りに土産を買ってくることを約束し、課長にはうまく報告してもらうように頼み込んだ。
どうしていつも、こういう時に限ってこいつは余計な手間をかけさせるんだか。
ほんの一瞬、永倉君とのやり取りに気を取られた隙に、目の前から二人の姿が消えていた。
俺は慌てて、二人が向かったであろう方向へと走り出した。
そして、角を曲がったその瞬間、背後から強烈な力でスーツの襟を掴まれ、そのまま壁に激しく叩きつけられた。
背中に鈍い痛みを感じながら顔を上げると、そこに立っていたのは、先ほどのスーツの男だった。
男は鋭い眼光で俺を睨みつけている。
「お前は何者だ? さっきから俺たちを尾行しているのは、お前だろう」
まさかの状況の急変に、俺は言葉を失い、ただただ驚愕するしかなかった。