第55話 花見の席で女子社員にとんでもない誤解を受ける
気持ちを切り替えて、市子の弁当をじっくりと味わうことにした。
甘い卵焼きはもちろんのこと、丁寧に煮込まれた煮物や香ばしい焼き魚も実に美味い。
全体的に、心が安らぐような和食中心の献立だった。
俺たちはそんな弁当を囲みながら、すっかり会社の集まりのことなど忘れて、くだらない話で盛り上がっていた。
その時、突然、俺たちの目の前に一人の青年が立った。
白いフーディーにジーンズというラフな格好で、首にはヘッドフォンがかけられている。
彼が俺の顔を見た瞬間、信じられないものを見たような、奇妙な表情を浮かべた。
俺は思わず手に持っていた卵焼きを落としてしまい、呆然とその青年を見つめ返した。
彼は何も言わなかったが、何を考えているかは手に取るように分かった。
中年のおっさんが、若い女の子二人と柄の悪そうな男の四人で、場所取りのブルーシートを陣取って弁当を広げている光景。
きっと、ろくでもない想像をしているのだろう。
せめて、何か一言でも言ってくれれば、誤解を解くこともできるのに。
「永倉君、ずいぶん早い到着だね。集合時間までまだ時間があるよ?」
俺はできるだけ優しく、目の前の永倉君に話しかけた。
しかし、彼は露骨に顔を背け、ポケットに手を突っ込んだまま、その場を立ち去ろうとした。
だから、せめて一言くらい返してくれよ!
「待て待て待て。どこへ行くつもりだ?」
慌てて俺は永倉君を呼び止めた。
すると、彼はゆっくりと足を止め、こちらを振り返った。
その表情は、まるで凍てつく氷のように冷たかった。
「僕に話しかけないでください。僕とあなたは部外者ですから」
完全に誤解している。
俺に対する軽蔑の念が、さらに深まったことだろう。
市子は、俺と永倉君を交互に見比べ、持っていた箸をそっと置くと、少し腰を浮かせた。
「会社の人? 私たち、席を外すけど」
市子の気遣いはありがたかったが、俺は首を横に振った。
永倉君が早く着いたからといって、今さらこの三人を追い出すのは筋が違う。
「あいつが何か変な勘ぐりをしてるんだよ。ちょっと、あいつと話してくるわ」
そう言って、俺は立ち上がり、ブルーシートの端に置いていた靴を履くと、永倉君の方へ歩み寄った。
その間、永倉君はスマホの画面に視線を落としたままだった。
「こいつらは俺の知り合いなんだ。集合時間まで時間があったから、場所を提供してもらっていただけだ」
俺がそう説明すると、永倉君はスマホから一瞬だけ目を上げ、ブルーシートに座って弁当を食べている三人を一瞥した。
そして、眉間に深い皺を寄せたまま、俺に問いかけた。
「どう見たって、あの男の人、まともな人には見えませんよね。それに、他の女子二人も明らかに学生じゃないですか。大学生? いや、高校生くらいですかね。どっちでもいいですけど、そんな人たちと知り合いだなんて、やっぱり土方さんはまともな社会人じゃないですよ。普通の会社員に、そんな知り合いはいません」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
しかし、こうして知り合ってしまったのだから仕方がない。
俺は小さく息をついて、永倉君に落ち着いて話しかけた。
「確かに、お前の言う通り、普通の社会人が知り合うような相手じゃないかもしれない。けど、だからってあいつらが悪いわけじゃないだろう。俺も会社のシートを勝手に使ったのは悪かったと思うけど、使ってない場所を他の人が利用するのは、別に構わないんじゃないか?」
俺の言葉に、永倉君は露骨に面倒くさそうな顔をして黙り込んだ。
そもそも、この飲み会についても、勤務時間外の付き合いなら参加しないと頑なに言い張っていて、それを松平課長や芹沢課長がなんとか説得して、ようやく参加することになったのだ。
そんな彼が、まさか一番に集合場所に現れるとは、全く予想していなかった。
「永倉君、飲み会には乗り気じゃなかったんじゃないのか? それにしては、随分早い到着みたいだけど」
俺の質問に、永倉君は気まずそうな表情を浮かべた。
「そうですよ。けど、知らない場所で迷うのも嫌なんで。休日の予定も急遽変更しなきゃならなかったし、無駄に時間が空いたんですよ。なら、散歩がてらに早めに花見でもしようかと思ったら、土方さんが訳の分からない人たちと弁当を食べているじゃないですか。もう、意味が分かりません」
どうやら、永倉君は初めての状況にどう対応していいか分からず、戸惑っているらしい。
ならば、なおのこと、新しい環境に少しずつ慣れてもらうしかないと思った。
「そうか。なら、一緒に市子の弁当でもどうだ?」
「はぁ?」
俺の提案に、永倉君はこれ以上ないほど驚いた表情を見せた。
彼がこんなに露骨に驚く顔をするのは初めて見た。
「なんで僕まで、この人たちと弁当を食べなきゃならないんですか? 絶対嫌ですよ」
「そう言うなよ。市子の弁当は本当に美味いんだぜ。それに、どうせ集合場所はここなんだから、遠慮せずにまずは座ってみろよ」
俺はそう言って、半ば強引に永倉君をブルーシートの方へ促した。
最初は露骨に抵抗していた彼も、二人の女子高生にその様子を見られていることに気づくと、さすがに騒ぐのをやめた。
そして、ブルーシートの端に、所在なさげに腰を下ろした。
俺は元の場所に戻り、そんな永倉君に改めて声をかけた。
「永倉君も、こっちに来て一緒に食べようぜ」
「遠慮します! そもそも、僕は他人が作った料理は口にしないんです」
彼はそう言って、顔を背けた。
俺は、やれやれと困った表情を浮かべるしかなかった。
それを見ていた里奈が、不思議そうに俺に質問してきた。
「なんなの、あの人。敏郎の会社の人?」
女子高生の口から、俺の下の名前である『敏郎』が出てきたことに、永倉君は露骨に反応した。
もう、市子たちとの関係を永倉君に説明するのも、なんだか面倒になってきた。
「今年入った新入社員だよ。俺があいつの指導係なんだ」
「敏郎が指導係? おっかしぃ」
里奈はそう言って、楽しそうに笑った。
俺が指導係だったら、笑えるほどおかしいことなのか?
気づけば、四人で囲んでいた弁当の中身は、かなり減っていた。
市子曰く、残っても家で喜んで食べてくれる輩がたくさんいるらしい。
なんとなく想像できるが、深く考えるのはやめておこう。
そして、市子が空になった弁当箱を片付け始めたのを合図に、里奈と小林も立ち上がった。
「邪魔しちゃってごめんね。私たちはこれで帰るから」
市子の言葉に続いて、俺も申し訳なく思って頭を下げた。
「悪かったな。せっかくの花見なのに、水を差すようなことになっちまって」
「全然。おかずもたくさんあったし、人数が多い方が楽しいものよ。敏郎も、これから会社の人たちと花見でしょ?飲みすぎないようにね」
市子の優しい気遣いに、俺は小さく笑って「わかってる」と答えた。
彼女の、こうした大人びた対応には、いつも頭が下がる思いだ。
俺は市子たちを見送り、再びブルーシートの上に腰を下ろした。
そして、相変わらず背中を向けて座っている永倉君に、改めて声をかけた。
「お前も、そんなに意地を張らずにこっちに来て話せばよかったのに。あいつらは、見た目ほど悪いやつらじゃないぞ」
「そういう問題じゃありません。僕は、傍目から疑われるような行動は取りたくないだけです。土方さんにどんな事情があろうと、世間がそれを理解してくれるとは限りませんからね」
永倉君の言い方は相変わらず棘があるが、彼の言いたいことも理解できる。
小林が反社会的な人物であることは否定できないし、だからといって俺たちとの間に問題のある関係があるわけではない。
女子高生である市子たちとも、健全な関係を保っているつもりだが、それを世間がどう見るかは全く別の話だ。
永倉君のように良く思わない大人も多いだろうし、誤解を招く可能性も十分にある。
しかし、だからといって、彼らを突き放すような真似はしたくなかった。
すると、彼はこっそりと俺に、スマホで撮影した一枚の画像を見せてきた。
それは、俺と里奈、そして市子が弁当を食べている様子を捉えたものだった。
気を遣ったのか、小林だけは画面の外にいる。
しかし、気づかないうちに、そんな写真を撮られていたとは。
「こんな写真、他の人に見られたら、まずいですよね」
永倉君は、どこか得意げな表情で俺に話しかけてきた。
「それは脅しか?」
俺も負けじと問い返した。
「そんなそんな。土方さんにも、一つや二つ秘密があるっていう証拠を残しただけですよ」
俺は段々と永倉君の言動に苛立ちを覚え始め、彼が少しでも気を抜いた隙に、そのスマホを奪い取った。
すると、永倉君は慌ててそれを取り返そうと、俺に覆いかぶさるようにして無理やり奪い返そうとした。
「ちょっと、返してください!」
「嫌だ!画像を消すまで返さない」
「消さないとは言ってないじゃないですか!? 僕のお願いを一つ聞いてくれたら、ちゃんと消しますよ!」
その言葉に、俺は動きを止めた。
「お願い?」
冷静になって、俺は永倉君に尋ねた。
彼は必死過ぎて、息を切らしている。
「そうです。僕は、勤務時間外で仕事の付き合いをするのは、フェアじゃないと思っているんです。だから、これから時々僕が多少サボったとしても、見て見ぬふりをしてください」
フェアじゃないって、一体どういう価値観だと思いながらも、改めて考えてみた。
彼は、この間の出張帰りのカフェでの一件を、まだ気にしているようだ。
俺がそばにいる限り、永倉君はサボることができないと思っているらしい。
そんなことをわざわざ了承を得ようとするのは、彼が根は真面目な人間だからだろう。
俺たちだって、トイレに行くふりをして煙草休憩をすることは日常茶飯事だし、公認とは言えないまでも、多少のサボりは仕方がないとは思っている。
「わかった。ただし、お前がサボる時は、俺も一緒にサボる」
そう言って、俺は永倉君に向かってニヤリと笑ってみせた。
彼は、ほんの少しだけ恥ずかしそうに顔を歪めたように見えた。
その時、俺たちの背後から、芹沢課長の声が聞こえてきた。
「君たち、一体そんなところで何をやっているんだい?」
課長の隣には、並木も立っていて、俺たちの姿をどこか嬉しそうに眺めている。
その時の俺たちの体勢といえば、俺がブルーシートの上に倒れ込み、永倉君が息を切らしながら俺に覆いかぶさっているという、なんとも誤解を招きかねない状況だった。
俺たちは慌てて身を起こし、距離を取った。
並木が俺たちに対し、良からぬ想像をしているのは一目瞭然だった。