第54話 女子高生と花見をする
土曜日の朝から、なぜ俺が花見の場所取りなどしなければならないのかと悶々と考えながらも、会社から持ち帰ったブルーシートを広げ、端に手近な石を置き、中央に座っていた。
数年前、飲みの席で近所に良い花見スポットを見つけたと平松課長の前で何気なく話したことが、まさかこんなことになるとは思いもしなかった。
平松課長は優秀な人材だが、部下に対して容赦がないところがある。
こうして何気なく話した会話でさえ記憶し、使えるものなら何でも使う男だ。
そう考えると、芹沢課長は良かった。
報告書は秒で返却してくるし、野球の話がとにかく長かったが、社員に対して割と温和な人だった。
時々、とんでもない要求をしてくることもあったが、平松課長ほど多くはない。
それに、何と言っても平松課長は俺や近藤さんと年齢が近く、同世代の出世頭だ。
そんな優秀な人物に指示を受けるようになるのは、それなりに複雑な心境だった。
これもサラリーマンの性というやつなのだろうか。
そんなことを考えながら、所在なく川沿いの桜を眺めていた僕の目に、ふと一人の女性が映った。
緩やかな風に誘われるように、彼女は歩いてくる。
そして、目の前にそびえ立つ大きな桜の木の前で足を止めた。
風に揺れる黒髪が、陽光を浴びてきらきらと輝いている。
舞い落ちる桜の花びらが、その美しさを一層際立たせた。
白いワンピースが清楚な雰囲気を醸し出し、すらりとした立ち姿に見惚れてしまう。
その刹那、川面を滑るように、一陣の風が吹き抜けた。
桜の香りが運ばれ、花びらが雨のように降り注ぐ。
彼女は、その風に顔を背けるように、ゆっくりとこちらを向いた。
そして、目が合った。
吸い込まれそうな、深く大きな黒い瞳。
意志の強さを感じさせる眉、そして、上品なまつ毛。
微かに艶めく薄紅色の唇が、印象的だった。
その瞳を見た瞬間、僕は、まるで時間が止まったように感じた。
というより、この顔を最近よく見るような気がする。
そして、次の瞬間、また聞き覚えのある声が聞こえた。
「お市、いい場所あった?」
目の前の彼女に話しかけたのは、女子高生らしきギャルだった。
ブリーチのかかった金髪に、つけまつげなのか長くはっきりとしたまつ毛。
カラコンを入れているせいで、目の色が薄い。
袖がシースルーのジャケットに、相変わらずのデニムの短パン姿だ。
里奈はすぐ俺に気が付き、指をさしてきた。
「敏郎! なんでここにいるの?」
「それは、俺のセリフだよ」
座ったまま、呆れながら里奈に答えた。
犬も歩けば棒に当たるというが、おっさんが休日出掛ければ馴染みの女子高生に出会うものなのか?
里奈は嬉しそうに俺のところまで駆け寄り、話しかけてきた。
「桜が見事に満開になったから、休日花見しようってお市たちに提案したの」
考えることはみんな同じかと改めて思いながら聞いていると、なぜか里奈が靴を脱いで俺の座るブルーシートに上がり始めた。
俺はそれを慌てて止める。
「だから、なんでお前がここに上がってくるんだよ。今から花見なんだろう?」
「そうだよ。ちょうどいいから、敏郎が確保しているこの場所で食べようかなって思って。いい場所取ってんじゃん」
そりゃそうだ、朝早くから場所取りしているのだからと文句を言ってやりたい気持ちだったが、黙っておいた。
恐らく課長たちが来るのは昼過ぎだ。
その間までは、里奈たちに場所を譲ってもいい。
市子も里奈の後ろからついてきて、手に持っていたバスケットをブルーシートの上に置いた。
随分と大きな弁当のようだ。
「今日は市子の手作りだよ。敏郎も運がいいね」
里奈はそう笑って、しっかり俺の横を陣取っていた。
市子も呆れた表情ではあったが、俺に問題ないか尋ねてから、弁当を広げる。
こういう時に市子が常識的な人間だと実感する。
それに比べて、里奈は破天荒というか、行き当たりばったりというか、何を考えているのかわからないやつだ。
しかし、こうして見ている分には飽きないし、どこか守ってやりたくなる。
そこが里奈の良いところかもしれない。
「そういえば、他にも誰か来るのか? さっき、『お市たち』って……」
自分で言った後に、嫌な予感が頭をよぎった。
その予感はなぜだか当たるのだ。
「あぁにきっ!!」
そう言って、後ろから軽そうな男の声が聞こえ、背後から抱き着いてきた。
明らかに反社会的な人間に後ろから羽交い締めにされるように抱き着かれたら、命の恐怖しか感じない。
俺は慌てて小林から離れて、距離を置いた。
「やっぱりお前か!小林! いい年こいた男が後ろから抱き着くな」
小林は残念そうに指をくわえ、俺に訴えるような目線を向ける。
男にそんな顔を向けられても、俺は嬉しくないんだよ。
「なんすか。なら、お嬢や里奈嬢だったら良かったんすか? ほんと、土方の兄貴は欲張りっすねぇ」
今度は肘をつき、疑わしそうに俺を見つめる小林。
そういう誤解を招く発言を女子高生の前でしないで欲しい。
「急に来られてビビらない奴なんていないだろう。お前は普通に出て来いよ」
俺はそう言って、改めて座り直す。
気が付けば、目の前には市子の作ったお弁当が並べられている。
おせちの時のも思ったが、市子の弁当は見た目も綺麗で美味しそうだ。
「時間ないんでしょ? みんな、早く食べちゃって」
俺の待ち合わせの人たちのことを思ってか、市子は里奈と小林に告げる。
俺もみんなが来る前にこんなご馳走を食べていいのか躊躇ったが、これも場所取り係をさせられた報酬と考えて、先に楽しませてもらおうと思った。
最初に定番の卵焼きを箸で取る。
市子の卵焼きは甘すぎず、濃すぎず、ちょうど良い塩梅で本当においしい。
これなら、小料理屋も出せるんじゃないかというレベルだ。
それに、量も半端なかった。
俺がいるなんて市子は知らなかっただろうから、これが三人分のつもりで作ってきたのだろう。
本当にすごいと思う。
「ほんと、お嬢の飯は何食ってもうまいっすよ。タオちゃんの次にうまいっす」
俺は小林のその発言を聞いて、一瞬箸が止まる。
「タオちゃん?」
初めて聞く名前だ。
しかも、小林の口から女の名前が出るとは。
「タオさんは小林の奥さん。今は居酒屋を経営していて、その料理がとっても美味しいのよ」
奥さん?
俺は市子が何を言っているのか理解できなかった。
「誰の奥さんだって?」
「だから、小林の奥さん」
俺はこの時、聞き間違いだと信じたかった。
だって、あの小林にだぞ。
嫁さんがいるなんて、信じられないだろう。
「何驚いてるの? 別に組員になったら結婚できないなんてルールはないのよ」
市子は呆れた表情で答える。
そんなことは分かっている。
しかし、40歳にして未婚者である俺にとって、それはそれでかなり衝撃的な事実なのだ。
小林は俺よりも10歳は年下だし、金があるようにもスペックがあるようにも思わない。
組長の孫の世話係なんて立場が高いとも思えないし、本人も下っ端だと証言していた。
なのに、嫁さんがいるだなんて、何とも言えない敗北感を覚えた。
「タオさん、とっても綺麗な人なの。小林ってこう見えて、結構モテるのよね」
俺の傷をさらに抉っているとも気づかず、市子はなぜか楽しそうに答えていた。
信じたくない事実だった。
芹沢課長も寿退社するというし、俺の身近な独身男はもう沖田ぐらいしか残っていないのではないだろうか。
いつもはどこか隠しおいていた孤独感が一気に迫り出す感じがした。
「敏郎、花見なんだからちゃんと鑑賞しないと意味ないよ」
里奈は市子の弁当をバクバク食べながら俺に忠告する。
お前こそ、花より団子って感じじゃないか。
「そうっすよ。花見なんすから、見なきゃ勿体ないっすよ」
小林はそう言って、弁当の中の桜型のニンジンを放り込んでいた。
俺の自尊心は完全に下がっていると思う。