第53話 新入社員の大騒動に巻き込まれる
会社に戻り、掲示板の名札を元に戻した後、部屋の奥にいる課長に報告しようと手を挙げた。
その時、横から大きな叫び声と共に何かが迫ってくるのを感じた。
叫び声のする方に目を向けた瞬間、熱いお茶の入った湯のみとお盆が、一直線に俺に向かって飛んでくる。
避けようのない熱さが腕に広がり、スーツの3分の1がみるみる水分を吸い込んでいった。
「あちっ!」
ジャケットを慌てて脱ぐと、熱いお茶はワイシャツにまで達していた。
考えるより先にそれを脱ぎ捨てる。
そのままにしておけば火傷しそうだったからだ。
そんな俺の姿を、永倉君が険しい表情で見ている。
会社に着くなりいきなり服を脱ぎ出すなんて、相当変わった奴だと思っているのだろう。
その目に、ほんの少しばかりの軽蔑の色が混じっていた。
しかも、俺にお茶がかかった瞬間は見ていなかったらしい。
複雑な表情で立ち尽くす俺と永倉君の前に、斎藤さんが慌てて駆け寄ってきた。
そして、縋るような目で俺を見つめ、足元にしがみついてきた。
その光景に俺はぎょっとする。
隣の永倉君の目は、さらに深い軽蔑の色を帯びていた。
帰ってきたばかりなのに、一体俺の身に何が起きているのか理解できなかった。
「め、面目次第もございませぬぅ!わたくし、茶を運搬の折、不注意により足を引っ掛け、斯様な失態を招きましたこと、深く、深く、お詫び申し上げます!貴方様に火傷を負わせ、更には御傷など残してしまえば、いかなるお詫びの言葉もございません……。もはや、この身を以て責を負う覚悟。切腹つかまつります!切腹つかまつりまするぅ!」
しかもなんで、口調が武士っぽいのかも意味不明だ。
斎藤さんは俺の足元で騒ぎ出し、急に胸元から小刀を取り出した。
そもそもそんな物を持ち歩いているだけでも物騒なのに、なんで胸元から出てくるんだと突っ込みたかったが、今はそれどころではない。
俺は必死になって、しがみつく斎藤さんを剥がそうとした。
すると、そのまま床に倒れ込み、起き上がったかと思うと正座し直し、切腹の体勢に入る。
俺はそれに気が付いて、慌てて斎藤さんを止めた。
「ちょ、まじで勘弁してくれ!こんなこと切腹するほどの失態じゃないし、ここでそんなことされても困るから!」
「な、ならば、如何様に償えばよろしゅうございましょうや……。どうか、どうか、わたくしに御罰をお与えくださいませ。二度と斯様な失態を演じませぬよう、厳しき御沙汰を!」
斎藤さんは再び俺の足元にしがみついてきた。
こうなったら、もうどう対処していいのか分からない。
その騒ぎに気が付いた大村さんが慌てて俺たちに駆け寄って来た。
そして、急いで転がった茶碗とお盆を拾い上げ、泣き崩れる斎藤さんを起こす。
「さ、斎藤さん、お茶運びはいいですから、別の仕事をしましょう」
彼女はそう斎藤さんを宥めて、給湯室の方へと連れて行く。
離れる直後に俺の方へ振り返って、ごめんなさいと小さく謝った。
別に大村さんは何も悪くないのに、指導係は大変だなと思った。
そのタイミングで、出先から戻ってきた沖田がタンクトップ姿の俺を見て、嬉しそうに笑いかけてくる。
「なんすか、なんすか、土方さぁん。筋肉自慢っすかぁ?水臭いなぁ。なら、俺も参加しますよ!」
沖田はそう言って服を脱ぎ始めたので、俺は瞬時にそれを止めた。
「お前は脱がなくていい」
「なんでですかぁ?土方さんだけずるいっすよぉ」
何がずるいんだと言いながら、沖田を窘めるが、その後ろではさらに複雑な表情をした永倉君が立っていた。
もう、永倉君の中の俺のイメージがどうなっているのかすら、想像したくなくなっていた。
ひとまず、ひと騒動終えて、自分の席に戻ると、永倉君には今日の報告書をまとめるように指示した。
その後すぐに沖田の席に向かい、ジムで使うTシャツを無理やり奪う。
いくらスーツが濡れたからと言っても、さすがにタンクトップ姿で仕事はできない。
課長も一部始終を見ていたのか、Tシャツ姿の俺を見ても笑顔を向けるだけで何も言ってこなかった。
課長がこういうことにおおらかな人で良かったと思う。
そして、一息つきたかった俺は、そのまま給湯室に向かった。
給湯室にある社員共有のコーヒーを飲みに行くためだ。
新入社員がいる手前、出先から帰ってまっすぐ煙草を吸いに行くのもどうかと思ったからだ。
給湯室に入ると、斎藤さんの代わりにお茶を運び終え、少し疲れの見える大村さんがシンクの前に立っていた。
俺は同情するような眼差しを向けて、彼女に一言声をかけた。
「ご苦労様」
その声に気が付いた大村さんがゆっくりと俺の方へ顔を向ける。
そして、少し間を開けた後、小さく笑った。
相当お疲れのようだ。
とはいっても、俺も他人ごとではない。
斎藤さんのように暴れることはなくても、曲者新入社員の指導係なのは同じだ。
「なかなか苦戦しているようですね。まぁ、俺も同じようなものですが」
俺はそう言って、棚からマグカップを取り出して、コーヒーを注いだ。
すると、大村さんは珍しくそのまま壁に背中を預けるようにして立ち、小さく息をついた。
「もう、歳なんでしょうか。今の若い子たちの考えに全然ついていけません」
大村さんは呆れたように言うけれど、斎藤さんを最近の若い子のジャンルに入れていいかは疑問だ。
しかし、大村さんからすれば、斎藤さんはジェネレーションギャップの塊のような人なのだろう。
俺自身、永倉君の指導をしていると同じように感じていた。
「俺も同じですよ。指導係なんて初めてじゃないのに、毎度戸惑うばかりです。しかも、今年はかなりの曲者ぞろい。手に負えなくても仕方がないんじゃないんですか?」
「でも、私は斎藤さんを一人前の社会人にしてあげたいんです。せっかくうちのような会社に入社してくれた新卒社員じゃないですか。初めての職場で、何もできなかったと思ってほしくないんです」
大村さんの話を聞いて、やはり彼女は優しい人だなと思った。
俺なんて、今すぐにでも匙を投げたい思いだったのに、そんな風に思える大村さんは本当に強い人だ。
「そうですよね。でも、無理は良くありません。あまり抱え込まない方がいいですよ」
俺のその言葉を聞いて、大村さんははと気づいたようだった。
そして、恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「わ、私、そんなに疲れた表情していました?」
「はい。全身から」
「やだっ!」
彼女はそう言って顔を手で覆った。
そのしぐさが何とも可愛らしかった。
彼女はそっと顔から手を放して、語るように話し始めた。
「斎藤さんのことだけじゃないんです。最近、いろいろあって、ちゃんと休めていないのもあるんです。情けないですね、私。こんなことで落ち込んでいる場合じゃないのに」
彼女の言葉からは責任感の強さを感じた。
大村さんは本当に真面目な人だと思う。
弱音なんてほとんど吐いたところを見たこともないし、いつもにこにこ笑って話しかけてくれる。
俺たちにとってそんな大村さんが当たり前に感じているけれど、それはすごく大変なことじゃないだろうかと感じた。
そして、今俺に出来ることも多くはないけれど、だからこそちゃんと面を向って伝えようと思った。
「そんなことないですよ。大村さんにはいつも感謝しています。斎藤さんのことだけじゃなくて、俺たちにもいつも気を使ってくれて。給湯室がいつもきれいなのも、こうしてコーヒーが飲めるのも大村さんたちがちゃんと管理してくれているからなんですよね。だからこそ、俺たちに手伝えることがあったらいつでも声をかけてください。大村さんの頼み事なら、俺は喜んで引き受けますから」
俺はそう言って大村さんに笑いかけた。
しばらくの間、無言で俺の顔を見つめていた大村さんだったが、すぐに笑顔を取り戻して、笑い返してくれた。
やはり、大村さんは笑顔の方が似合う。
そんないい雰囲気の中、突如、広報部の松平課長が給湯室に顔をのぞかせ、俺を見つけると容赦なく声をかけてきた。
「おお、土方ここにいたか。そういえば、お前、家の近くにいい花見スポットがあるとか言ってたよなぁ」
突然何事かと思いながらも、頷いて見せる。
ひと昔前にそんな話をしたような気がする。
そんなことをよく覚えていたなと一人感心していた。
「今年の新入社員歓迎会と送別会、花見でやろうって話になったんだ。だから、お前、今度の土曜、場所取りよろしくな。場所は任せるから」
俺はその言葉を聞いて、唖然とした。
まさか、突如、俺が花見の場所取り当番にさせられるとは。
これって、今どきの若者からすれば、なんちゃらハラスメントで訴えられるケースじゃないかと心で悪態付きながらも、引きつった顔で了承した。