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第52話 新人君と挨拶回りに出かける

俺たちは電車に乗り、得意先へ挨拶回りに行った。

これと言って具体的な用件があるわけではなかったが、取引先にはこまめに顔を出すことが肝心だ。

そのことについて永倉君に説明しても、いまひとつ納得がいかないようだった。

彼に言わせれば、「コスパが悪い」らしい。

しかし、営業とはそういうものだろう?

営業先の店の前に立ち、永倉君に失礼のない挨拶をするようにと指導した。

朝からの彼の行動を見ているだけで、俺はイライラが募っていた。

なぜなら、沖田に劣らず始業時間ぎりぎりに出勤してくるからだ。

それを注意すると、彼は真顔であっさりと答えた。

「始業時間には間に合っているんだから、問題ないですよね?」

そういう問題ではないだろうと一喝してやりたかったが、ここで叱責でもすれば人事部に何を言われるかわからない。

彼曰く、始業開始前に出勤して仕事をした分の給料は一円も入らないのに、会社がそれを強要するのはおかしいとのことだ。

それも理屈としては理解できなくはないが、そんなぎりぎりの時間で何かあった場合のことを考えていないのだろうか。

そもそも彼の問題は、挨拶をしない、返事をしないことだ。

会社に入り、自分の席に着くまでの間、彼はイヤホンで音楽を聴いている。

そして、その間に誰かが挨拶をしても、基本的に無視を決め込む。

後になって注意すると、「音楽を聴いていたので聞こえませんでした」と答える。

すみませんの一言くらいあってもいいだろう。

彼が謝っているところを俺は一度も見たことがない。

謝ったら死んでしまうような病気にでもかかっているのか?

そう考えると、今日の営業の挨拶回りも不安だった。

取引先で失礼な態度を取るのではないか、不愛想な返事をするのではないかという懸念が頭をよぎる。


俺は店の扉を開け、元気よく店員さんに声をかけた。

店員さんも俺に気づき、笑顔で返してくれた。

社長を呼んできますといって一人が店の奥に入ると、このタイミングで俺は残っている店員さんに永倉君を紹介した。

「新人の永倉です。何かとご迷惑をおかけすることもあるかとは思いますが、どうぞ温かい目で見守ってやってください」

すると周りにいた店員さんが楽しそうに笑って答えた。

「土方さんとこの新人?珍しいわね。最近は代わり映えしない顔ばっかりだったから」

俺もここに来るのは長いので、店員さんも冗談交じりにからかってくる。

しかし、これも一つのコミュニケーションだ。

ここで永倉君がどんな挨拶をするのか心配になった。

なんせ、新入社員の挨拶の時もひどいものだったからだ。

だが、永倉君の顔を見てそうではないのだと気が付いた。

彼は今までにないほどの爽やかな笑顔を浮かべていたからだ。

元の顔立ちが良い所為もあって、店員さんたちも彼の姿に釘付けになっていた。

「ご紹介に預かりました、新人の永倉です。一日も早く皆様のお役に立てるよう、精一杯努めてまいりますので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」

彼はそう挨拶し、今までにないぐらい丁寧なお辞儀をした。

永倉君!?

俺は心の中で彼の名前を呼んだ。

っていうか、まるで別人じゃないか。

そんなスキルがあるなら、どうして会社では見せないんだと聞きたかったが、とりあえずこの場を穏便に済ませた。

そんな彼を見た店員たちは嬉しそうに近寄り、楽しげに話しかけていた。

なんだか、俺の知らない乙女のような雰囲気を漂わせている気がする。

すると、奥から社長が出てきて、嬉しそうに俺の名前を呼んだ。

俺もすぐに近づいて挨拶し、同じように永倉君を紹介した。

彼は先ほどと同じように丁寧に挨拶をし、社長にも好印象を与えたようだった。

一体どうなってんだ……。

店員の一人が工場内を案内してくれるというので、永倉君はついていった。

なんだかとっても楽しそうに店員たちと話している。

そんな彼を見て、一気に力が抜けたのか、思わず溜息が漏れると、隣にいた社長に気づかれて笑われた。

「なんだ、土方君。新人教育に苦労しているのか?」

「社長の観察眼には敵いませんね。ええ、まあ。今は殊勝な好青年を演じてますが、会社じゃあ好き勝手やってくれて、本当に手を焼いているんです」

その話を聞いて、社長は大笑いした。

そんなに可笑しかっただろうか。

「いやあ、社員教育なんて、いつの時代も同じだよ。新しい世代の考えに戸惑うのは当たり前のことだ。僕はね、土方君。色んな人間と関わるたびにね、価値観はそれぞれ違うんだなと思うんだよ。同じ人間は一人もいないし、自分の常識に全て共感する人間もいない。そんな他人を指導するっていうのは大変なことさ。けどね、悪いことばかりじゃないんだよ。僕たちの年になるとね、どんどん若い人と関わる機会が減る。そうすると、どんどん彼らの考え方から置いていかれるし、視野も狭くなる。それじゃあ、つまらないだろう?今は手を焼いて苦労するかもしれないが、それはいずれ君の力にもなる。新人の永倉君も今は先輩の話なんて聞きたくないだろうけど、将来、もっと年を取った時に土方君の言葉が響いたりする。人間関係なんて、そんなもんなんだよ」

本当にこの店の社長の言うことは勉強になると思った。

社長は俺なんかより、ずっと多くの社員や人と関わっているんだろう。

小さな会社だと社長自ら指導することもあると思う。

俺みたいに都合が悪いと逃げているわけにもいかない。

苦労してきた人だからこそ、言える言葉だと思った。

「君も諦めずに、彼の言葉にちゃんと耳を傾けてごらん。最初は意味が分からない理屈でも、そのうち相手の人となりが分かってくれば、彼の考えも理解できるようになる。理解できるようになれば、自分がどんな言葉で相手に伝えればいいのかも見えてくる。そうすれば、全く理解できないと思っていた相手とでも、ちゃんと意思疎通ができるようになるんだ。なかなか根気のいることだけどね」

社長はそう言って、また、はははと笑った。

俺も社長の話を聞いて、頭ごなしに否定するんじゃなく、もう少し冷静に永倉君の話を聞いてみようと思った。

もしかしたら、永倉君にも永倉君なりの考えがあって、譲れないこだわりがあるのかもしれない。

それを理解できれば、理解した上で説明ができる。

それが人に寄り添うってことなのかもしれないな、と思った。

俺は社長にお礼を言って、そのまま他愛ない世間話をしながら、永倉君が戻ってくるのを待った。


帰り際、俺は永倉君に今日の営業先での態度について尋ねてみた。

すると、相変わらず無表情で淡々とした口調で答えた。

「だって、取引先って大事じゃないですか。リアルなマネーが発生する場所っていうか、お客さんにいい顔をして損はないでしょ?」

彼はそう言って、親指と人差し指で輪を作り、お金のジェスチャーをした。

なんて現金な奴だと思ったが、理解できなくもない。

俺たちは会社から給料を貰っている。

しかし、そのお金は取引先が報酬として支払ってくれるものの一部だ。

仕事をする理由は色々あるだろうが、単純に言えば俺たちは生活費のために働いている。

だから、どこから金が巡ってくるかは重要なことだ。

そして、どうやって効率よく稼ぐかを重視する気持ちも理解できる。

けど、それだけで仕事をしてほしくはないとも思った。

「だけどさ、永倉君、やっぱり会社でのコミュニケーションも大事だと俺は思うんだ。そこに直接お金は発生しないかもしれないけど、その方が永倉君にとっては仕事がやりやすくなると思うぞ」

俺のそんな言葉に永倉君は一瞬考え込んだのか、黙り込み、そして静かに答えた。

「僕にはよく分かりません。僕は仲良しごっこのために会社に入ったわけではないので」

やはり考えは変わらなかったようだが、今までまともに耳を傾けようともしなかった永倉君にしては、一度考えるという変化を見せたのだから充分だろうと思った。

帰り道、彼が平然とカフェに入ろうとしたので、全力で制止する。

すると、彼はこう答えた。

「営業って外回りの時、サボれるのが特権じゃないんですか。僕はそのために営業を選んだんです」

本当に呆れてしまうような理由だったが、彼らしいと言えば彼らしいとも思った。

そして、最後に彼はぼそりと小さな声で付け加えた。

「そんなに真面目に働いていたら、いつか潰れちゃいますよ」

その時、彼の本音はここにあるのだとなんとなく分かった気がした。

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