第49話 とんでもない新入社員が入ってきた
気が付けば季節は春。
あの寒々しい冬を超えて、暖かい日差しが心地よくなってきた。
桜の花も少しずつ開花し、街を淡い色彩で染め上げていく。
行き交う人たちの足取りもどこか軽やかで、新しい日常が訪れる予感がしていた。
目の前には、真新しい制服に身を包んだ新入生だろうか。
友人と楽しそうに駆けていく姿は、春の陽気に誘われているようだった。
俺もまた、新たな気持ちで職場へと足を運んだ。
「新入社員を紹介します」
新年度の初日、社員一同が会議室に集められ、顔合わせの集会が開かれた。
目の前には、リクルートスーツを着た見慣れない若者二人が、なぜか並木と芹沢課長と共に立っている。
進行役の人事担当者が、隣に立つ男性の新入社員に促した。
「では、自己紹介をお願いします」
青年は小さく頷き、一歩前に進み出た。
うちのような、どちらかといえば地味な中小企業には不釣り合いなほどの好青年だった。
彼は、就職する場所を間違えてしまったのではないかと、余計な心配が頭をよぎる。
「永倉新五です。営業部に配属になりました。よろしくお願いします」
そう一言だけ言い残し、彼はあっさりと元の位置に戻った。
あまりにも簡潔な自己紹介に、進行役も一瞬戸惑いを隠せない。
「あの……何か趣味とか、興味のあることはありませんか?せめて、出身校や出身地だけでも教えていただけると、話の合う先輩もできるかと思いますが……」
進行役は、懸命に新入社員をフォローしようと努めている。
昨日まで学生だった彼らには理解できないかもしれないが、会社での第一印象は、今後の人間関係や評価を大きく左右する。
ましてや、うちの会社が新卒を採用するのは本当に久しぶりのことだ。
社員一同の視線が、否が応でも彼らに注がれている。
「趣味は別にないですね。興味関心ごとも特にないですし。あと、出身地とか出身校は言わなければいけませんか?個人情報なので、なるべく公表したくありません」
個人情報?
俺は呆れた表情で永倉を見つめていた。
社員との円滑なコミュニケーションよりも、個人の情報を守ることが優先されるとは、今どきの若者の価値観は、どうやら俺の想像とはかけ離れているらしい。
進行役もどう扱っていいのか分からず、あたふたしながらも、次の新入社員の紹介へと進んだ。
次に紹介されたのは、女性の新入社員だった。
彼女は、壇上に立った時から全身が小刻みに震え、顔色は青ざめている。
見るからに極度のあがり症のようだ。
ガチガチになった手足を懸命に動かし、一歩前に踏み出す。
「さ、さ、さ、斎藤一美です。そ、総務部に所属になりました。わ、私も、趣味とか、興味とか、と、特に……ありません。すいません。あ、あと、出身は、と、東京で、大学は、日本女子学園大学出身です。そ、その、よろしくお願いします!」
声は震え、ところどころどもっていて聞き取りにくい。
それでも、彼女の言葉の一つ一つに、精一杯の誠意が込められていることは伝わってきた。
この二人の新入社員は、まるで正反対だなと俺は思った。
その時、場の空気を読めない調子のいい社員が、そんな斎藤さんに声をかけた。
「日女なの?すげぇじゃん。頭いいんだね、君!」
何を調子に乗って社内でナンパ紛いのことを言っているんだ、と俺は発言した社員を睨みつけた。
すると、その瞬間、信じられないことが起こった。
斎藤さんが、突然悲鳴のような大声を上げたのだ。
「に、日女ではありません!!日本女子学園です!!偏差値45の、小規模なマイナー三流大学なんです!こんな頭の悪い奴が入社してきて、大変申し訳ありません。い、今すぐ、この場で命をもって謝罪いたしますぅ~~~!!」
そう叫ぶと、彼女はなんと、窓に猛ダッシュで駆け寄り、飛び降り自殺を図ったのだ。
他の社員たちが慌てて彼女に飛びつき、必死に制止している。
幸いなことに、ここは五階建てビルの二階だ。
高さは大したことはない。
飛び降りたところで骨折程度で済むだろうが、本当に飛び降りられては堪らない。
今年の新入社員は、とんでもない連中が入ってきたな、と俺は深く落胆しながら、眺めていた。
なんとかその場を収めた進行役は、疲労困憊の表情で次のアナウンスに移った。
「次ですが……今期で退社される社員の方々から、ご挨拶を頂きたいと思います。喜ばしいことに、寿退社される方と、起業されるとのことで退社される方が、お二名いらっしゃいます」
進行役は、明らかに言い淀んでいた。
二名ということは、新入社員の隣に立っていた並木と芹沢課長のことに違いない。
それを聞いた瞬間、隣に立っていた沖田の顔が、みるみるうちに青ざめていくのが分かった。
そういえば、バレンタインの時、沖田は並木に熱烈なアプローチをかけると息巻いていたっけ。
しかし、寿退社となると、相手がいるということ、つまり、沖田に脈はなかったのだと、ようやく理解したのだろう。
もし、並木が寿退社だとすれば、独立するために退社するのは、必然的に芹沢課長ということになる。
あの温厚な課長が、そんな野心家には見えなかったが、これまでの実績を考えれば、不可能ではないかもしれない。
しかし、このような公の場で独立宣言とは、課長もなかなか肝が据わっている。
進行役が、ごほん、とわざとらしい咳払いをして、退職者の挨拶を促した。
「それでは、まず、寿退社される芹沢課長、ご挨拶をお願いいたします」
んんっ?
俺は自分の耳を疑った。
聞き間違いか?
進行役が、緊張のあまりか、あるいは新入社員の騒ぎで混乱しているのか、退社の理由を間違えているように聞こえた。
まあ、そういうこともあるだろう、と俺は特に気にせず、その場を温かい目で見守ることにした。
そして、紹介された芹沢課長が、ゆっくりと前に進み出た。
「この度は、寿退社させていただくことになりました、芹沢です。皆さんとはもう長い付き合いになりますが、この結婚を機に――」
驚きのあまり、俺は課長のその後の言葉が、まるで遠い世界の音のようにしか聞こえなかった。
課長が、寿退社?
まず、あの芹沢課長が独身だったという事実に、衝撃を受けた。
ずっと奥さんも子供もいる、ごく普通の家庭人だと思い込んでいた。
しかし、よくよく考えてみれば、課長からそのような話を聞いたことは一度もない。
ということは、俺は今まで、課長を勝手なイメージで捉えていたということだ。
自分もこの歳で独身だというのに、情けない話だ。
しかし、それ以上に、なぜ課長が寿退社なのだろうか?
課長の年齢を考えても、今このタイミングで会社を辞める必要はないように思える。
すると、まるで俺の考えていることを見透かしたかのように、挨拶の途中で芹沢課長は、俺の顔に指をさして言った。
「土方君、今、『男が寿退社なんてありえない』って思ったでしょう!それ、セクハラだから!年齢での差別もエイジハラスメントだからね!!」
まさか、直属の上司である課長から、セクハラとエイジハラスメントを同時に宣告されるとは思わなかった。
さすが管理職は、ハラスメント研修をしっかりと受けているだけあって、知識が豊富らしい。
俺は、反射的に「すいません」と謝った。
驚いたのは事実だからな。
そして、次に並木の挨拶となる。
芹沢課長が寿退社だとすると、並木が企業のために退社する、ということになる。
企業のため、と言っても、並木はただの事務員だ。
独立して何か事業を興せるようには、到底思えない。
想像できるとしたら、せいぜい趣味の延長でネイルサロンを立ち上げるとか、あるいは得意のファッションセンスを活かしてネットショップを始めるくらいだろうか。
「大変お世話になりました。わたくし、並木千鳥は、ついに独立して運送業を始めることにいたしました。昨今、運送業の人手不足問題は、深刻な社会的課題となっております。よってわたくしは――」
こちらの挨拶も、芹沢課長の衝撃的な告白と同様に、全く頭に入ってこなかった。
並木が起業するのは、運送業!?
確かに今は人手不足らしいけれど、なぜ並木が、よりによって運送業を選んだのだろうか。
もしかして、そっちの業界は儲かるとか、安易な考えで飛び込んだのだろうか。
俺がぼんやりとそんなことを考えていると、隣にいた芹沢課長が嬉しそうに、並木に話しかけていた。
「並木君、大型免許持ってるもんねぇ。この数年で、あらゆる資格を取って、本当に勉強熱心だと、僕は日頃から感心していたんだよ。並木君は、本当に世のため、人のために動ける子だね」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の並木のイメージが一気に変わった。
凄い努力家で、しかもワイルドじゃないか。
いつもは、どこかちゃらちゃらしていて、仕事に対するやる気もなさそうな奴だと思っていたが、裏ではそんな並々ならぬ努力を積み重ねていたとは、全く知らなかった。
男性社員たちは、驚きを隠せない表情をしている者ばかりだったが、女子社員たちは、既に並木の努力を知っていたのか、笑顔で温かい拍手を送っている。
そして、最後に進行役は、新入社員の教育係を指名した。
「永倉君の指導係は土方さん、斎藤さんの指導係は大村さんでお願いします」
その言葉を聞いた瞬間、俺は全身が凍り付いたように驚愕し、同時に、指名された大村さんと、目が合った。