第48話 バレンタインチョコを配る女子高生に会う
沖田はいつもの元気を取り戻しジムへ向かい、俺も家路を辿る。
駅を降りていつもの道を歩いていると、ふと、小さな人だかりが目に留まった。
何があったのかと近づいてみると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
「ああ、もう恥ずかしい。こんな時ばっかりやめてよ、ほんと!」
人だかりの中心には、一人の女子高生が立っていた。
彼女は、まるで壁のように並んだ大勢の黒いスーツの男たちを前に、腰に手を当て、信じられないといった表情で立っている。
男たちは皆、無言でその女子高生の前に掌を差し出し、何かを乞うているようだった。
彼らは整然と列を作り、深々と頭を下げながら順番を待っている。
すると彼女は鞄から取り出したタッパーを開け、一人一人の掌に黒い団子のようなものを置いていく。
その光景はまさに、鬼ヶ島へ向かう桃太郎と、それに従う家来たちのようだった。
それにしては随分と屈強な家来だが。
皆、それを手にすると、普段の厳つい顔つきからは想像もできないほど幼い笑顔になって口に運ぶ。
相当美味しいのだろう、歓声を上げるほど喜んでいる。
見た目はどう見てもそっちの筋の人間なのだが、その表情はまるで無邪気な子供のようだった。
一体、彼らは何をやっているのだろう。
普段なら目を逸らしてしまうようなその集団が、今日ばかりは周囲の視線を一身に集めている。
そして、女子高校生が全員に何かを配り終えると、突然、こちらに気づき、射抜くような視線で人だかりを睨みつけた。
その迫力に、見物人たちもさすがに居心地が悪くなったのか、黙って散っていく。
そして、その中に俺がいることに気づくと、彼女は一瞬、戸惑った表情を浮かべた。
さすがに見て見ぬふりはできず、俺は『やあ』と手を上げる。
その女子高生とは紛れもなく市子だった。
そして、ここは市子の実家らしい。
こんな場所に小野組の本宅があったとは、全く予想外である。
俺の存在に気づいた構成員が数人、険しい表情で近づき、威圧的な態度を向けてくる。
しかし、それに対し市子が鋭い声で制止した。
「やめな。堅気に構うなと言われてるだろう」
その姿は俺の知っている市子とは全く違った。
重みのある低い声で、周りを一蹴する。
それを聞いていた構成員たちも黙って引き下がった。
そして、市子は彼らを屋敷の中に引き下げさせ、一人俺に近づいてくる。
その様子を見ながら、俺は尋ねた。
「いいのか?」
「大丈夫。ここでは話しづらいし、別の場所に行きましょう」
彼女はそう言って、実家から離れて公園へ向かった。
屋敷の門の隙間から、明らかに俺を睨みつける殺意のこもった目線を感じ、背筋が凍る思いをした。
俺たちは近くの公園に行き、ベンチに座る。
市子の表情は疲弊していた。
「知り合いにあまり見られたくないのよね、ああいう場面。いかにも組長の親族って感じでしょ?この時期はあれが恒例なのよ。本当に困っちゃう」
市子はそう言いながら小さな溜息をついた。
俺は市子の持っている鞄をじっと見つめ、尋ねた。
「で、タッパーの中には何が入ってたんだ?俺には黒い団子のようなものを配っているように見えたんだが」
俺がそう言うと市子は驚いた顔を見せた後、吹き出すように笑った。
そして鞄の中からタッパーを取り出し、俺に見せる。
「これ!」
彼女はそう言って、タッパーを俺の顔に近づけた。
微かにココアの匂いが香る。
「チョコレート?」
「それ以外何があるの?今日はバレンタインなんだから、予想はできたでしょう?」
それもそうだと市子の言葉に納得した。
つまり市子は自宅前で構成員たちにバレンタインチョコをせがまれていたのだ。
昨日の市子たちの話からも、そんな話があったような気がする。
「トリュフ。クラスメイトに配って、余ったらあげるって言ったら、あの様よ。いつもなら出迎えは家の敷地内って決まってるんだけど、待ちきれなかったのね。目立つからほんと、やめてって言ってるのに聞かないのよ」
困ったものだと市子は呆れた表情で話していた。
しかし、そう言ったコミュニケーションも市子が嫌がっているようには見えない。
むしろ、直接的ではないかもしれないが、慕われているように感じた。
「そうか。そんなに大人数作ってたら、忙しくて本命チョコなんて作れないな」
俺が笑って話すと、市子は意外そうな顔をして、目線を外し、じっとタッパーを覗き込んだ。
もしかしたら、本命チョコを作るという発想すら市子にはなかったのかもしれない。
それぐらい彼女は忙しいということだろう。
「敏郎は、その、チョコもらったの?」
徐ろに市子は質問してくる。
俺はもらったチョコレートを頭の中で浮かべながら、頷いた。
「まぁな。どれも付き合いってやつだけどな。この歳で本命チョコとかねぇよ」
俺はそう答えて再び笑う。
自分で言いながらも、もう若くないのだなと実感して寂しくなった。
しかし、そんなこと、今青春真っ只中の市子たちには知られたくない。
市子は数秒黙った後、タッパーからトリュフを一つ摘み出して、自分の口の中に運んだ。
俺の横で残ったチョコレートをもりもりと食べるので何事かと思い、見つめていると、最後の一粒を手に取ってそれをじっと見つめていた。
そして、その最後の一粒を俺の口に近づけ、呆然としていた俺の口の中に入れた。
口の中に甘いチョコレートの味が広がる。
そして、ココアがいっぱいついた人差し指をそっと俺の唇に添えていた。
「なら、これを本命チョコにしてみる?」
彼女のいたずらっぽい笑顔が俺の視界を埋め尽くした。
ほのかに香る芳醇なカカオの香り。
きっと使っているチョコレートもいいものなんだろう。
しかし、それ以上に市子の手で作られたそのチョコレートは俺の心を躍らせるに十分な素材だった。
唇からそっと離れるその人差し指が愛おしい。
俺の鼓動は高鳴り、なかなか沈んではくれなかった。
相手は市子だぞと思う。
俺は女子高生なんて興味はなかったはずだ。
だから、こんなことでときめかない。
そう思ったはずなのに、少年時代、どこかに忘れてきたあの思いを呼び起こしてしまいそうになっていた。
「なぁんちゃって。冗談だよ。敏郎にだけあげないのは意地悪かなって思って、最後の一粒譲っただけだよ」
彼女はそう言って照れくさそうに笑い、立ち上がった。
そして、荷物を詰めて俺に向かって手を振る。
「もう、帰るね。敏郎もいっぱいチョコもらったからって浮かれて食べ過ぎないように。おじさんのニキビはかっこ悪いぞ。ってニキビじゃなくて、吹き出物かぁ」
市子は俺をからかいながらも足を自宅へと向けた。
そして、一度立ち止まって振り向いた。
「おやすみ、敏郎」
彼女はそう一言添えると走って公園を出て行った。
俺は何も言葉が出ず、呆然と市子を見つめるしかできなかった。
家に帰るとポストの中に手紙とチョコレートマフィンの入った紙袋が入っていた。
手紙は晴香からのものだ。
晴香がここまで持ってきてくれたかはわからないが、俺のために今年もバレンタインチョコを作ってくれたらしい。
正直なところ、今年は晴香の手作りは無理かと思っていた。
あれだけ晴香にひどいことを言ったのだから、嫌われていてもおかしくない。
しかし、今年もまた晴香は俺のために一生懸命チョコマフィンを姉貴と一緒に作ってくれたらしく、手紙にはありがとうの一言だけが書かれていた。
俺はそれを読み、心が温かくなる。
今は俺に会えなくてもいい。
いつか晴香が元気になって、今までのように楽しく学校に通えるようになったら、電話の一本でもかけようと思った。
俺は早速姉貴にお礼のメッセージを送って、その日はもらったチョコを少しずつ食べた。